第75話 一年後……

「起きてください、先輩」


 頭まで布団をかぶっている先輩を揺り起こすと、「うぅん」となまめかしい声が聞こえた。けれど、俺は今さらそんな声で興奮したりしない。


「先輩、もう九時ですよ。ごはん冷めちゃいますよ~」

「あと五分……」


 と、先輩は寝返りを打って、俺から遠ざかっていった。

 仕方ない、とため息をついたあと、なんとなしにテレビをつけて、朝のワイドショーを眺める。


 今俺がいるのは、先輩の下宿先だ。先輩が通っているN大学から徒歩十分くらいの、四階建てのアパート。

 こぢんまりとした1DKだけれど、シンク周りは広々としているし、コンロは二口ふたくちあり、料理をするのに不便はない。

 部屋選びの際に、俺が入り浸ることを考慮してくれたのだろうということは容易に予想ができる。


 現に俺は、金曜の夜に先輩の部屋へ行って、日曜日に帰るという生活を繰り返していた。週末通い妻ならぬ通い夫生活は、思いのほか悪くない。


「──っ!!」


 不意に、先輩が勢いよく起き上がった。乱れた髪はショートヘアではなく、セミロングのストレートヘアになっている。

 俺が、髪を伸ばした先輩も見てみたいってリクエストしたからだ。


「いっ、今何時?」

「九時過ぎですよ」

「ああ、八時半に朝食って言ったのに、ごめんね!」

「いえ、温め直せばいいですから」

「いやいやでもさ、わたしからお願いしたのに!」


 と、先輩はミサイルのようにベッドから飛び出し、洗面所へと駆けていった。

 パジャマが乱れていて、背中とお尻がちょっとだけ見えた。すっかり俺に気を許してくれているんだなぁと、ニヤニヤするのが止められない。

 けれどその反面、約束を守ろうとしてくれている礼儀正しさなんかは相変わらずで、本当に素敵なひとだと思う。


 先輩が身支度を整えている間、俺は朝食を温め直し、器によそい、ベッドとテレビの間にあるローテーブルへと運んだ。

 

 献立は、ほかほかごはん、豆腐と小松菜の味噌汁、キュウリの塩昆布和え、それから卵焼き。


 茶を入れていると、簡単な身支度を終えた先輩が腰をポンポンと叩きながらやって来た。

 俺が泊まりに来た翌朝はいつも腰が痛そうにしている。

 狭いシングルベッドでの同衾どうきんが、先輩の腰に負担をかけているらしいんだけれど、先輩は俺が床で眠ることを許してくれない。


「あ~、ゴウくんのごはん食べるの久しぶりだぁ」


 座椅子に腰を下ろした先輩は、ホクホク顔でそう言う。久しぶりといっても、たった一週間ぶりなんだけれども。


 結局のところ、先輩は自炊をほとんどしていないらしい。たまにカレーを作るくらいだと。

 でもそれでいいんだ。去年俺が教えたことは無駄になってしまうかもしれないけれど、共に過ごした時間があるからこそ、今の俺たちがあるんだから。


 それに、先輩が料理をマスターしちゃったら、俺は用済みになってしまう。

 そうなるくらいだったら、料理に関してはとことん甘やかして、俺がいないと生きていけないカラダにしておかなくては。


 先輩のお母さんだって、『ゴウくんがあの子の面倒見てくれるから安心だわ』って言ってくれてるし。


「卵焼きおいしい~っ! 今日は甘めなんだね!」


 先輩は猫のように目を細め、身悶えした。相変わらず、作り手にとって最高のリアクションをしてくれる。


「はい、他のおかずがしょっぱいですからね。明日の朝はベーコンエッグにしましょうか」

「ああ~いいね!」

「朝飯食べたら、どっか行きますか?」


 N大学周辺の目ぼしいデートスポットには行き尽くしてしまった。先輩は味噌汁を飲みながら「う~~ん」と長くうなる。


部屋ここでゴロゴロする、っていうのはどう~?」

「悪くないですね」

「うん、じゃあ決まり! 明日は駅まで送るついでに、買い物に付き合って!」



***



 な~んて……

 全部俺の妄想ですが、なにか?



 結局、先輩は第一志望のN大学に落ちてしまい、家から電車で三十分くらいのところにある大学へ通うことになった。夢見ていた、週末通い夫生活は泡と消えちまった。


 現実はそんな甘いもんじゃないということを、俺はまざまざと思い知らされた……。


 じゃあ、実際に俺たちはどうなっているのかといえば……。





------

あながち、全部が妄想だとは限らない…かもしれません。

次回、最終話です。

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