第三十六話 正しさと空言
──……
私は自分の事を「世間に溢れる平均的な十八歳の女性の中でもずば抜けて教養のある人間である」と自負しているのだが、つい今しがた『帽子屋』と呼ばれている男の口から出たワードには一切聞き覚えが無い。
生まれて初めて体験した地震のショックで一時的に取り乱しはしたものの、男の丸眼鏡の奥にある瞳を見据えたまま心を落ち着かせて何度も
(考えるのよ、アリス……彼は自分がベルゼブブであると認めていたわ。それはそうとして、役割? 全うするって、いったい何を? ベルゼブブでありながら『変成王』が役割? 不思議の国にはそんな名前の付いた生き物なんて、)
「ええ、ええ。ええ、そうです。不思議の国には悪魔は勿論、変成王など存在しませんとも」
「!?」
嗚呼、またよ。
イカレ帽子屋──いいえ。ベルゼブブは、まるで私の思考を見透かしているかのような話し方をする。彼に読心術やテレパシーといった
「ええ、その通り。ンッフフ。
そう言って、ベルゼブブはひどく優雅な動きでシルクハットを拾い上げてから自身の頭に被り直すと、前屈みになり黒手袋に包まれた左手でマグカップの取っ手を握り、飲み口を唇に運んでゴクリゴクリと甘ったるいコーヒーを
いったい何が『違う』のかしら?思考盗聴に“近い”だなんて
「ンフフッ、ンッフ……電波など必要ありませぬ。その身、その心。小生の前に存在するだけで十分なのです」
(さっきから意味の分からないことばかり言って、本当に腹が立つわ……! これだからイカレた生き物は困るのよ!!)
「ンンンー……まあ、そう怒らないでくださいな。ネタバラシは
甘ったるい猫撫で声が言葉を
「ンッフフ……さて、さて。小生はレディにもう一度だけチャンスを与えます」
(チャンス?)
心の中で問い返すと同時に、男が左手の指をパチンと鳴らす。
「レディが本当に自分を『正しい』と思うのであれば、何も困る事は起こり得ませぬとも。ええ、ええ」
くすくす、くすり。小さな小さな嘲笑が“お母様”の記憶と重なって、私の理性を狂わせる。
「──っ、何が言いたいの!?」
感情に任せて椅子から立ち上がったところで、私の体に自由が戻ってきていることに気が付いた。
そして、本能的に理解させられる。私の頭から足の爪先に至るまでを、何らかの手段を
「さあ。さあさあ、レディ? これが最期のチャンスです」
ニタニタと薄気味の悪い笑みを浮かべた男が、ゆらりと片腕を上げて私の背後を指差した。
人差し指の先を視線で追って体ごとゆっくり振り返れば、つい先ほどまで何も無かったはずの壁に木製の扉が三つ出現しており、反射的に「え」と
「どうぞ、自由にお逃げください。レディが本当に正しい人間であるなら、その扉の先は全て正しい道に繋がっております」
言葉の意味を解釈するより先に、いったん落ち着いて大きく息を吐き思考を巡らせた。
この男の能力?が私の体を襲ったのは、この建物内に入ってからだ。少なくとも、街中や庭にいる段階で手足が自由を失った覚えはない。彼が振る舞った飲食物には手をつけていないのだから、トリックがあるとすれば『ベルゼブブの家の中』だろう。つまり、建物外に出てしまえば能力(と
仮定すると同時に、彼の提示した『さいごのチャンス』に飛びついた。
当然、ここへ来た時と同じ玄関扉から脱出するという策も浮かんだが、そのためにはまずベルゼブブの隣を走り抜けて彼の背後にある扉をくぐり、リビングから出なければならない。途中で捕まってしまう可能性まで
(まずはここから離れないと──……)
ベルゼブブは言った。私が本当に正しい人間であるならば、扉の先は全て正しい道に繋がっていると。
私が間違うなど絶対にない。
それなのに。
「!?」
三つのうち一番右端にあった
──……
熱い、熱い。別室でも屋外でもない。どこまでも暗闇と炎の広がる
「ン〜ンッン〜ンン〜」
扉を開け放ったまま一歩二歩と
先にある風景は同じく火の海。はじめから逃げ道など用意されていなかったのだ。
「嗚呼、レディ。なんと
「……騙したのね」
「何を仰るやら……先に小生を
「!!」
低く低く、言葉が落ちる。細められた海色の瞳に射抜かれた──たったそれだけで、ドクリと心臓が大きく跳ねて悪寒が背筋を駆け上がった。
今だ開け放たれたままの扉の向こうからは熱気が流れ込んでおり、暑いはずだというのに両手がぶるぶると震えだす。
いつの間にか息継ぎの仕方を忘れていることに気がついて、一つ大きく息を吸った。
「わた、し……私は、貴方を騙そうとしたりなんて……」
騙そうとした覚えはない。
はっきりとそう言い切ってしまえばいいだけの話なのに、喉に『何か』がつっかえている異物感で声を上手く出せない。
(……私は、彼を怖がっているの?)
ああ、そうだわ。この感情、この既視感。私は──……ベルゼブブに強い恐怖を覚えているのだ。
どうしようもなく
嫌、嫌。そんなの困るわ、絶対にダメよ!だって、ようやく“ ”のに。
「それに、レディが本当に正しい人間であるならば、『自分は正しい』などと考えもしないものなのですよ。自らの“罪”で
ギラつく青が私を映し、男は愉快そうにクックと喉を鳴らす。
バチンッ!扉の奥で
(……そうよ、そうだわ。簡単な話よ)
「さて。嗚呼、ようやく……ディナーの時間でございます」
「アリス、大丈夫。これから何が起きたって、私はずっと貴女の味方よ。アリス、貴女は正しい人間だわ。間違っているのはこの男。こんな悪い奴は、」
──……殺してしまえばいいのよ。
透き通るように美しいロリーナ姉さんの声が、私のすぐ耳元でそう囁いた。
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