第8話 関ヶ原の合戦の戦力分析

 兵力数は主に「日本戦史関ヶ原役」からで、「日本戦史関ヶ原役」は東西両軍の兵力の実数は不明であるとしたうえで、石高100石あたり3人で算出した動員可能兵力の推測値を載せている。これは、4月27日に島津義弘が島津義久に送った書状に書かれていたことによる。


 各大名は、関ヶ原直前の戦力分析をおこなったはずで、この程度の分析ができなければ、生き残ることはできない。


西軍


宇喜多秀家 17220人  57.4万石 関ヶ原での総大将

毛利秀元 約16000人  20万石だが毛利輝元、112万石の代理

吉川広家          14.2万石 毛利秀元の兵数と合算

安国寺恵瓊  1800人   6万石

島津義弘   約800人    ?

島津豊久    858人   2.86万石

長宗我部盛親 6660人  22万石

小西行長   6000人  20万石

石田三成   5820人  19.4万石

小川祐忠   2100人   7万石

長束正家   1500人   5万石

大谷吉継   1500人   5万石

木下頼継    750人   2.5万石

脇坂安治    990人   3.3万石

赤座直保    600人   2万石

朽木元綱    600人   1万石

平塚為広    360人   1.2万石

戸田重政    300人   1万石

織田信高 ?          ?

伊藤盛正    900人   3万石

岸田忠氏    300人   1万石

川尻直次    300人   1万石

糟屋宗孝    360人   1.2万石

福原長堯    600人   2万石

高橋元種   1500人   5万石

秋月種長    900人   3万石

垣見一直    600人   2万石

相良頼房    540人   1.8万石

熊谷直盛    450人   1.5万石

木村勝正    300人   1万石 木村豊統を含む

  合計  70608人



東軍


徳川家康 約33000人 240万石

徳川秀忠 約38000人   0.2万石 秀忠の兵数は、約15000人で他の大名が従った総数

松平忠吉   3000人  10万石

本多忠勝    500人  10万石

井伊直政   3600人  12万石    豊臣恩顧の大名

福島正則   6000人  20万石    豊臣恩顧の大名

筒井定次   2850人   9.5万石  豊臣恩顧の大名

細川忠興   3300人  11万石    豊臣恩顧の大名

黒田長政   5400人  18万石    豊臣恩顧の大名

蜂須賀至鎮 ?       18万石    豊臣恩顧の大名

浅野幸長   6510人  21.7万石  豊臣恩顧の大名

堀尾忠氏   5100人  17万石     ?

池田輝政   4560人  15.2万石  豊臣恩顧の大名

生駒一正   1830人   6.1万石  豊臣恩顧の大名

中村一栄   4350人  14.5万石  豊臣恩顧の大名

藤堂高虎   2490人   8.3万石  豊臣恩顧の大名

加藤嘉明   3000人  10万石    豊臣恩顧の大名

田中吉政   3000人  10万石    豊臣恩顧の大名

京極高知   3000人  10万石    豊臣恩顧の大名

寺沢広高   2400人   8万石    豊臣恩顧の大名

山内一豊   2058人   6.86万石 豊臣恩顧の大名

金森長近   1140人   3.8万石  豊臣恩顧の大名

有馬豊氏    900人   3万石    豊臣恩顧の大名

有馬則頼    300人   1万石    豊臣恩顧の大名

分部光嘉    300人   1万石    豊臣恩顧の大名

織田有楽    450人   1.5万石  豊臣恩顧の大名

古田重勝   1020人   3.4万石  豊臣恩顧の大名

水野勝成    900人   3万石    豊臣恩顧の大名

西尾光教    600人   2万石    豊臣恩顧の大名

松下重綱    300人   1万石    豊臣恩顧の大名

一柳直盛   1050人   3.5万石  豊臣恩顧の大名

  合計 140908人



小早川秀秋 15675人  52.25万石 領地が九州(筑前名島)だったため、どちらに味方するかを決めると家臣の家族などに危害があるため、直前まで決めないのが得策。関ヶ原の松尾山城(西軍の守る城)に籠城したことで、すでに手柄を立てている。そのため、合戦に参加する必要がない。急所を押えているのに城を出ざるおえなかったのは、徳川秀忠が遅刻したせい。


 注目するのは、徳川家康と徳川秀忠の兵数の合計、71000人。これだけでも圧倒的に優勢で、豊臣恩顧の大名が雪崩を打つように徳川家になびいたとしてもおかしくない。このことを歴史家や歴史小説家が無視しているのが歴史をゆがめている。


 すでに徳川政権が誕生していて、リストラされそうな大名が反乱を起こしたとみたほうが分かりやすい。


 なお、毛利一家(毛利、吉川、小早川)は豊臣恩顧の大名ではない。どちらかというと豊臣秀吉に恨みを持っていた。小早川家に秀秋を養子に押し付けられたのも面白くなかったはずだ。だから、積極的に参加していない。


 徳川家康は、この合戦で、一気に豊臣家を滅ぼそうと思っていたはずで、そのためには、豊臣恩顧の大名や小早川秀秋のような豊臣の血縁者には助けてほしくなかっただろう。

 ところが合戦には、徳川秀忠が遅刻し、思わぬ苦戦をして、結局、小早川秀秋の助けを借りて勝利したため、家康は死ぬまで合戦をしなければいけないはめになった。

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