二章・朱糸(4)

「あ、朱璃?」

 マーカスやアサヒは一歩踏み出し、その姿勢のまま固まって困惑した。果たしてこれは止めるべき事態なのかと。

「必要ありません」

 女王だけが笑いながら、そんな彼等に釘を刺す。

「言ってやりなさい、朱璃」

「もちろん。ねえ、アンタ、頭に蛆でも湧いてんじゃない? こんな低能が母親だなんて絶望するわ。まあ、オツムに関しちゃ父さんに似たんだから、仕方ない話だけれど」

「朱璃……」


 蹴られて、罵られ、なのに──緋意子は嬉しくて泣き出した。


「そう……だな。お前は彼に似て、賢く育った」

「そういうこと、アンタになんか、ほとんど似なかった。髪の色と顔の作りくらいのもんでしょ。胸だっていまだに小さいもの。アンタはそんなに大きいのに」

 言いながら朱璃は、その大きな胸に飛び込み、顔を埋める。いきなり体重を預けられた緋意子は結局倒れてしまったが、仰向けの姿勢でしっかり娘を抱きとめた。


 罵倒しながらも、自分を“母親”と呼んでくれた我が子を。


「知ってたわよ、バァカ……アタシを誰だと思ってんの。今世紀最高の天才が気付かないはずないでしょ。知ってた……母さんが人斬り燕をけしかけてきたのも、それが何のためだったのかも。全部、全部、必要なことだったんだから、どうでもいい。どうだっていいわよ……」

「そうか」

 知っていて、それでも言わなかった。自分はとっくに許されていたのだと知り、緋意子の心に溜まった澱は余計に暗く淀み、深く沈み込む。

 許されたからといって楽になれるはずもない。逆に自分がしてきたことの罪深さを強く実感した。最後に抱き上げてやった時とは比べ物にならない我が子の体重で、親の責任を放棄していた時間の長さもひしひしと感じる。

「すまなかった……」


 もう二度と手放したくない。

 でも行かせてやらなければ。

 それがこの子の願いだから。


 彼女は朱璃を抱いたまま起き上がり、自分の胸に埋もれて泣き顔を隠す娘の背を優しく叩く。こんなことをするのは赤子だった時以来。

「頼む、死なないでくれ。必ず帰って来て欲しい。それまで私も、ちゃんと母親に戻れるよう頑張っておくから」

「わかった……絶対よ」

「ああ」

 今度はハッキリ約束する。

 必ず、この子の親でいてみせると。

「お前の父さんに誓う。だから、またここで会おうな、朱璃」




 都市間連絡通路は真っ暗だった。電力が使えないのだから仕方ない。これだけ長いトンネルにいちいち火を灯しておくわけにはいかないし、魔素を使った照明も言わずもがなである。

 そこを、交代で疑似魔法を使い、光を灯しながら進んで行く一行。全員馬に乗っており、アサヒや朱璃を中心に他の面々が隊列を組んで行進する。地下八〇〇mの地下道で危険に遭遇する確率は低いのだが、念のためだ。

「いやあ、出発前に良いもんが見れたな」

「はい……本当に良かった……朱璃……」

 友之の言葉に同意しつつ、目尻に溜まった涙を拭うアサヒ。

 声はいまだに鼻声である。

「アンタね」

 呆れ顔の朱璃が振り返った。彼女は前回の道中と同じく、育て親のマーカスと背中合わせで騎乗している。

「当事者でもないのに、いつまで泣いてんのよ」

「だって……」

「そう言う班長だって泣いてたじゃないですか」

「泣いてないわよ」

 小波の言葉に言い返す朱璃。皆、強がりだと思った。あんなにハッキリ、母の胸の中で泣く彼女の姿を目撃したから。

 ところが直後、朱璃が取り出したものを見てギョッと目を見開く。

「さっきのはこれよ」


 液体の入った小瓶。

 アサヒも一拍遅れて察する。


「なっ、そっ、まさか……」

「そう、目薬」

「ええええええええええええええええええええええええええええええええっ!?」


 あんな、長年決裂していた母子の関係が修復された感動の場面で、目薬?

 でも朱璃ならやりかねない。全員が次の瞬間には、そう思った。

 そこへ本人が畳みかける。


「ああでもしないと、あの人、素直にならないでしょ? それに約束させておけば、今度こそちゃんと“母親”をやってくれるだろうし。有言は実行するタイプだから」

「じゃ、じゃあ、あれは局長から言質を引き出すための演技!?」

「マジすか班長!?」

「ひええ……怖いです、あの人。姉様の苦労が偲ばれます」

「そうだろう」

 風花の言葉に対し、実感のこもった相槌を返すカトリーヌ。王室護衛隊の大谷 大河も「流石は殿下……」と天を仰ぐ。

 だがマーカスだけは違った。彼女の名誉のため他の面々には聞こえないよう小声で囁きかける。

「あの時、目薬を差す暇なんか無かったろ。たまにゃ弱味もみせてやれって。南の連中はともかく、仲間にくらいはよ」

「嫌。アイツらにイジられるなんてお断りだわ。アタシは憎まれっ子でいいの。その方が世に憚るでしょ?」

「難儀な性格してやがる」

「親に似たもの」


 朱璃も嬉しかった。母が自分の殺害依頼を行ったと告白した時、逆に喜んだ。墓場まで持って行くと思っていた秘密を、正直に打ち明けてくれたから。

 今度は皆にも聞こえるように言ってやる。


「母さんも、流石はアタシの親よね。まったく、母子揃って人でなし」

「ちげえねえ」

 マーカスも思わず吹き出した。

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