第5話 卵焼き記念日

 先輩は、「じゃあ、ありがたくいただきます」と両手を合わせてから、コンビニの割り箸を割った。

 卵焼きに向けた箸の先端はぷるぷる震えていて、ものすごく高価で壊れやすいものを掴もうとしているみたいだった。


 卵焼きをむんずと挟んでからは、早かった。先輩はそれをひょいと持ち上げると、あっという間に口の中に放り込んだ。

 ちょっと大きめに作ってあるので、一口でいくとは思わなかった。意外とワイルド。だがそれがいい。


 さて、どんな反応をしてくれるのかなと、俺は固唾かたずを飲んで先輩の様子を窺った。


「んん、おいひい」


 先輩は口元を指先で軽く隠しながら、まずそう言った。決してお世辞ではないとわかる程度に、目じりは下がり、頬は緩んでいた。


 それから先輩は数回咀嚼そしゃくすると、目をくわっと見開いて、


「おいひいっ」


 と第二の感想を漏らす。さらにもぐもぐと咀嚼を続け、ごくりと飲み込んでから、


「おいしいぃっ! すごーく、おいしかったっ!」


 と感極まったような声で叫び、これでもかというくらい満面の笑みを俺へと向けた。

 とびきりの美女が浮かべるとびきりの笑みが、十五歳の俺にどれほどクリティカルヒットしたかは、とても言葉では表現しがたい。


「そ、そんな何回も言わなくても……」


 俺は目を泳がせながら、消え入りそうな声でそう返すことしかできなかった。一方の先輩は、未だ興奮冷めやらぬ、といった調子だ。


「だって、こんなおいしい卵焼き、初めて食べた! てゆーか、なんか具が入ってたよね? ちょっとびっくりしちゃった」

「ツナが入ってます」

「あー、そう言われるとツナだね! 口に含んだ瞬間、焼いた卵の香ばしさが広がって、一口噛んだら、ツナの旨味がぶわっとあふれて、それから噛めば噛むほど卵とツナのおいしさが混ざり合って、気付いたら飲み込んでたよ!」


 見事な食レポだ……。こんなに感激してもらえて俺も感無量、としか言いようがない。デレデレと締まりのない笑みを浮かべそうになったけれど、ぐっと我慢し、代わりに謙遜を口にする。


「先輩がそこまでおいしいって感じたのは、空腹だったからだと思いますよ。それに、ツナが入ってりゃ、なんでもウマくなりますって」

「それはそうかもしれないけど……」


 と、先輩はわずかに赤く染まった頬に、両指を添えた。たぶん、興奮して熱くなった頬を冷たい指先で冷やしているんだろう。その女の子らしい仕草は、とてもかわいらしかった。


「ツナの入った卵焼き、初めて食べたけど…………いいね」


 先輩の口からぽつりと漏れた『いいね』は、本当に何気ないような響きだったけれど、それゆえに心の奥底から染み出た感情のような気がして、俺の心にもじんわりと染み渡った。


 俺は、このときの『いいね』の響きを二度と忘れないと思う。


 それから、お互いに食事を開始した。

 先輩も俺も黙々と食べ進めた。

 それは、話す内容がなくなったからとかじゃなく、単に空腹が限界だったからだ。先輩もきっとそうなんだろうって、なんとなくわかった。だって、無言が続いてもぜんぜん気まずくなかったから。


 食べ始めるのが遅かったから、片づけを始めた頃に予鈴が鳴った。

 ああ、この至福の時間も終わりか。一生に一度しかできないような、貴重な経験だったなぁ、としみじみ思う。

 明日からは意を決して教室でぼっち飯することにしよう。もしくは勇気を出して、どこかの輪に入れてもらうか……。


「ねぇゴウくん、よければ明日もおいでよ」

「へっ」


 不意に想定外のことを言われ、俺は間抜けた声を出して、隣にいる先輩を見た。

 先輩はそのきれいな顔で、朗らかに笑いながら俺を見ている。


「わたしは毎日ここで食べてるから、遠慮しないで入ってきて」

「は、はい」


 俺は先輩の眩しい笑顔に魅了され、カクンと顎を落とすようにうなずいていた。


 それから、生徒会室を出た俺は、天にも昇るような気分で教室に戻った。午後の授業はほとんど耳に入らず、『明日の弁当のおかず、なにを作ろうか』ってずーっと考えていた。




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今回の話は、俵万智さんの「サラダ記念日」のオマージュになっております。

「『この味がいいね』と君が言ったから七月六日はサラダ記念日」

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