【21】恩返し
◇◇◇
フラムベルクはあの女神像を返さなければ、
だが俺には一つの懸念があった。養父の船を襲った時、フラムベルクにはジェミナ・クラス北方面の海賊を仕切っている『隻眼のロードウェル』が、援護の海賊船を出していたのだ。
今度も奴が絡んできたら厄介だ。そこで俺達はひと芝居打つ事にした。
脅迫状には女神像を返さなければ、俺のアマランス号を燃やしてやるとあったので、これを利用することにしたのさ。
アマランス号が燃えれば、俺が奴と取引する気は全くないという意思を伝える事ができる。
手はず通りジルバが船を燃やして、俺はあの女神像を回収した。
そしてルティーナ、君も知ってる運送屋ルースの荷馬車で、例の漁船までこっそり隠したというわけさ。
後は準備が整い次第、漁船周辺に海兵隊を配置して、ジルバに連れられたフラムベルクが来るのを待つはずだった。
だがちょっと予定が狂った。
ジルバ、お前の女好きのおかげでな。
「ちょっと待ってくれよ。なんで僕のせいなんだい?」
ジルバがむっとした顔で、ルウム艦長の話に割り込んだ。
するとルウム艦長の眉間に、険悪な影が雲のように広がってゆく。
「お前、決行は明日の夜だったことを忘れたな」
うっ、とジルバの額に汗が浮いた。視線が宙をふらふらと彷徨う。
「あ、た、確かにそうだったけど、僕のせいじゃない! フラムベルクが何故明日でなければならない。今日でもいいはずだと、詰め寄ってきたんだ」
「ああ、そうか」
ふっと、ルウム艦長の唇が引きつった。
すごく意地の悪い微笑。こういう笑い方もするんだ、この人は。
ルウム艦長はやおら立ち上がると、ジルバを怒鳴りつけた。
「フラムベルクに会うかもしれないから、船から外へ出るなと言っただろう! よりにもよって
「いや、僕は行ってないよ。行ってないけど……」
狼狽するジルバ。冷や汗はさらに数を増して額に浮かび上がり、一筋それがつるりとした頬へ伝っていった。
私はさっと右手を上げた。
「艦長、証言したいのですがいいですか?」
ルウム艦長は両腕を組んだまま、小さくうなづいた。
「グレイス副長、発言を許可する」
「えっ、何? ルティーナ。証言って?」
私はジルバを無視して、椅子から仰々しく立ち上がった。
「ありがとうございます。ええと、先程のジルバ元料理長の発言ですが、それが真っ赤な嘘である事を、ここに証言いたします」
「ル、ルティーナ!?」
そうか。ルウム艦長を窮地に追い込んだのはあなただったのね。
もしも鏡がこの時私の顔を映していたら、そこにはルウム艦長と同じような意地悪い微笑みがあっただろう。
「若いお女郎さんを両手に花状態で連れて歩いてるの、見ちゃいました。しかも明日カンパルシータの『銀羊亭』を予約しておくから~なんて、言ってました」
「ルティーナ! 君、まさかあそこにいたのかい! 冗談だろ」
ジルバの顔色が、まるでおろしたてのシャツのように真っ白になっていく。
彼の隣では、怖い顔をしたルウム艦長が、腕組みしたそれにぐっと力を込めた。
「いや、その、なんたって昔からのよしみだからさ。ご婦人の方から会いたいって言われたら、僕にはそれを無下にする事なんてできないんだよ。わかってくれるよねぇ、アースシー?」
「艦長、判決は?」
「……有罪……」
両腕を組んで立っていたルウム艦長は、やおら右手を振りかぶると、ジルバの左頬に鉄拳を叩き込んだのでした。
◇
「これって酷くない? 約束破って外へ出た事は謝る! でも、僕は君を助けたんだよ。
床に倒れたジルバは、涙目になりながら鼻をハンカチで押さえていた。
ルウム艦長の鉄拳を喰らって出た鼻血を止めるためだ。
「そうそう。ねえ艦長。どうして甲板が抜けたんですか? 私、びっくりしました」
ルウム艦長の機嫌は相変わらず悪かった。彼は憮然としたまま、私に向かって肩をすくめた。
「あの漁船は捕った魚を生かしたまま運べるよう、前部甲板の下がいけすになっていた。それを知ったジルバが、巻上げ機のレバーを倒す事で、甲板が開閉できるように改造した。まさか本当にあの仕掛けを使う事になるとは、思わなかったがな」
「ほらそれみろ! あの仕掛けで救われたじゃないか」
ジルバがむっくりと起き上がったかと思うと、彼は哀れっぽい眼差しを私に向けてつぶやいた。
「アースシーはあの仕掛けを思い出して、フラムベルク達に女神像を倒させたんだ。僕は感謝されて当然で、不当に殴られていいわけない」
「ふん! お前が手はず通りにしていれば、そもそもこんなことにはならなかったんだ。おまけにルティーナまで巻き込んで」
ジルバが今まで押し当てていた鼻のハンカチをさっと拭った。
ルウム艦長が黒の長外套を脱いで、シャツの袖をまくった。
「僕はずっと思ってたんだ。ルティーナが好きなら好きだと、はっきり言えばいいのにって」
「うるさい。誰かれ構わず女なら片っ端から口説くお前と一緒にするな!」
「じゃあルティーナの事、好きじゃないんだ」
「ジルバ、お前なんでさっきからルティーナのことばかり言う? ああそうさ、俺はフラムベルクを信用させるために打った芝居とはいえ、彼女を辱めたお前を許さないぞ」
ジルバがそらみろといわんばかりに破顔する。
「ほらほら~ついに本音が出たよ」
「出てない!」
ルウム艦長が再び右手に拳を作った。だが普段の冷静さを欠いた艦長の拳は、ジルバのへらへらした顔にめり込む事なく躱されるばかりだ。
ジルバはひらりひらりと艦長の必殺の拳を躱しながら、余裕とも言える笑みをその端正な顔に浮かべている。
彼に振り回されているルウム艦長の方が、目元に強い疲労感を滲ませながら肩を大きく弾ませていた。
私はみかねて席を立った。もう、子供じゃないんだから、馬鹿な殴り合いなんかしないで欲しいというのが本音だわ。
「ちょっと二人共――」
その時、逃げに徹していたジルバが、部屋の扉の前へ追い詰められた。
好機とばかりにルウム艦長が、空気を切る音が聞こえるような、素早い拳を彼に向けて放つ。
その時ジルバが私を見た。
ほんの一瞬だったけど、彼の優しげな青い目が言葉を告げていた。
「君達の幸せを誰よりも願ってるよ。これで借りは返したからね」
「……!」
ルウム艦長の拳が空を掻く。そこにジルバの姿はなかった。
ジルバは後ろ手で扉を開け廊下へ飛び出すと、脱兎のごとく走り去っていったのだ。
「ジルバ!」
ルウム艦長はしばし呆然と、誰もいない薄暗い宿の廊下に立っていた。
両目を見開いて、あの優男の残像を見い出そうとするかのように。
私も何が起こったのか、すぐに理解する事ができなかった。
「あいつめ……散々人の心を引っ掻き回しやがって。何が借りを返しただ」
口ではそう言いつつも、ルウム艦長の横顔には、言葉では言い表せないような苦々しさと、清々しさが滲み出ていた。
「……ジルバ、逃げちゃいましたね」
私はそっと彼の腕に右手を載せた。
ふっとルウム艦長が目を細める。呆れたように。
「構わん。あいつはやっと自由になることができたんだからな。海賊からも、海軍からも。だから、これでいい……」
ルウム艦長は部屋の中に再び戻り、机の上に置いてあった自分の黒い長外套を着込んだ。
「ルティーナ、俺の話はこれで終わりだ。君さえ良ければ、夕食にはちょっと遅くなったが、下に降りて一緒に食事しないか?」
実はさっきからお腹がすいてきて、腹の虫が音をたてないか、ひやひやしていたのよ。私は喜んで、といわんばかりに光り輝く笑顔でこたえた。
「それはいいんですけど、奢って下さいます? 私、海兵隊を呼んでもらうのに、有り金を全部ルースにあげちゃったんです」
「それは悪かったな。そこまで迷惑かけたんだ。もちろん、奢るさ」
私は差し出された彼の手をとった。彼の大きな手は、私のそれを包み込むように、だが、しっかりと握り返してきた。
ああ。
私はこのぬくもりを失いたくなかったのだ。
絶対に無くしたくなかった。
どんなことがあっても。
よかった。
本当に、よかった。
そう思うと急に目に熱いものが込み上げてきた。
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