第52話 【幕間】ストレンジ・ラブ ア
調査依頼報告書。報告作成者、桐生製薬査察部調査四課、分析主査、
対象者『エンジェルダスト』『バニタス』『サリエル』『アンノウン』『フーファイター』『イリュージョニスト』『イヌガミ』『ゴーストエッジ』『パープルヘイズ』『プルートゥ』『ロスタイムライフ』『マカーブル』『ダークサーバント』『シャドゥラン』『レベル1デス』『チェシャキャット』『ディスマン』
特記事項。前記の通称名は、すべてたった一人の人物の字名である。
当該人物、本名、抹消済み。コードネーム、不明。
ただし二つ名的名称は前記の通り多岐に渡り、まかり通っている。
年齢、二十代半ば?
性別、女性?
人種、アジア系?
国籍、米国?
いずれも不明。
所属組織、米国中央情報局特別行動部、その下部組織とされる――、
通称、グレイミスト。
性別は不明ではあれど、入手した台帳では女性なので代名詞は彼女とする。
調べでは、グレイミストは暗殺を主な業務としている。
表向きは中央情報局の庶務に所属する。が、実際には存在しない扱いなので、どこまでが真実か推量の域から出ない。
彼女には不明な点があまりに多すぎる。わかっていることは以下の通り。
報告者たるわたしも含めて『彼女』の仕事だろう暗殺行為の目撃者は意外と多い。その上で誰一人『彼女』の姿を捉えた者がいない。
写真、動画、レーダー、熱源、音源、その他もろもろ、一切捉えられない。ゆえに年齢、性別、人種など何一つ明らかにならない。
組織台帳の内容はすべてフェイク。名前も人物写真も性別も年齢も、丸ごと虚構。何もかもが
内情を探ると、探った者は漏れなく殺害、もしくは行方不明になるとのこと。
前記述を踏まえつつ『彼女』の仕事と思しき内容は多々ある。
世界の裏で飛び交う情報を洗浄、推測した殺害件数はおよそ五百件。
対象者だけを葬り去る超一流。あえてしつこく書くが、その仕事は誰もが目撃しながら『彼女』の姿を見た者は誰もいない。
例えば前年の話。南米の巨大麻薬カルテルの
おかしなことを書いているようで、それでいてどうにもならない。なぜなら、カルテルの首魁は前触れなく首筋から血を吹き出して絶命したのだから。
死因は鋭い刃物かそれに類する何かでの、至近距離からの頸動脈切断。
これら謎が謎を呼ぶ怪人とも言うべき暗殺者ではあるのだが、近日、大きな仕事に入るとの情報を入手する。
莫大な資金と人員、設備を使い極秘に手に入れた情報である。それは、われらが桐生ののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののの
手袋越し、右手の人差し指と中指の間に、剃刀の腹を挟み込む。
そしてわたしは、女の横首筋にしゅるりと短い線を作った。
耳朶の下、角度は顎の形に添うように、深く抉りつつ切り裂く。とたん、まるでホースから勢いよく飛び出す水のような音が立った。
鮮血。噴出、続出、小気味よくビュッビュッとリズムよく。
報告書をしたためていた女は慌てて首を押さえようとした。
だが、もう、手遅れ。頸動脈を切ったから。
二十、十九、十八、十七、十六、十五、十四、十三、十二、十一、十、九……。
わたしは数える。死のカウントダウンを。
「ま、まさか、ここに、あ……いつが……? どこ……に、どこ……?」
二十秒後、きっかりゼロで、この女は息絶えた。
まったく、やってくれたわ。情報には細心の注意を払ってほしいものね。
ねえ、そうでしょう、
あなた方はわたしの情報を管理し損ねた。あなた方はわたしという牙を使う。ならばもっと上手く飼い慣らさねば。そうしないと、咬みつくわよ。
わざわざ極東の島国くんだりまでやってきて、わたし自らが己が情報を回収する。明らかに不手際の、尻拭い。
あなた方は幼き頃のわたしをこの島国のどこからか攫ってきた。自分について微かに覚えているのは霞という名前だけ。いや、苗字かもしれないがその辺りはよくわからない。そうしてあなた方はわたしを徹底的に鍛え上げた。暗殺者として。
そういえば、と思い出す。
初めての仕事は、自分が所属する国の政府役人だった。
しかも同じ畑の、人間だった。
暗殺対象。米国中央情報局情報収集管理担当官、コードネーム、ストレガ。
情報収集の『魔女』と呼ばれた性同一性者の『女』である。筋肉質の己の肉体に憎悪する『男』でもある。本人曰く、心は『乙女』だそう。
本人がそう思っているなら、そうなのだろう。わたしの見たところでは、嫉妬深さは『男に飢えた淑女』並。狂気具合は嫁ぎ遅れた『熟女』を超える。仕事はできるが関わりたくない『女』であり『醜女』だった。
なんであれ美しくないやつだった。その外見よりも、性格がドブスだった。
わたしは彼――彼女を、あっさりと暗殺せしめた。
もちろん殺害のための理由付けは聞かされてはいた。別にダブルスパイでもトリプルスパイでも、横領犯でも情報漏洩者でもない。
もっと根本的な理由。すなわち、アレは局内に敵を作り過ぎた。自分たちの組織にいてもらっては、利益よりも損失の方が大きいと判断されてのものだった。
利害で命の間尺を計る。暗殺理由なんてものはただの言い訳に過ぎない。
殺害方法は職場の個人ブースで仕事をする『彼女』に何気に接近し、事務的に名前を呼んで、そうして『彼女』が振り返ったところでトンと胸を叩くだけ。
こんな話を聞いたことはないだろうか。
危ないから人の胸は、絶対に叩いてはいけないと。
人間の身体は微細な電気の流れで動いている。
特に心臓の鼓動は、電気信号を発生させ心筋が収縮するよう指令を出す伝達回路によって成り立たせている。
この拍動を起こさせる大元となるのが、洞結節と呼ばれる部分。心臓に備わるペースメーカーの部分と言えばわかりやすいだろう。
わたしはその部分に指向性を持たせた筋収縮刺激として、心筋を覆う刺激伝達系に異常を叩きつけることができた。それは心室細動となる。
彼女の呼吸を同期させれば、彼女の心臓の鼓動も同期させられる。
呼吸は相手の身体を観察すればすぐにわかる。脳と口はすぐに嘘をつくが、身体そのものは嘘をつかない。なので簡単に二の撃ち要らずを放てる。
そして堂々と、歩いて立ち去る。
心室細動を起こした彼女は、心臓の心室の筋肉がバラバラに興奮させた状態となり、血液を全身に送り出せなくなって突然死する。いわゆる心臓発作である。
個人ブースで仕事をしているためしばらくは誰も気づかない。ちょっと椅子の背もたれに身体を預けて目を閉じているように見える。どこかの映画で見た、死ぬほど疲れている、という状態だった。映画のほうは非常に泥臭い殺害方法だったが。
いやいや、いくらなんでも、誰にも目撃されないなんてありえない。そういう突っ込みを入れて来る人もおられるかもしれない。
が、わたしには特別なタレントがあった。わたしを暗殺者として鍛えた実技教官曰く、血統スキルのようなもの、だそう。イヌガミ一族とも言っていた。イヌガミと言えば極東の国の四国と呼ばれる島での伝説が思い浮かばれる。
もっとも、暗殺者として深い闇の底に沈む自分に望郷の念などもはや望むべくもなく、転じて意識的に排除するべき弱点だと考えていた。
それはともかくとして、特別なタレント、血統スキルの話だった。
今から書くことは、そのイヌガミ一族とやらだけが理解できる内容となろう。それだけ非常識であり、世の理から離れたものだった。
わたしは虚数世界に、その身を置くことができる。いつでも、いつまでも。
わけがわからないだろう。
しかしそれこそが健常な精神というもの。安心して欲しい。
通常、人の身体は実数世界に依存し、その存在を許されている。だがイヌガミ一族とやらは元々は実数世界の人間の存在ではないらしかった。
つまるところ、わたしの身体は虚数で出来ているわけだった。
暗殺者にふさわしい卑しい身体。しつこく繰り返すが、わけの分からぬことを書いているのは自覚している。自己紹介というのは、思いの外、難しいのだ。
数学で例えるなら、わたしは『虚数i』の乗算で存在しているようなもの。
『虚数i』と『虚数i』を掛ければ『マイナス1』という実数となる。このときは気配が希薄なだけでちゃんと他者にも認識される。
だがこの世界により定着せんとするとわたしは『実数』×『虚数i』の複素数となってしまい、逆にこの世界から消失してしまう。
まるでこの世界のすべてから憎まれているような、そんな気持ちになる。
人に近づくと、世界に嫌われるだなんて。ハリネズミのジレンマに近い何か。
だが、消失した状態だからこそ感じるものもある。
というのも、非常に落ち着くのだった。この安心感ときたら、なんなのか。
たまに変な形をしたイヌっぽい何かがふわりとやってきて、しかし何をするでもなく、わたしを慰めてくれたりする。
漆黒の針金をぐるぐる巻きにして造った四つ足生物のような形状。明らかに異形の怪物ではあれど、こちらには敵意もなく足元に寝そべってくる。頭部と思われる部分を撫でてやると、形容しがたい声を出してイヌっぽく喜ぶのだった。
後で知るに、そのイヌっぽい何かとは、ティンダロスの猟犬というらしかった。
執拗に書くが、わけがわからないだろう。
しかし自分としてはそういうものなのだと納得して貰う以外どうしようもない。たぶんイヌガミ一族でなければ理解なんてできない。
そうして誰かは言うだろう、攫われたなら、その力で囚われから脱して報復を。
ダメだ。それはできない。普通に無理。普通では、とても。
教育とは恐ろしいもの。それは真っ白なキャンバスに、絵の具を塗り込むのとまるで同じ行ないだから。気づいたときにはすでに遅く、子供のころからわたしは上官の命には服従するよう精神を形成させられていた。
根底にあるのは畜生を躾するためにしばしば利用される恐怖刺激である。もちろん、悪態を吐くのは下っ端の権利なので大っぴらに吐かない限り見逃されてはいる。ガス抜きも出来ないようでは却って思わぬ事故が起きかねないためだ。
さて、わたしについてはここまで。仕事の話をしよう。
今回の標的は、少女――いや、十六歳の少年だった。
そんな彼を、いかにも『惨殺』されたように『暗殺』せよとのこと。
名を、
かの世界規模の企業体、桐生グループの係累の子である。
しかしそんなものはどうでもいい。
指令さえ受ければ、どんな立場の者でも消して見せる。
わたしは衝撃を受けていた。この少女――いや、少年に。
どこで入手してきたのか、指令書に送付されていたディスクの映像を見て。
それはぶどう酒の制作動画だった。しかも個人がプロに依頼して撮影・編集・パッケージ化まで整えた代物で、趣味にしては金がかかり過ぎていた。
蜂蜜酒、エール、ぶどう酒。
この三つは古代期から作られてきたアルコールの代表格だった。
いずれも材料を混ぜて放置するだけで簡単にできる。ぶどう酒は、まずはぶどうの房を足で踏み潰すのが本来の製造スタイルとなる。それは下半身をつけるほど大量に、ただひたすら、ぎゅっぎゅっと素足で実を踏み潰す。
『このちょっとしたプールいっぱいに満たされたブドウの実を、足でひたすら潰すの? 僕だけで? お姉ちゃんたちは?』
『私たちが混ざると不純物も混ざるから。レオナちゃんエキスが薄まるから』
『エキスって……』
『このぶどう酒の銘柄は『REONA』だもの。余計なものは、混ぜちゃダメ』
『えぇ……』
『限定六百本なのよ。わたしたち三姉妹だけの秘酒。幻のぶどう酒。うふふふっ』
『お姉ちゃんたち、少しでいいから自重を覚えようね……』
スクール水着の少女――いや、少年と、三つ子らしき同じ顔立ちの姉たちの如何ともし難い会話が映像に流れる。
この映像を撮るカメラマンも大変だな、と変な呆れが入る。
彼らは一体何をしようと、または、させようとしているのか。まあ、見ての通りなのだろうけれども、それにしては歪んだ欲望が見えるというか。
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