第5話 私は狂った
朝、目が覚めると身体が重たく、立ち上がれそうになかった。
地面に押さえつける見えない力に対抗できるだけのエネルギーが私の中に、この先湧いてくることがないと思った。
このまま身体が朽ちていけばいいとさえ思う。
昨日、大倉が消えてから今の住まいのチムニーに飛んで帰った。
怖くて仕方がなかった。訳がわからない。
しかしいつまでもここにはいられない。
あの島影へ行けてからのことを想像した。
今以上の困難にあうこともあるだろう。
でもきっと美女と仲睦まじくなれるに決まってる。
そして何か、自分を肯定できるようなことをしたい。
そのためにはあそこへ行かなくてはならない。そこまで考えてなんとか身体を起こすことができた。
海を渡る距離が短くなるよう、島影の見えるところで筏を組み上げていくことにした。
使わない布団で作った紐で木を縛って繋げる。
いびつな紐で縛りにくくて仕方ない。
そこで紐を捻り上げて強度を増し、ロープのようにして使うことにした。
こうしていると一歩一歩あの島影へ近づいている感覚がして、楽しくなる。
気がつくと大倉がいた。
「ほんまは海へ出る気なんてないんやろ」
私は呆れて彼を見上げた。
私は変わりたい。
遅すぎるかもしれないけれど、今のままでは周りに同調するだけの存在へ、より深みにはまっていき、自分を無くすことになるかもしれない。そう危機感を抱いている。
この与えられた異世界転生という機会を使い、生まれ変わって新たな道へと踏み出す所存だ。
「俺は行くよ。君の想像で勝手なことを言うな」
「想像というなら、オレの存在がお前の想像で創造されたもんや。妄想や。やからオレの言葉はお前の心の声やで。ハッ、何驚いた顔してんねん」
彼はキョロキョロしてからこちらへ向き直った。
そうだった、彼は私と二人っきりなのを確認すると、ひどく饒舌になるのだった。
「お前はあの島に行く気なんてないねん。虫みたいに冬眠するればええ」
「黙れよ。俺の葛藤も知らんくせに」
「石をひっくり返すと丸まった虫がいっぱいおる。縮こまって冬をやり過ごそうとしている。春が来たところで名前も知らん虫やのに!」
彼は笑う。
「お前は虫やねん。その自覚を持て」
「どうしたんだ、一体」
「……言うたやろ。これはお前の心や」
途中で解けたりしないように、力を込めて縛っていく。
今度の大倉は消えずにただ突っ立っている。
「手伝ってはくれないのか?」
「無理に決まっとるやろ」
「どうして?暇そうに見えるが」
大倉は大きくため息をついた。
「『変身』をよんだことある?」
私はうなずく。短い話だったのでサクッと読めた記憶がある。
家族思いの青年が突然、おぞましい毒虫に変身してしまった、なんだか悲しい話だった。
彼の家族は変わり果てた姿に困惑し、忌避した。
「思うんやけど、虫になったザムザはなんで何もせぇへんのや?姿は変わっても心はそのままやん。喋れへんでもなんらかの意思表示をすべきやった。そうすれば家族も救われたんと思わん?不自由な身体やけど、時間と知恵を絞ればさ。妹が運んでくる食事で文字を書くとか」
「それはそれでもっと気持ち悪いんじゃないか」
「ザムザは甘じて受け入れた。それは眠るようなものや。考えることをやめれば、だんだん心地よくなって、いつの間にか時間は過ぎていく。やから何もせんかったとオレは睨んでる」
耳の裏がドクドクと脈打ち、熱い。
大倉は私の顔を覗き込む。
「お前はどうや?」
次の日も朝から筏を作ろうと、海岸へ向かった。
縛り終わったはずのところが、解けている。
よく見ると紐が切られ引きちぎられていた。
怒りが湧くとともに、怖くなった。
この島に何者かがいるということだ。一体どうしてこんなことを。
大倉が後ろにいた。
「見てくれ!誰かいるぞ、俺の邪魔をしようという者が」
「なに言うてんねん。お前やで、やったの」
「はぁ?まだそんな意味のわからないことを言っているのか」
私は大倉を見限り、ひとりでまだ見ぬ敵を探し始めた。
怖いけれど、このままではあの島が遠ざかってしまうかもしれないのだ。
ジャングルへ分け入りながらふと思う。大倉が犯人という関係はないだろうか。だとしたら……
私は自分が何かを握りしめていることに気づいた。
それはちぎられた跡のある、あのお手製の紐だった。
筏は完成したが、私は慎重である。大事なプロジェクトであるから抜かりはないようにしなければならない。
「全然海へ出えへんやん」
「しかるべき天候、時期を見定めてるんだ」
夜中、叫び声が響き渡り、私は飛び起きた。
「しゅわしゅわや!」
「君、一体どうした?」
「しゅわしゅわやねん!頭がしゅわしゅわするんや!俺は生まれ変わる!しゅわしゅわと!」
「……俺より先に狂うな」
しかしここは落ち着く。
ゴツゴツと固く薄暗い空間は快適とは言い難いが、ここに帰ってくるととても心安らぐようになっていた。あのかつての日常のワンルームと同じほどに。
私は新たに筏に屋根を取り付ける作業を始めた。雨や強い日差しから身を守るためのものだ。
声がしたので大倉だろうと振り返ると、そこには五条さんがいた。
「……え?」
「高田くんて、いっつも私を見てるでしょ」
「いや、いつもでは……」
「私のこと、好きなんでしょ」
「お、俺は……その……」
これは再現度が低過ぎやしないか、私の頭脳よ。
なんせ五条さんが私に話しかけることがほぼないのである。
茶髪をかきあげ、耳にかけた。
「いいじゃない、無理して向こうに行かなくても。今を楽しもうよぉ」
大学の日々を思い出す。
求めていたものと違うと感じながら、そこそこに楽しいあの日常を。
クラブにも最近連れて行かれた。ワクワクしながら行ったものの、狂気的な熱気に私は太刀打ちできず、ただただ恐怖した。
その様子を彼らは楽しそうに笑っていた。そしてまた私も、それを笑い話にするのだ。
そんな関係に、あの空間そのものに疑問を感じる。
決別しなければならない。自分を好きになれるように私は変わりたい。
しかし私はそんな日常に戻りたくなっている。新たな世界を開くよりも。
まるで飼い犬ではないか。
仲間に囲まれている安心安らぎはそれだけで心地いい。
大きく口を歪め、彼女は笑う。
「ねぇ、触る?」
「え?」
「もぉ、わかるでしょ」
顔が触れ合うほど彼女が接近する。胸元がよく見えた。
私は震える手を持ち上げた。喉が渇く。
「プッ、アハハ……何を触るの?この木でも触るの?ここにはあんたしかいないのに!アハハハ!触れば?触ればいいじゃん、それでささくれが刺さればいいわ」
こんなに大声で下品に笑う彼女を見たことがなかった。それでもとても可愛いのだ。
「指に深く、奥の奥に、届くほど突き刺されば。あんたならそれだけで気持ち良くなるんじゃない?」
「俺は、どちらかと言うと、Sなんだ」
「はぁぁ?知るかよ」
ある日私は動けなくなった。ここに来て何日経ったかわからない。
目の前にはなぜか、道しるべに使ったキャップと草や木を切って刃こぼれだらけの包丁があった。
身体が動かない。そしてとても熱い。
異常に喉が渇いていた。
身体がトロトロと溶け出すような感覚に、しかし私は安心していた。
ようやく私に相応しいものがきたのだと。
始めからずっとこれを望んでいた、この終わりを。
全ての生命はこの解放をどこかで待ち望んでいる。
プログラムとして組み込まれているのだ。
これでいい、ようやく、私は……
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます