炎の海賊の船首像

天柳李海

【1】因縁の敵

 私達が駆け付けた時、海は燃えていた。

 否。正確にはその海上で漂う一隻の軍艦が、炎に包まれて燃えていた。

 空は夕焼けのように炎の赤い光が満ちており、それを反射した海面は真紅に染まっていた。私はその恐ろしい光景を、乗船するアマランス号の後部甲板の右舷側で、ただただ見つめているだけだった。


「くそっ! 間に合わなかったか……」


 驚きのあまり身動きすらできなくなっていた私の隣で、心の底から悔恨と呪詛を含んだルウム艦長の声がした。


 私は知っている。艦長が昨晩から気ぜわしげに甲板を歩き回っていた事を。

 そして彼の不安は不幸にも的中した。夜明け前にジェミナ・クラス軍港を出て一時間後、この凄惨な現場を目にする羽目になったのだ。

 

「ベル・クライド号がやられるなんてありえねぇ。最初から待ち伏せてやがったんですよ! 炎の海賊フラムベルクの奴!」


 後方で舵を握る航海長のアスコットが、憎々し気に吐く言葉が聞こえてきた。同時に、表に感情を出さないルウム艦長の蒼眼が大きく見開かれた。


「奴だ……。まだここにいるぞ! ルティーナ」


 名前を呼ばれた私は、艦長が食い入るように見つめているその視線の先をたどっていった。

 海には他にぽつりぽつりと島が浮かんでいる。それは上空からみれば巨大な首飾りのように連なって見える事から、『ボルヴェルグの首飾り』といわれる群島だ。


 その島々の間に、船影が二つ見える。どちらもジェミナ・クラス海域で荒し回っている『海賊フラムベルク』の大型船だ。大型といっても、奴等が焼き払った海軍の船、4等軍艦ベル・クライド号よりはひと回り小さく、しかし、私達の沿岸警備船アマランス号とは同じ5等級の船だ。

 一隻につき大砲だって20門は備えているだろうし、乗っている海賊の人数も二百は下らないだろう。


「東側のレナ島の方へ向かえ。アスコット!」


 ルウム艦長が後部甲板で舵輪を握る航海長へ針路変更を命じた。肩口まで伸びたゆるやかなうねりをともなう黒髪と、艦長だけに着用が許される濃紺のケープが風をはらみひるがえる。私の眼には、それが、海賊へ戦いを告げる宣戦布告の旗印のように思われた。


「待って下さい、ルウム艦長! 、フラムベルクを追うというんですか!?」


 私は咄嗟にルウム艦長の前に立ち塞がった。

 けれど私には――このアマランス号の副長とはいえ、所詮女の身である私には、艦長を力づくでとめる事などできはしない。


「グレイス副長。俺がここに来たのはそのためだ」


 艦長は私の肩に手をかけ、予想通りあっさりと押し退けた。私はよろめきながらも、彼の広い背中に向かって叫んだ。


「しかし! この距離で奴等に追いつけるとは思えません。それに、今は炎上している僚船の救出作業を優先させないと……!」


 ルウム艦長が振り返った。私は思わず息を飲んだ。


『もう間に合うものか』


 艦長の突き刺さるような視線と言葉が私に直接ぶつかった。

 昨夜は一睡もしていないのだろう。死人のように色を失った顔の中で、落ち窪んだ青い双眸だけがぎらついた光を放ってそう言った。私はそこに、海賊への抑え切れない怒りがくすぶっているのを見た。


 無理もない。今も炎上を続けるベル・クライド号は、彼の父親エーリエル・ルウムが艦長として乗っている船だからだ。

 目の前で父親の船が燃えている。そしてそれを襲った海賊が、今まさにこの場から悠々と引き上げていこうとしている。

 今追わなければ逃してしまう。

 ルウム艦長は黙ったまま私を一瞥したかと思うと、再び背を向けた。


「総員戦闘配備につけ! これから本船は海賊フラムベルクを追撃する」




 ◇◇◇




「……ナ、ルティーナ……ってば!!」

「わぁっ!!」


 私ははっと我に返った。


「まったく副長ともあろう者が。真っ昼間から海図室で居眠りこいてていいのかい?」

「あっ、ごめんなさい。ジルバ料理長……」


 私は慌てて辺りを見渡した。ほっと胸をなで下ろす。

 海図室の中には私とこの年若い(といっても私より三つ上だけど)料理長だけしかいない。


「ほれ。頼まれていたリラヤ茶だよ」


 白い素焼きのマグの中には、暗褐色のお茶が香ばしい香りをたてている。


「ありがとう。夜の当直が終わってから、あまりよく眠れなかったの。だから、今頃になってちょっと……眠気が……」


 私はジルバの手からマグを受け取った。ジルバがにかっと無邪気に笑う。肩口まで無造作に伸びた濃い金髪と、潮焼けした浅黒い肌のせいなのか、それがとても眩しげにみえる。彼はルウム艦長と同い年で二十八才だが、人なつこい性格のせいか、二十ぐらいの若者のような幼さを感じてしまう。


「それにしても、ちょっと惜しかったな~。王子様のキスで目覚めさせる方法っていうものもあったもんなー」


 私は思わず唇を引きつらせた。

 ジルバの人なつこい性格は好きだ。彼の人付き合いには垣根がない。あってもないのと同じくらい低い。誰とでもすぐに打ち解け、何時の間にか仲良くなっている。本当に誰からも好かれている好人物だ。


 けれどここは民間の船ではない。エルシーア海軍に属する軍艦なのだ。

 任務中は自分の職務に忠実であって欲しいし、上官には敬意を払ってもらわなくてはならない。

 うーん。それにしても、ちょっとぬるいかも。これ。

 私はリラヤ茶をすすりながら、冗談混じりに呟いた。


「ジルバ料理長。まさかと思うけど、ホントになにもしてないわよね?」


 するとジルバは生粋のエルシーア人らしい水色の目を細めて、信じられないと言わんばかりに私の顔を見つめ返した。あまりにも真剣なまなざしだったので、私は思わずマグから唇を離した。


「実は……一回だけ……」

「……えっ?」


 ジルバにしてはめずらしく、ぼそぼそとしたささやき声だったので、私はよく聞き取れなかった。


「だから、その。一回だけ……」

「一回、だけ?」


 ジルバが何時の間にか、海図を広げている机に手をついて、私の顔を覗き込んでいた。満面の笑みをたたえながら、じりじりと端正な顔を近付けてくる。


「一回だけでいいから、キスしてもいい? ルティーナ」


 ああ、もう。

 私は咄嗟に、迫ってきたジルバの顔にマグのリラヤ茶をぶっかけていた。


「うぎゃぁ!」


 だらだらとリラヤ茶の褐色の液体を頭から滴らせながら、ジルバがひるむ。

 私はその隙に席を立ち、ジルバの背後にある出入口へと回りこんだ。


「料理長。悪いんだけど、もう一度リラヤ茶を作り直してくれる? 何かぬるいのよ。私は熱いのが好みだって知ってるでしょ?」

「ううう……」


 ジルバがごしごしと目をこすり、綿のズボンから男物にしては派手な柄の、真っ赤な絹のハンカチを取り出して顔を拭いた。きっと何人か付き合っている『彼女』からの贈り物だと思う。


「ひどいじゃないかー。男前なこの僕の顔に、あっつい茶をぶっかけるなんてー」

「あら、ごめんなさい。料理長の顔があまりにも男前でびっくりしたから、手がすべっちゃったのよー」


 私はそう言いながら海図室から甲板へ出た。

 料理長と遊んでいるひまはない。ポケットに入れてある懐中時計を見たら正午を三十分も過ぎていた。


「おっと……!」

「あっ!」


 どすんと私の額が誰かの胸元に当たった。

 滑らかなシルクのスカーフに肩口に垂れる短い濃紺のケープ。

 かすかに漂う――刃の手入れに使う時の錆び止め油の臭い。

 それが誰であるのかは顔を上げずともすぐにわかった。ルウム艦長だ。


 もう正午を三十分も過ぎているから、航海日誌ログを確認するため、海図室にやってきたのだ。

 私は一瞬この場から逃げたくなった。自分のそそっかしさが恥ずかしくて。


「おい、アースシー。何どさくさにまぎれてルティーナを抱きしめてるんだよ」


 海図室の出入口からジルバがひょっこりと顔を出して、唇を不満そうにとがらせている。


「まさか。俺はただ、ルティーナが飛び出してきたから、それをつかまえただけだ」


 そっけない口調でルウム艦長が言い返した。


「あ、ルウム艦長。大丈夫ですから、手、離してもらえます?」

「あ、ああ。すまない」


 あながちジルバの言っていた事は嘘ではない。

 艦長が前方から来た事に気付かなくて、甲板へ飛び出した私が悪いのだが、ルウム艦長は確かに私の両肩に手を置いていた。


「ルティーナったら、顔、真っ赤になってる。へぇーそうですか。そうですか」


 空になったマグの把手をつまんで、ジルバがいじけたように私を睨む。

 良い年のくせに。まるでこどもみたいにすねなくてもいいじゃない。


「ジルバ料理長。こっ、ここはあなたの持ち場じゃないでしょ? それに当直明けの水兵達が、お腹を空かせて食堂でお昼ご飯を待ってるわよ」


 私がそう言うと、ルウム艦長も真面目な顔をして呟いた。


「そうそう。みんな騒いでいたぞ。料理長はどこへ行ったのかって」


 ジルバは諦めたように肩をすくめた。


「はいはい。は消えますよ。そこまで邪険にいわれなくたってねー」

「いや、そんなつもりじゃないのよ。料理長……」


 この人の良い料理長を傷つけるつもりはない。

 私は急に良心の呵責を感じた。


「絶対、僕の方が魅力的だと思うのに。なんでこんな葬式帰りのような、無口で仏頂面の男がいいんだろうね?」


 ジルバはわざとその痩躯を私とルウム艦長の間に割り込み、「はいはい、ごめんなさいねー」と言いつつ、メインマスト中央前にある昇降口まで歩いていくと、そこから第二甲板への厨房へ行くためだろう。階段を降りていった。


 けれど、私は見てしまった。ジルバがルウム艦長の横を通り過ぎた時に、右腕で艦長の脇腹に肘鉄を入れて小突き、『うまくやれよ』と囁くのを。

 ルウム艦長は前を向いたまま、一瞬目を白黒させて、わずかにこっくりとうなずいただけだった。

 ――どういう意味なのだろう。


「ルティーナ」

「あ、はい!」


 私は艦長に名前を呼ばれて我に返った。

 そうそう。惚けているひまはなかったんだ。


「あ、あの、艦長。申し訳ありません。私、三十分ほどうとうとしてしまって、まだ航海日誌ログの記入ができていないんです。本当にすみません」


 私はルウム艦長に頭を下げて、再び海図室へ入ろうとした。


「いや、後でちゃんと記入してくれたらそれでいい。状況は見張りのフリッツから聞いた。今の所、怪しげな船や海賊船はこのジェミナ・クラス沖で見ていないそうだ」


 ルウム艦長はおもむろに歩き出してフォアマスト一番前の前で立ち止まった。真昼の日の光を浴びて、白く輝く帆をふと見上げる。


「……日没まで哨戒任務だ。何事もなければ、今日はそれで帰港しよう」


 ルウム艦長の声はいつも通りの明瞭さはあったが、覇気が感じられない。

 彼は帆を一瞥してから、おもむろに右舷の船縁に肘をつくと、今度は青とも緑ともいえぬ深みをたたえた海と、雲ひとつない透明な空の境界をじっと見つめていた。私もまた、そんな艦長の虚ろな横顔をながめていた。


 ずっとこんな感じだ。ジルバ料理長が『葬式帰りのような』などと、失礼なことをいっていたけれど、実際艦長はまだ喪に服しているのを私は知っている。

 濃紺のケープの下に隠されて通常は見えないが、艦長の右腕には黒いリボンで作られた喪章がつけられているのだ。


「……あれから、一ヵ月ですね」 

「ああ」


 相変わらず海と空の境界を見つめながら、ルウム艦長がうなずいた。

 一呼吸おいて、「フラムベルクの奴……」噛みしめた歯の奥から、彼が言葉を吐き出した。

 忌むべきかたきの名をそっと。

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