第32話
ノートの中で飴が初めて出できたのは、二年前のちょうど今日、二月二十二日に裕記が横浜に行った時の記述だ。
同じ日にネコを拾うなんて、さすが兄弟だな。尚記はその不思議を何とも思わない。尚記にとっては特筆すべき事では無いので、尚記は誰にも話すことは無い。
兄弟が時を超えて、同じ日にネコを拾う。この奇跡みたいな偶然は、誰にも知られる事なく再びダンボールに仕舞われて埃をかぶり、いつか燃やされて消えて行くはずだった。
どうやら裕記は飴を拾ったフィクションと、漫画家と出会ったノンフィクションを混ぜ合わせて、物語りを創作していたようだ。
もしかしたら裕記の物語りに出てくる「狩野」と言う漫画家は実在するのかも知れないが、日記のような形式で事実と虚実が入り混じって書かれているので、どちらがどちらなのか判然としない。
裕記の創作だと思うと、記された日付まで全て虚実ではないのかと疑ってしまい、尚記はノートの表紙に日付は書かれていないか確認する為、ノートを一度閉じて表紙を見た。
表紙には何も書かれていなかったが、その拍子にメモなどが挟まって膨れたノートの隙間から、USBメモリがポトリと落ちた。尚記はメモ類がバラけないように慎重にノートを床に置いて、落ちたUSBメモリを拾い上げた。
「ヒサァ!ヒサァ!ちょっと来てぇ」
突然、階下から尚記を呼ぶ声がした。その声は房子の物である。裕記が記した日付の真偽は気になるが、房子に呼ばれたら行かねばならない。尚記はUSBをパンツのポケットに仕舞って、一階に降りていった。
一階に降りて台所に行くと房子の声が「こっち」と、リビングから聞こえた。リビングダイニングのような作りだが、衝立のような物で仕切られていて、声は衝立の向こうのリビングエリアから聞こえる。
衝立から覗かなくても、尚記は呼ばれた理由が分かった。衝立の背は尚記よりちょっと低いくらいで、天井まで届いている訳では無い。尚記からはリビング側の天井付近は見えており、そこにはエアコンが取り付けられているのが見えた。そのエアコンと天井の隙間に黒い毛玉が挟まっていた。
「ごめん」
房子が謝ってきた。
尚記は自分が連れてきたネコが悪戯をして二人に迷惑をかけているのだから、自分が謝ろうと思っていたのに、先に房子に謝られたので意外な気がした。房子が謝罪をすること自体が珍しい。
しかし、あんな高い所によく登った物だ。ネコの運動能力は高く見積もっているが、子ネコの内からあの高さまで登れるものなのだろうか?
尚記が口を開けて見ていると、房子が事の顛末を話してくれた。
活動を始めた子ネコが良く動くのを見て、沢五郎はこんなに小さな物がこんなに精巧に動く事に、好奇心、もしくは探求心をくすぐられた。
一方、尚記より先に下に降りた房子は、尚記が子ネコを連れて来た時から計画していた事を実行しようとした。
房子は尚記に子ネコを飼わせたくなかった。本当に尚記の婚期がこれ以上遅れる事を心配したのだ。だから沢五郎家で飼おうと思っていたのである。沢五郎はどうにでもなる、房子にとって一番の壁は尚記だった。尚記をどう納得させるかである。
それには子ネコを房子に懐かせて、房子から離れると寂しがるようにしてしまえば良い、房子はそう考えた。房子は動物に懐かれる事に自信があった。試しに土鍋で寝かしつけてみたところ、子ネコは催眠術にかかったかのように寝てくれた。これは上手く行く。
「ホラァ、こんなに私に懐いとろうが、引き離したら寂しかろうよ」
そう言って尚記を説得するつもりだったらしい。
知的好奇心で子ネコを抱きたい沢五郎と、懐かせたくて子ネコを抱きたい房子の間で、ちょっとした子ネコの取り合いが起きた。
背の高い沢五郎が房子に触らせ無い為に子ネコを高い高いした。そもそも二人に取り合われてパニック気味だった子ネコは、突然、高い高いされて我慢の限界を超え、沢五郎の手を蹴ってエアコンと天井の隙間に収まった。
ことの
尚記はエアコンの下まで歩いて行った。黒い毛玉は小さくて可愛い声で威嚇した。沢五郎と房子が遠巻きに見守っていた理由は、この小さくて可愛い威嚇に気圧されたからだそうだ。
尚記は思わず、黒くて丸い毛玉に向かって「飴」と呼びかけた。先ほど二階で裕記のノートを読んだからだろう。黒い飴玉の逆立っていた毛はみるみる落ち着いて行き。今度は尚記に向かって飛び降りたそうに、エアコンの上で四肢をもじもじさせた。尚記は子ネコの動向に注意しながら、
「椅子、持ってきてもらえますか?」
どちらにともなく頼んだ。
沢五郎が持って来た椅子に尚記が立ち、尚記との距離が子ネコの跳躍圏内に入った瞬間、黒くて丸い塊は待ち構えていたかのように尚記の胸に向かって飛び降りた。
救出は無事に成功し、房子の企ては失敗に終わり、子ネコの名前は黒飴になった。
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