第二十四話 マインドコントロール

「……っ、」

「……? 大丈夫?」


 吐き気の不快感に思わず片手で口を塞げば、蜘蛛男は椅子に座ったまま私の顔を覗き込み、先ほど差し出していた手で背中をさすってくる。

 そんな彼を横目で睨みつけながら「どうして私の名前を知っているの?」と問えば、蜘蛛男はわざとらしく目を見開きぱちくりとまばたきしてみせた。


(気持ち悪い)


 彼の撫でた部分から背骨を伝って不信感が駆け上り、喉元に迫った胃酸を無理やり飲み込んで大きく息を吸う。

 二人の間に生まれたわずかな静寂を切り裂いたのは、


「どうして、って……お嬢さんは、どこからどう見ても『アリス』だよ。『アリス』以外、他に似合う名前なんて浮かばないな〜……」


 男の放ったそんな言葉だった。


「〜〜っ!!」


 嬉しすぎてイってしまうかと思ったなんて下卑げびたセリフを初めて聞いた際、はっきり言って「理性のタガが外れた蜘蛛なのだろうか?」と軽蔑してしまったのだが、今ならその感情がはっきりと理解できる。


(……私には、『アリス』という名前しか似合わない、ですって……?)


 嗚呼……嬉しい、嬉しい!嬉しい!!こんなに嬉しいことってないわ!!

 どこからどう見ても『アリス』だなんて、嬉しすぎて軽く絶頂してしまった気がするもの……!!


「……貴方……とっても、素敵な人ね」


 歓喜のあまり緩んで仕方がない口元を片手で覆い隠したまま彼を見やると、ゆうなる蜘蛛は「そうかな~?」なんてわざとらしく首を傾げた。


「素敵よ……」


 ええ、そうよ。蜘蛛界でも傑出けっしゅつしていて、人間界においても素晴らしい。他でもないアリスがそう思うのだから間違いないし誇っていいわ。

 ねえ、お母様。愛の告白にも等しい先ほどの言葉、貴女の居る地獄の底まで聞こえていたかしら?


(天にも登る気持ちだわ)


 この世で『アリス』の名前が似合うのは私だけ。そう……私のものよ、じゃない。


「ごめんなさい。私、正直言うと貴方のことをとても変人だと思っていたし、十パーセントも信用していなかったの。でも、今の言葉を聞いて考えを改めたわ」

「あははっ、謝らなくてもいいんだよ~! 胡散臭いってたまに言われるんだ~」

「……アリスにしか見えないだなんて、この国に来てから初めて言われたわ……ありがとう」

「そうだろうね~。“ここ”でお嬢さんが『アリス』に間違いないって初見で確信できるのなんて、俺だけだよ~」

「……貴方、だけ……」


 ――……彼だけが、“私”という存在を認めてくれた。アリスであると、初めから既知してくれていた。

 おまけにとても優しくて、穏やかで、心が広くて、窮地きゅうちで手を差し伸べてくれて……そんな蜘蛛ひとに出会えたなんて、私は相当ラッキーよ。


「ふふっ、どう? 手を組んでくれる気になったかな~?」

「……先に、貴方の目的を聞いてもいいかしら?」

「うん、いいよ~」


 蜘蛛男は相変わらずにこりふわりと朗らかな笑みを浮かべたまま椅子に深く腰掛けて背もたれに体を預けると、のんびりとした動きで腕を組む。

 そして、一つ小さな息を吐き、


「俺は、王様の身体からだが欲しいんだ~」


 なんてことを言うものだから、思わず「は?」と“アリス”らしくもないセリフを吐いてしまった。


(どういうつもり?)


 せっかく「彼は素晴らしい蜘蛛である」と考えを改め、心の底から信用してあげたそばからこの理解に苦しむイカレた言動。先ほど与えた称賛の言葉をまるまる返してほしいくらいだわ。

 彼の恋愛対象が男性だという部分に関して文句をつけるつもりはないけれど、色恋沙汰に私を巻き込まないでほしい。

 次々に不平不満が湧いて出る私の心を見透かしたかのようなタイミングで、蜘蛛男は「あっ、」と声を上げこちらに顔を近づけた。


「な、なに……?」

「身体が欲しい、って。今のは、お嬢さん……アリスくんが思ってるような意味じゃないよ~?」


 それではいったい他にどういう意味が含まれているのかとわざわざ問うまでもなく、蜘蛛男は一拍分の間を置いてから言葉を続ける。


「つまり、王様の抜け殻が欲しいってこと~!」

「抜け殻……死体?」

「そうとも言うね~。俺はたしかに王様のことが大好きだけど、恋愛対象は……アリスくん。君みたいに可愛い女の子だから、安心して?」


 隻眼せきがんを細めた蜘蛛男はどこか熱のこもった声でそう囁くと、優しい手付きで私の頬をするりと撫でた。

 思い返せば、彼は初めて出会った時からこうして何度も「可愛い」と表白ひょうはくしてくれる。それはまるで、彼にとって私――アリスだけが特別な女性だ、と吐露とろしてくれているかのような感覚に陥らせた。

 もちろん、彼の吐く言葉に深い意味なんて一ミリグラムも含まれていない可能性だってある。けれど、目に見える『特別扱い』というものはどこまでも快楽的で、とてつもない満足感を与え、自己顕示欲を満たしてくれて、思考を麻痺させる。麻薬に似た効果を持つのが端的たんてきだ。


(それにほら、見て? お母様。彼の水晶体が映しているのは、私だけよ。そう、他でもない……“アリス”だけ)


 私の勘違いなんかじゃないし、妄想でもない。これは今、目の前にある現実だ。

 ……しかし、だからといって自分の身を預けるにあたいする人物であると認めるに至ったわけではない。


「ありがとう、目的はわかったわ。でも、気になる事がまだあるの」

「うん、な~に?」

「貴方に協力することで、私に何かメリットはある?」


 彼の目的が赤の王の肉体ならば、いつかきっと彼の『呪い』を再び真正面から受けなければならない時が来るのだろう。あの男に一泡吹かせてやりたいのは山々だが、できることなら“それ”は避けたいのが本心だ。

 蜘蛛男だけが得をするなんてオチは何も楽しくない。


「メリットならあるよ~」

「えっ、」


 驚きを隠しきれない私の顔を見てから、彼はくすりと小さく笑ってこちらの片手をすくい取り、


「俺なら、アリスくんにかけられた『呪い』を解いて……君を、に戻してあげられる」


 甲への口づけと共に落とされたそのセリフは、今までに食べたどんなパイよりも甘味なものだった。

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