【2】目の前に迫る危機

 私には彼の無念さがよくわかる。

 今から一ヵ月前の早朝。エルシーア国の海の玄関。ジェミナ・クラス港から一時間ほど北上した海域――ボルヴェルグ諸島で、帰港の為通りがかったルウム艦長のお父様の船が、海賊フラムベルクの待ち伏せによって、焼き討ちに遭ったのだ。


 私達はその直後の現場へ一番最初に駆け付けた船であったが、時すでに遅く、かの船は壮絶に全身を炎で包まれていた。

 海賊フラムベルクの船は、まだ私達の手の届く距離で視認され、奴は私達を尻目に悠々と離脱しようとしていた。


 ルウム艦長は即座に海賊船を追うように命じた。

 奴等に気付かれないよう、船を島影に潜めさせながら、フラムベルクの船に一気に近付き、横並びになった途端、片舷斉射を仕掛けたのだ。


 この砲撃でフラムベルクの船はメインマストが折れて航行不能になり、島の浅瀬に乗り上げた。

 だが、フラムベルクの船は二隻いた。しかも、首領であるフラムベルクは無事なもう一方へ乗っていたのだ。


 私達は即座に奴の船を追った。風は私達の味方だった。

 ルウム艦長はどんなに時間がかかっても、フラムベルクを追っただろう。でもそれは水平線の彼方から見えた船団によって、断念せざるを得なくなった。


 船団――それは大小さまざまで数十隻いただろうか。

 私達はこのエルシーア北方の海域を縄張りとする、『隻眼のロードウェル』率いる海賊船団と遭遇してしまったのだ。




「どんなに時間がかかっても、俺は奴をこの手で捕まえる。必ずだ」

 

 艦長はたった一隻でも、フラムベルクを追うべく、海賊船団の中に進みたい気持ちで一杯だったに違いない。けれどたかだが百名にも満たない海兵隊と二十門の大砲で、恐らく五百人は下らない海賊達と戦うというのは自殺行為だ。


 私達は船団に合流するフラムベルクの船をただ見つめるしかなかった。

 奴を見逃すしかなかった。

 そして、時間だけがとうとうと過ぎていった。

 

 このエルシーア近海には、ここ数年海賊船が増え続けており、王都からエルドロイン川を下り運ばれてきた、貴金属や貴重な鉱石を積んだ商船が海賊の被害にあっている。だからエルシーア海軍もその対策のために、海賊退治専門の艦隊を作ったらどうかという話が、アスラトルの海軍本部の方で持ち上がっているらしい。


 けれど私達の最優先事項は、艦長のお父様の命を奪った『海賊フラムベルク』だ。ルウム艦長の訴えはジェミナ・クラス軍港司令官に聞き遂げられ、奴の船を見つけたら、他の任務より優先してもよいという許可が与えられている。


「フラムベルクは、『隻眼のロードウェル』配下の海賊。ジェミナ・クラス近海を主に縄張りにしているはずだから、奴が海に出ている限り、いつか必ず出会えるはずだ」


 ルウム艦長は小さくため息をついた後、まるで私の同意を求めるようにこちらへ振り向いた。


「そうですよね。……アスラトルの方まで南下したら、そこの海を縄張りにしている『月影のスカーヴィズ』配下の海賊船に、文句をつけられるはずですから。やっぱりフラムベルクは、この付近の海に必ずいると思います」


「でも。奴の船をみかけない。あれから一月がすぎたというのに」


 ルウム艦長の重苦しい声が再び甲板に響いた。

 白い手袋をはめた両手をぐっと握りしめて、静かに頭を振った。

 額にはらりと黒髪の一房が垂れて、その下で光っていた青紫色の鋭い瞳に影を落とす。


「艦長。焦ったらフラムベルクの思うつぼだと思うんです。それに奴だって、海に出たくても出られない理由があるのかもしれませんよ」


 私は咄嗟にそう言った。艦長がフラムベルクを諦めていないのはよくわかるが、正直、こんな暗い表情で海を見続ける姿を私は見たくない。


「海に出られない……理由……?」


 ルウム艦長が意表を突かれたように呟く。


「ええそうです。例えば……」


 私は考えられる可能性をあげてみた。


「フラムベルクは二年前に、艦長のお父様のベル・クライド号に捕まっています。フラムベルク自身は逃亡して、船だけが残されたそうですが。それに先日の追撃で、私達も奴の船を一隻拿捕だほしています。こうも立て続けに船を失えば、フラムベルクも乗る船がなくて海に出られないんだと思うんです」


「……そうだな……」


 ルウム艦長は腕を組んで、そっと息を吐いた。

 相変わらずの仏頂面だが、その眼からは膠着状態から逃れたいと訴えかけていたような、焦りの光が薄らいだように見える。


「父の船を襲った時。拿捕しそこなったもう一隻は、『隻眼のロードウェル』が用意した援軍の船だったのかもしれない。ならば、フラムベルクは自分の船を失った事になる。我々が拿捕したからな」


「そうですよ。それに、拿捕した船に乗っていたフラムベルクの手下達の取り調べも大分はかどっているはずです。ジェミナ・クラスの海軍詰所に立ち寄って、最新の報告を審問官から頂いてきたらどうです? 何か新しい事がわかったかもしれません」


「よし。今日早速、詰所の方へ行ってみる事にする。ありがとう、ルティーナ」


 ルウム艦長が薄い唇に笑みを浮かべてうなずいた。

 私は何もできないけれど。

 あなたがそうやって笑いかけてくれるかぎり、私は剣をとり、あなたの側で海賊達と刃を交える事など恐れはしない。


 私は何故か、艦長の静謐な不思議さを伴った微笑が好きだった。

 その心の深淵には何を考えているのかわからない部分があるけれど、艦長がああやって微笑む時は、何事も上手くいくという、確信に近い気持ちが沸き上がってくるのだ。


「では艦長。後ろへ行ってアスコット航海長に、今後の針路を指示しに行ってきます。日没まで哨戒任務を継続し、その後帰港ということでよろしいですか?」

「ああ。そう伝えてくれ」


 ルウム艦長は笑みを浮かべたままうなずいた。だがその左手は、右腕を軽く掴むようにのせられている。


『どんなに時間がかかっても、俺は奴をこの手で捕まえる。必ずだ』


 逃げ去っていく海賊船を見送るしかできなかったルウム艦長の悔しさ。

 どんなに推し量っても、私が真にそれを理解する事は難しいだろう。

 はやくその気持ちを、仇敵フラムベルクにぶつけることができる日が来るのを願うばかりだ。


 再び厳しい顔に戻ってしまったルウム艦長が気になりながらも、私は自分の副長としての務めを果たすため、きびすを返して船尾に向かって歩き出した。


「……えっ!?」


 その時、私の視界を真っ白なのようなものが覆った。

 ほのかに油が混じったような、そんな不快な臭いもする。


「煙……?」


 私は目を疑った。メインマスト中央前の昇降口。その後ろにある後部甲板の昇降口。足元の甲板の隙間という隙間から。

 白い煙がいく筋も昇っている。ゆらゆらと数を増しながら昇っている。


 一体何が起こったというのだろう。私は驚きながら後ろを振り返った。


「艦長大変です! 火災が発生しました!! 船が、船が!」


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