第19話 消えたイヤリング
綾乃がトイレから出てくるのを待ちながら、京介はスマホで適当なニュースを流し読みして気を紛らわせていた。
後ろから押されたからと綾乃に抱き寄せられ、それに応えるように腕を後ろへ回してしまったことが、今になって猛烈に恥ずかしくなってきた。
向こうは本当に後ろから押され、致し方なくあのような体勢になったのかもしれない。だが、自分はどうだ。あの立ち位置、あの姿勢で、彼女に触れようとする必要は一切なかった。
(ど、どうしよう……)
気持ち悪いと思われたら。セクハラだと訴えられたら。
そんな不安を脳裏でビュンビュンと過ぎらせながらも、彼女は嫌がっていなかっただろと、都合のいい解釈も産声をあげる。
ふむ、と思い返す。
確かに嫌がってはいなかった。密着してきた際も満更ではなさそうだった。頭に触れた手の感触も、顔を覆った体温も、心地のいいものだった。
(……何を考えてるんだ僕はっ)
気持ち悪い妄想がもわもわと膨らみ、それらを追い出そうと頭を左右に振った。口元の緩みを律するため、頬をつねって鞭を打つ。
勘違いしてはいけない。期待してはいけない。自分はただの友達なのだから。
「あっ」
すっと、綾乃がトイレから出てきた。
声をかけかけて、口を噤む。
だらりと垂らした両腕。手からは今にも紙袋が解け落ちそう。双の瞳からは力が抜け、雨に濡れた子犬のような情けない光を宿す。
「だ、大丈夫か……?」
体調が悪いようには見えないが、明らかに正常ではない。
綾乃の瞳に、薄っすらと熱いものが滲んだ。それはポロポロと大粒の涙になって零れ、頬を伝って顎先から地面へ落ちてゆく。
「な、失くし、ちゃったの……」
グスグスと、嗚咽混じりに声を紡ぐ。
「イヤリング……片方、どこで落としたか、わからなくって……っ」
その場でしゃがみ込み泣く姿に、彼女が自分と同い年であることを思い知らされた。卓越した美貌を持っていても、周りよりずっと大人びていても、立派にお金を稼いでいても、一皮めくれば自分と何ら変わりない。
(あれのことか……)
綾乃の右耳に光るそれは、以前DVDのレンタルに行った際に着けてきたのと同じものだった。
あの時、お気に入りだと彼女は笑った。こうして涙を流すほど落ち込むということは、よほど大切なものなのだろう。
京介の頭は、自分でも予想外なほどに澄み切っていた。
冷静に、沈着に、どうするべきか思案する。
「と、とりあえず、そこは邪魔だから。あと、ハンカチ使って」
綾乃の腕を取り、半ば強引に立ち上がらせた。悲しいからといって、トイレの出入り口を塞いでいい理由にはならない。次いでハンカチを渡して、涙を拭うよう促す。
「ちょっと駅員さんに聞いて来る。電車内で見つかるとは限らないから、一応今日行った場所に戻ろう」
「……えっ?」
「誰かが店に届けてるかもしれないし、道に落ちてたら交番に届けてるかも。じゃなくても、今ならまだ僕たちで見つけられるかもしれないだろ」
酷い気休めを吐いたなと、我ながら思った。
携帯や財布ならともかく、道端でイヤリングの片方を拾ったとしても、京介ならわざわざ交番には届けないし、そもそも小さくて目にも留まらないだろう。見つかる可能性は限りなく低い――しかし、ここで何も行動せずにただ慰めることが正しいとは思えない。
綾乃にとって大切なものなのだ。
背中をさすって優しい言葉をかけるのは、全力で探したあとでもできる。
綾乃がある程度落ち着くまで休憩を挟み、すぐさま上り電車に飛び込んだ。
涙こそ止まったものの、落ち込み方が尋常ではない。今にも消えそうな蝋燭の火を思わせる表情に、こちらまで不安になってくる。
彼女もわかっているのだろう。見つかる可能性が、限りなくゼロに近いことを。
「駅員さんも探してくれるって言ってたし。見つかるまで、僕も付き合うから」
「……うん」
少しでも空気が改善されないか虚栄を張ってみるが、沈み切った声が浮上してくることはなかった。
電車を降りて来た道を引き返す。途中交番に寄るも収穫はなく、電光頼りの街を地面と見つめ合いながら練り歩く。
空は段々と夜の表情を見せてゆき、酒気を帯びた通行人も増えてきた。
ポケットの中のスマホが何度か震え、おそらく親からの連絡だとは思うが、今はあえて無視しておく。
「もういいよ。暗くなってきたし……」
「まだ全然探してないだろ」
「どうせ見つからないって。……それに、藤村に無駄な時間使わせたくない」
僅かに震える声は、どうにもならないことを覚悟しているからだろう。
ピタリと、京介は足を止めた。それに気づかず綾乃は二歩ほど先行してから立ち止まり、「どうしたの」と振り返る。
「無駄じゃない」
残春の肌寒い風が、雑踏の隙間を縫うように流れてゆく。
「ぼ、僕は……佐々川さんに泣かれるのはすごく嫌だしっ」
上手く言葉がまとまらない。所々どもってしまう口が憎い。
「何時間かかっても探すから。こんなのは僕の自己満足だし、そっちこそ付き合わせて申し訳ないっていうか……」
感情ばかりが喉の先を行って、理路整然と話せていないような気がする。
難しいことを言うつもりはないのに。
(って言っても、どうするんだよこれ……)
何時間でもとはいうが、帰らないわけにはいかない。あと二、三時間は大丈夫だが、それを過ぎれば警察に補導されてしまう。
綾乃の弟、ということにすれば回避できるだろうか。はたから見れば、大学生と中学生の姉弟に見えなくもない。
いやいや、と京介は首を横に振った。補導された時のことばかり考えてどうする。
まずは百貨店に行って、落とし物がないか聞いて。今日立ち寄った店を巡って、道もくまなく調べて。
想像するだけで気が遠くなるような作業だ。
「ん?」
ぶーっと、長いバイブ音。ポケットの中で電話が来たと知らせる。
メール等ならともかく、電話を無視するのは憚られた。取り出して画面を見ると、かけてきたのは沙夜だった。
「誰から?」
「詞島さん。何だろ、わざわざ電話って」
道の脇に逸れて、「もしもし」と眉をひそめて言う。
『あ、すみません。至急確認して欲しいことがありまして』
「え、確認?」
『今服を選んでて。そしたら試着室でイヤリングを拾いまして――』
ハッと目を見開いて、綾乃に視線を流した。その動作に何かを悟ったのか、彼女の瞳に若干だが活力が戻った。
『綾乃ちゃんがお気に入りって言ってるのにそっくり……っていうか、たぶん同じものだと思います。写真送るので、一応本人に聞いてもらっていいですか。まさか、違うとは思いますけど……』
『よろしくお願いします』と通話が切れ、ほどなくして写真が送られてきた。
それを綾乃と共に確認し、ふっと数秒の沈黙を置いて、お互いに目を見合わせる。
「「これだ!」」
京介と綾乃はアパレルショップに向かい、沙夜が店員に預けていたイヤリングを受け取った。
今日この店で服を購入したらしく、試着の際に落としたのだろうと綾乃は言う。しかしその喜ばし気な表情に、ふっと突然雲がかかった。
「沙夜ちゃんはさ、これを私のだと思って、藤村に連絡したんだよね?」
「そう、だな」
「何で私のってわかったんだろ。学校に付けてったことないし、沙夜ちゃんとは喋ったこともないのに」
それはたぶん、綾乃のことを誰よりも熟知しようとファン活動に熱を上げているからだ――と言えるはずもなく、「何でだろうな」と不格好に笑って誤魔化した。
だが、最早隠しようがない。明日にでも何らかの接触があることは明白だ。
頑張れ、と心の中でエールを送る。今はまだ何も知らない、沙夜に向かって。
「藤村、時間大丈夫? 家の人、心配してない?」
時刻は午後七時に迫ろうとしていた。
スマホを見ると、母親からのメッセージが数件。どうやら今日は外食に行く予定らしく、帰宅もせず連絡も寄越さない息子に対し怒り心頭で、冷蔵庫にあるもので済ませなさいと怒り顔のブタのスタンプが押されていた。
「……大丈夫、だと思う」
中学生の頃は、何をするにももう少し献身的だった。こうして置いてけぼりを食らったのは、高校生になった証拠だろう。
それより心配なのはチョコレートだ。大丈夫だとは思うが、随分と外を連れ回したため溶けていてもおかしくない。早く冷蔵庫にしまわないと。
「ご、ごめんねっ。泣いたり、落ち込んだり、本当は私が一番頑張って探さなきゃなのに!」
「謝らなくていいから、もう失くさないでくれよ。高価なものなんだろ」
落とした場所がたまたま試着室という見つけやすい場所で、拾った人間がたまたま綾乃の大ファンで、たまたまその人間と京介に繋がりがあったから、こうして短時間で発見できたのだ。まさしく奇跡、本来ならこうはいかない。
「別に高いわけじゃないんだけど……」
ハンカチの中にしまったイヤリングを両手で包み、どこか遠いところを見るような目で物悲しい笑みを作る。
「これ、ママに買って貰ったものだから」
愛おしさと切なさが共存する声音と共に、綾乃はすっと目を細めた。
その動作に、表情に、京介の胸中に疑念が生じた。
親に買って貰ったものが大切なのはまったく当然のことだが、それだけのことであそこまで落ち込むものだろうか。あの絶望は、そう簡単に出せるものではないだろう。
と、いうことは――。
いくつかの可能性を脳内で描いたところで、これ以上はやめておこうと筆を置いた。
詮索はよくない。当人が許さない限り、特殊な事情に踏み込むのは失礼に当たる。
「……じゃあ、まぁ、帰るか」
と、踵を返しかけて。
綾乃の伸ばした腕が、京介の空いた手を捉えた。しなやかな指が手のひらに絡まり、そのままぐいっと引き寄せられる。
百貨店の壁際。誰かの帰路の脇道。
綾乃は、じっと京介を見つめる。互いの手にジトッと汗が滲み、湿っぽい温度を交換し合う。
「好きか嫌いかって、話の続き、だけどっ」
ギュッと。彼女の手に力がこもった。離さないように、どこへもやらないように。
瞳は輝いて、頬から耳へと朱色に変わった。耳にかけていた艶やかな黒髪がさらりと零れ、京介の額を優しく撫でる。
「私、好きだよ。藤村のこと」
誰にも聞こえないよう、京介にだけ贈るよう、耳元で囁いて。
二歩、三歩と後ろに下がり、「友達としてね」と言ってはにかんだ。
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