第8話 かつて名もなき卵料理だったものへ

 翌日の昼休み、俺はやや緊張しながらも、生徒会室の扉をノックした。

 先輩は遠慮するなと何度も言ってくれたけど、俺は未だに他の生徒会メンバーのことを知らない。もしかすると、今日こそ誰かしらがパイプ椅子に鎮座しているかも。


「どうぞ~」


 明るい先輩の声に、俺はドキドキしながら扉を開ける。

 今日も先輩一人きりだった。ほっと胸を撫で下ろしたのは言うまでもない。


 先輩は俺を見るなりにこりと微笑み、わざわざ椅子を引き出してくれた。歓迎してくれているんだなぁ、って実感して、俺も口元を緩めていた。


 弁当箱を開けながら、俺はすでにこちらをじっと眺めている先輩に対して言う。


「今日も卵焼きを食べてもらえますか?」


 途端、先輩はびくんっと華奢きゃしゃな身体をらせ、それからばつが悪そうにはにかんだ。


「えへへ……むしろわたしからお願いしたいくらいだよ」


 かわいらしい先輩の反応。今すぐ立ち上がって小躍こおどりしたいくらい、胸の中が歓喜でいっぱいになる。いやいや、浮かれるのは味の感想を聞いてからだ。


 本日、俺が先輩のために作ったのは、甘めの味付けの卵焼き。

 もちろん甘味のもとは砂糖。マヨネーズを混ぜ入れることでふっくらさせ、醤油を少々加えることで甘さを引き立たせた。


「あま~い! おいし~い!」


 箸をつけたあと、先輩はその大人びた顔立ちで子供のように喜んでくれた。


「もっと甘いほうが好みだったりしますか?」

「ん~、どうだろう。ちょうどいいとは思うけど……」

「じゃあ、次はもう少し砂糖の量を増やしてみますね。食べ比べてみてください」


 俺がそう答えると、先輩はぱっと顔を輝かせたけれど、すぐに申し訳なさそうにおもてを伏せた。


「嬉しいんだけど……その、迷惑じゃないかな? 卵焼き作るのって、すごく大変でしょ?」

「べつにそんなことないですよ。面倒だったら毎日弁当に入れないです」


 謙遜でもなんでもなく、本当のことだ。面倒どころか、むしろ楽しいくらい。

 卵焼きってバリエーションが豊富だから、毎日違う味わいにできるし、新しいアレンジを試したときは、昼飯時が楽しみで仕方ない。腹持ちもいいし。


 でも、先輩は不意にジト目になった。


「本当にぃ~?」

「ほ、本当ですって。それに、先輩がおいしそうに食べてくれるから……作りがいもあるし……」


 あーーー本音が出ちまった! 恥ずかしい!


 俺の言葉を聞いた先輩は数回まばたきしてから、気恥ずかしそうに目線をそらす。そのつつましげな態度に、俺はドキリとしてしまった。


「……『おいしそう』じゃなくて、実際『おいしい』から。まぁ、ゴウくんに負担がないのなら、遠慮なくお願いしようかな」

「は、はい、遠慮しないでください」


 心拍数を速めたまま硬い声で答えると、先輩はふふっと笑ってから語り始める。


「わたし、小さい頃にね、卵焼き作ってみたことあるんだけど、ぐちゃぐちゃになっちゃったよ。しかも、高級な卵だったみたいで、ママに怒られちゃった」

「あー……卵焼きって、初心者向けの料理としては難易度が高い方ですからね。最初は誰かが作るところを観察して、卵の固まり方や火加減を覚えてからじゃないと、『名も無き卵料理』になっちゃうかもですね」


 冗談交じりに言うと、先輩は口元を押さえて小さな笑声をこぼした。


「でもね、パパのアイディアで、食パンに乗せて、ケチャップかけてトーストして食べたよ」

「あー、それめっちゃウマそうですね。うちでもやってみます。チーズとベーコン乗せて、黒胡椒まぶして……」


 う~ん、今すぐ食べたくなってきた。帰りに近所のパン屋で食パン買って、明日の朝さっそく作ろうかな。


 先輩も同様の気持ちになったみたいで、声を弾ませる。


「わたしも食べたくなってきた~。適当に卵を炒めれば、『名も無き卵料理』を再現できるかなぁ?」

「そういう感じのなら、レンジでも作れますよ。耐熱容器の中に卵一個割って、牛乳少し入れて、よくかき混ぜてから、レンジで様子を見ながら加熱するんです。数十秒くらいで表面が膨らんでくるから、取り出してかき混ぜて、好みの固さになるまで繰り返してください」

「牛乳入れるの?」


 先輩が不可解そうに眉をひそめたから、俺はしたり顔で解説する。


「その方がふんわり仕上がるんですよ」

「えっ、そうなんだ!」

「ラップはしなくて大丈夫です。でも、絶対に目を離さないでくださいね」

「わ、わかった。絶対に目を離さない!」


 先輩は緊張した面持ちで、気合を入れるようにこぶしを握り締めた。ちょっと大袈裟おおげさかもしれないけど、料理初心者は慎重すぎるくらいがちょうどいいだろう。


 年下の俺の言うことを素直に受け止めてくれる先輩に、心の奥がじんわりと温まる。

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