扉の向こうに
文月瑞姫
鍵
物心付いた頃から聞こえる鍵の音、私はそれが嫌いだった。何か扉をこじ開ける乱暴な音。合わない鍵で鍵穴ごと壊してしまうような、窮屈な音。
最初は好きだったかもしれない。まだ言葉を覚えるより前、どんな刺激も眩しかった乳児の頃だ。でも、言葉を覚えた私はその音に顕著に反応するようになり、両親もその異変にはすぐに気づいた。病院に掛かったところ、幻聴だと言われたらしい。幼少期には珍しくないとか、成長と共に治るとか、皆それを信じていた。
信じきれなくなったのは、私が小学校に上がった時。教室ではいつも、鍵の音が鳴っていた。今まで聞いていた乱暴な音とは違って、窓の鍵を回すような軽い音。その音は聞いていて心地が良かったから、先生に聞いてしまった。
「ねえ、せんせいはかぎのおと、わかる?」
先生は何でも知っている人だと思っていた。聞けば答えを教えてくれる存在だと思っていた。でも、私が何を言っても首を傾げるばかり。いよいよ私は異常者として知られるようになった。父は温和なものだったが、母は私を気味悪がって、精神科を連れ回していた。それでも、年齢が年齢だったから、様子見の一言で片づけられてしまう。
「聞こえないものが聞こえるなんておかしいじゃない! 気持ち悪い、気味が悪い。この子は何か病気なんです、ちゃんと調べてください」
母は日に日に精神を蝕まれ、私より先に病名が付いてしまった。投げられたワイングラスは、両親が結婚記念に買った大切なもの。私はただ生きていただけなのに、家族を壊してしまった。その懺悔をする方法も分からないまま、何も聞こえない振りだけが上手になった私、みじめな生き物。
それから八年、私は高校生になった。母は自殺未遂を繰り返した後に閉鎖病棟で生活し、退院した後も私には会いたくないと言って別居することになった。父との二人暮らしには大きな不便こそなかったが、父はいつもワイングラスを片手に、何を飲むこともなく座っている。それはきっと母を想う時間なのだろうと分かって、家に帰るのが辛かった。
そんな生活を続けているうちに、私は学校に行くのも億劫になり始めていた。気晴らしに出た街、雑踏の中をガチャガチャと金属音が煩い。吐き気さえ覚えるほどの頭痛に、耳を塞ぎながら歩いていた。だから、私に声を掛ける男に気付いたのは、少し遅かったと思う。きっと何回も声を掛けていたのだろうが、鍵の音に気を取られていたから。ナンパというものか、夜の仕事を斡旋する人か、相手が誰であろうと無視するつもりだった。でも、無視できなかったのは、彼がこんなことを言ったから。
「鍵の音、聞こえてはいないか」
男は襟のよれた服を着た、二十代に見える割にみすぼらしい青年だ。もう少し老いていれば乞食としか思えなかっただろう。そんな彼と入るには、ファミレスですら周りの目が気になった。
「私に聞こえているのは何なんですか、どうしたら治るんですか。あなたの知ってることを教えてください」
彼は自分の分だけ用意した水に口を付けた。私の必死さなど露とも知らず、ウェイトレスの背中ばかり目で追っている。
「答えてください。何か知ってるんですよね」
「あー、ああ。知っている。君には素質がある」
「素質?」
「鍵は素質のある人間にしか渡せない。だから僕は君を探していた。勿論君でなくとも問題はないが、君が最初だった」
掴みどころのない口に、もしや自分を騙そうとしているのではないかと勘付いて辺りを見回すも、仲間のような者はいない。
「君、名前は」
「名前?」
「ああ、いや、答えなくとも良い」
その時、耳の中で金属が転がるような痛みが走った。今まで聞いたこともない不快な音。男は耳を押さえる私を見て、微かに笑っているように見えた。
「佐々木か、佐々木。のぞみっていうのはどんな字を書くのだ。へえ、平仮名」
「なんで私の名前……」
「この鍵、人の心を開く鍵だ。使い方は持てば分かる。その音は二度と聞こえなくなるだろう。それで良い」
彼は私に手を出すように言う。何が何だか分からないながら、鍵の音が聞こえなくなるらしいことを理解して、両手を差し出した。彼が手を開くのに合わせて、手の平に何か小さな質量。目には何も見えないが、鍵がそこにある感覚だけが確かだった。
「要らなくなったら渡すと良い。音の聞こえる者、素質のある者に」
不気味な男は、会計を私に任せてどこかに消えてしまった。やはり乞食の類だったのではないかと思ったが、そうではないとすぐに気づいた。街をどれだけ歩いても、鍵の音が一切聞こえない。それだけではない。人間と自分との間に、何か扉が見えるようになったのだ。開いてはいけないことも、開くことができることも、不思議と分かっていた。憑き物が取れた私は、街を一周してから帰った。
鍵の使い方は、手にした時から知っていた。開きたいと思った相手の扉が開く。開けばその人間の考えていることが聞こえる。中には最初から扉の開いている者もいるが、意識しなければ聞かずに済む。かつての受動的な音に対して、能動的な音。どんな異常も、自分の管理下に収まるのなら問題にはならない。
これまで息を潜めるように過ごしていた学校。顔を上げると私の交友は随分狭かった。ろくに友人はおらず、机に伏せて眠る方法ばかり心得ている。そんな私でも、これからやり直せる気がしていた。
隣の席の安岡君、机の引き出しを見て、鞄を漁り、ロッカーを開けて戻る。また机の引き出しを見てから、困ったように辺りを見回している。何か探し物があるのだろうと勘付いて、声を掛けようと思った。でも、思うように声が出ない。それもそうだろう。母を壊してしまって以来、私は人と深く接することに怯えていたから。
『古典の教科書、確か持ってきたはずなんだけどな……』
そこで聞こえた声。見ると、彼の扉が開いていた。苔色の枠にツタが絡まっている、廃墟の入り口のような扉。その扉に見入っているとチャイムが鳴って、授業が始まった。
「安岡君、教科書忘れたの? 良かったら見せようか」
「ありがとう、本当に助かるよ」
小声で伝えると、頭を二度も下げて礼を言われた。それがどうしようもなく嬉しくて、同時に私の使命に気付いた。この鍵は人助けに使おう。私にとって鍵の音は、家族への罪の象徴。この音が無ければ私は、両親は、幸せだったはず。とても償いきれない罪、一生を掛けて償い続けるしかない。鍵で始まった罪は鍵で償う。私には最善だと思えた。
以降、私は他人の扉を開き続けた。
空色で、向こう側の透けている扉は竹野さん。妹の誕生日が近く、プレゼントに悩んでいる。私も姉へのプレゼントに迷っていると言うと、一緒に買い物に行くことに。お互いの趣味を語りながら、二人ともポーチを贈ることにした。
赤色の、本の表紙のような扉は吉住さん。本好きの図書委員で、次に読む本に迷っている。司書の先生にお勧めを聞いてから、そのまま彼女に伝える。もう読んだとのこと。
黄色の、トゲの生えたような扉は南条さん。同じクラスの安藤君が好きで、彼のタイプを知りたがっている。安藤君の扉を開いてみると、南条さんのことが好きらしい。勇気を出すように伝えると、後日二人は結ばれた。
乳白色、昼ご飯に迷う扉は丸山君。牛乳ちぎりパンを勧めたらカツサンドを食べていた。
そのような奔走の中で、いつしか私は周りに慕われるようになっていた。以前より明るくなったとか、気配り上手だとか、今やクラスの中心。それに慢心していたのは言うまでもない。私はもう少し、頭を使う必要があった。
「佐々木さんって、教えてないことまで知ってるよね」
「気味が悪い」
賞賛の声に遅れて続くように、徐々に非難の声が上がり始めていた。それは単なる嫉妬だったのだろうが、私に生まれたのはどうしようもない罪の意識。
「佐々木さん、顔色悪いよ。大丈夫?」
安岡君が心配はしてくれたが、彼の扉が見えた時、怖くなって逃げてしまった。また失敗した。人間、見えないものを見てはいけないのだ。どうしようもない後悔が、過去の罪へと手を伸ばしている。保健室の布団に閉じこもっても、現実から逃げられる訳ではない。
「佐々木さん」
「来ないで。気味悪いでしょ、私なんか」
母から投げられた罵倒が、今になって痛かった。気持ちが悪い、気味が悪い。でも、安岡君は否定した。
「僕の方が気味が悪いよ。おかしな話だけど、僕は小さいころから聞こえないはずの音が聞こえるんだ」
「え?」
私は耳を疑った。今、彼は何を話そうとしているのかと。
「鍵の音に近いのかな、どこにいても、誰かから聞こえる。僕はその音が大嫌いだったけど、誰かに言えば気味悪がられるだろうから、誰にも言えなくて辛かった。そんな中で、一つだけ嫌いじゃない音に出会った。佐々木さん、君から聞こえる鍵の音だよ。とても優しい音なんだ、まるで宝石箱を開けるような。僕は佐々木さんに助けられた。嫌な音ばかりじゃないんだって教えてくれた。だから、今度は僕が佐々木さんを助けたい」
しばらく、何も言えなかった。彼も鍵の音が聞こえている。それはつまり、この鍵を渡せるということでもあった。渡してしまえば楽になるだろう。手放せば私は素質を失い、鍵の音も聞こえないただの人間になる。喉から息が漏れるたびに、全てを話してしまいそうになっていた。それを押し込めたのは、一心に両親のことを思い出したからだ。私の罪は消えない。贖罪の方法でもあった鍵を手放せば、いよいよ顔向けができなくなる。もし手放すにしても、せめて、父の心だけでも知りたかった。
その日も父は一人で机に座っていた。ワイングラスに手を添えて、ただじっと、何も言わず座っている。その対面に座ったのは人生で初めてのこと。
「お父さん、私のこと――」
怒っていますか、と聞こうとして息を呑んだ。そこにあったのは、赤いガラスの扉だった。いくつものヒビが入った、割れたガラス。それと同じものを私は見たことがあった。父の手にあるワイングラスの片割れ、かつて母が私に投げて壊したそれだ。
父の扉を開こうとはしなかった、できなかった。その先にどれだけの母への想いが詰まっているのか、分かるからだ。開けてしまえば私は母への、父への罪悪感に潰れてしまう。そんな私を不審に思ったのか、父はこう切り出した。
「のぞみ。お前、鍵を貰ったのか」
「え?」
「俺の扉はどんなものだ」
頭が追い付かなかった。どうして父が鍵のことを知っているのか、どうしてそんなことを聞いてくるのか、まるで分らない。ただ分かるのは、何かの冗談ではないということだった。
「赤い、ガラス。割れてる」
「やっぱり、そうか。お前には悪いことをしたな」
首を振る。父は何も悪くない。悪いのは全て私だ。
「お前が生まれて、鍵の音が聞こえると言った時、俺は迷った。お前に鍵を渡すべきか、渡さないべきか。その結果があれだ、あれは俺の責任でもある」
「お父さんも、鍵を持ってたの?」
「ああ。手にしたのはあいつと出会う直前だった。人の心なんか見るものじゃない、職場に
溢れる恨み妬み、嘘に謀略。見るに堪えなかった。こんな鍵、すぐにでも手放そうと思った」
「どうして、放さなかったの」
「あいつの扉が綺麗なんだ。勿論、心も。頭の悪い人間ではあるけどな、嘘だけは吐かない。思ってることと言ってることがいつでも一緒なんだ。俺はあいつの扉を何回でも開けた。信じていないからじゃない、信じているからだ。あいつは絶対に嘘を吐かない。その心の美しさに何回でも触れたくて、鍵は放せなかった」
父の懺悔を、私はどんな表情で聞けば良かったのだろう。今にも喉を突き破りそうな、「お父さんが鍵を渡してくれたら」なんて言葉を飲み込んで、代わりに涙を垂らした。
「私、どうしたら良いか分からない。扉が見えると、開いてしまいそうになる。今まで何も考えずに開いてたのに、今になって大変なことをしていたんだって分かってしまった。いっそこの鍵を渡してしまおうとも思った。でも、きっと彼は同じように苦しんでしまう。私はどうしたら良いの。ねえ、お父さん」
父は席を立ち、私の隣で膝を突いた。
「扉を開けることは悪いことじゃない。知り得ないことを知ることは、それだけ楽に生きられる部分もある。それが厄介を引き起こすこともあるだろう。それでも今お前が思っているように、それを罪と感じるなら大丈夫だ。お前ならその鍵を上手に使える」
その言葉の意味を真には理解できていなかったと思う。それでも、父の扉は力強く立っていた。
一晩考えた。私がどうあるべきなのか。泣き腫らした後ではあまりに眠くて、上手く考えられたか、自信なんてない。ただ、私は安岡君の手を引いて、話ができる場所に来た。
「突拍子もない話だけど、私も、その音に悩んでたことがあるの」
「信じるよ」
本当は何を言うべきかなんて分かっていなくて、何を言えば良いのかも分からない。そんな私を信じると言う彼は、輝いていたと思う。
「ある時、鍵をもらった。それで他人の扉を開けると、人の心が見えるの。あなたが聞いていたのは、私が誰かの扉を開ける時の音。あなたの心も何回か見てしまった。まず、それを謝りたい。ごめんなさい」
「そうなんだ、分かったよ」
彼だって聞きたいことは山ほどあるだろう。鍵って何だとか、どうして見たのかとか、山ほど。だというのに、彼は何も聞かず、ただ私の話を聞いてくれる。
「私、この鍵を手放そうと思ってた。安岡君に渡してしまえば私は楽になれるし、安岡君だって鍵の音に悩まなくて良いと思った。でも、それは違う。今度は安岡君が同じように悩むと思うから、それは良くないよ。だから、私はこれを大切に使おうと思う」
「佐々木さんは、だから綺麗な音を出すんだね。僕がその鍵を持ったら、きっと後ろめたい使い方をすると思う。でも、佐々木さんはそうじゃない。だから綺麗な音がするんだ」
ああ、彼は。彼もきっと鍵を持てば、綺麗な音を立てるのだろう。他人の心に触れる時、人はどれほど丁寧に気遣っても、どうしても怪我をさせてしまうことがある。でも、彼ならきっと優しく開けてくれる。そんな彼をまた、私も信じてみようと思うんだ。
「安岡君。私、鍵を使うよ」
「良いよ。何回でも開けてほしい。何度でもあの音を聞かせてほしい」
彼の扉が現れる。苔色の枠に絡みつくツタの先には、赤いバラが咲いていた。
『好きです』
彼はにこりと笑っていた。伝わったかな、なんて言う彼がいじらしくて、私はその胸に飛び込んだ。彼と共に生きていこう。何回でもこの扉を開けよう。信じている、その向こうにはいつだって愛が溢れていることを。
扉の向こうに 文月瑞姫 @HumidukiMiduki
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