幻覚
口一 二三四
幻覚
申し訳程度の呼び出し音と共に壁の機器が点滅する。
赤くチカチカ光るランプの横には各部屋の番号。
薄暗くなっている大広間の先。居室の方からお呼び出しがかかったことを知らせてくる。
特別養護老人ホーム。
通称特養と呼ばれるここには、様々な事情から住んでいた家を離れ施設に入所することとなったご高齢の方が数多く住まわれている。
朝から夕方までは日勤の職員による日常生活の介助。
深夜から翌朝にかけては夜勤の職員による緊急時の対応。
理想的で安心のできる生活が約束されている終の棲家、かどうかは利用者によるのだがそれはそれ。
現代の姥捨て山という人もいて反論したい気持ちが無いわけでもないが、実際こうして勤めているからこそわかってしまう部分もあり苦い顔をしてしまう。
事務所から漏れ出る明かりが大広間を微かに照らし、しかし完全には照らし出すことはできず暗がりを作る。
光が射し込むからこそ現れる闇に何かが潜んでいるようで不気味さを覚えた。
呼び出し音は未だに鳴っている。点滅しているのは同じ部屋。
夜勤担当職員の間では毎夜毎夜呼び出しボタンが押されると話題に上がる場所。
本来は規模と利用者人数を鑑みても二人で十分対応できる。だがこの施設では夜勤は必ず三人以上で行われる。
万年の人手不足で回せる人員に余裕があるわけではないが、最近は何かと良くないニュースばかり目立つ。
職員が利用者を虐待して死なせた、なんて事件はそう珍しくもないのが今のご時世で、問題があってからでは遅いと無理矢理夜勤人数を増やすのは仕方のないことだった。
どうしたものかと頭を捻る。
現在事務所には自分一人。
残りの二人は仮眠室で寝ていたり、喫煙所に行ったっきりで対応できない。
「……はぁ」
しょうがないかと観念して立ち上がる。机に置いた懐中電灯を手にする。
書きかけの資料を残して事務所から出て行き、大広間を抜けて利用者の居室を開ける。
ひと部屋を四人で使うため備え付けの家具やカーテンで仕切られているそこは、個人のスペースというにはあまりにも心許なく、そこが生活の全てであった。
左側奥窓際へ向かいカーテンを開ける。
「どうされましたか?」
自分に気がつき顔を上げた老婆は、呼び出しボタンを握ったままベッドの下を指差し。
「……この下に人がいてうるさいの」
心底怯えた顔で訴えかけてきた。
あぁ、今夜もか。
老婆の様子とは対照的な心持ちで言葉を受け取る。
こんな訴え一度は二度では無い。
病の関係で幻覚が多い老婆は、こうしてよく『いない誰か』を何とかしてほしいと職員にお願いしてくる。
日中だと職員が多いのもありそんな苦というほどではないのだが、夜間だと対応できる人間の数と時間帯でちょっと気が滅入ってしまう。
一日二日ならまだ笑っていられる。しかしこう毎夜毎夜だといい加減にしてくれよと職員からも愚痴が出てくる。
「そうなんですか。ちょっと確認してみますね」
出るには出ているが、口には出さない。
そんな感情を向けても仕方がないことは誰にだってわかることであった。
いつものようにベッドの下を覗き込む。
不安がっているのなら安心してもらうのも職員の仕事。
懐中電灯で照らす先には老婆の私物が入ったダンボール。
かつて住んでいた場所から持ってきた唯一の過去。
「……誰もいませんよ」
当たり前のことを伝えてニコリと笑う。
幸いなことに、この幻覚は一度確認作業をして誰もいないことを示すとひとまずは治まる。
頻度は多いが一回一回の対応がそんなに長引くことはない。
「……あら、そうみたいね」
今回もきっとそうだろう。
これでしばらくは大人しく眠っていてくれる、と。
胸を撫で下ろして事務所へ戻ろうとする自分に。
「今はアナタの後ろで嬉しそうお喋りしているわ」
老婆は安堵したような声で言い、ニコリと笑い返した。
老婆が見ていたモノが病からくる幻覚だったのか、自分達には見えない『何か』だったのか。
別段何事も無く過ごしている今となっては確かめるすべは無い。
ただその夜から老婆の幻覚が無くなったのは、まぎれもない事実である。
幻覚 口一 二三四 @xP__Px
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