第十二話 真のアリス
フルートの音に似た小鳥のさえずりが耳を撫でて、あたたかい風に乗って通り過ぎた甘い香りは優しく
(……?)
おかしいわ。聴覚や嗅覚が機能していることも、目を閉じた状態で今、身の回りに生物の気配を感じていることも……全て。
天国や地獄なんてものは人間が創った空想世界にすぎず、死んだ後はただ『無』に還るだけで、何も感じることはないはずだ。死後に関しての見解は数あれど、私はその一説を信じている。
それなのに、私の体はどうして尚も『人間』の真似事を続けているのだろうか?
「……」
ゆっくり瞼を持ち上げると、まず最初に水晶体が認識したのは太陽の光。眩しさで反射的に目を細めた時、視界の端へ映り込んだ生物を見て一瞬で意識が覚醒した。
「……! ああ……っ! お目覚めですか?! アリス!!」
「!?」
このクソ気違いバイコーン!!よくもまあいけしゃあしゃあとそんな台詞を吐けるものだわ!!
頭のおかしい生き物には『羞恥心』や『後ろめたさ』なんて常識的な感情は完備されていないのでしょうね!?
「……っ、この……!!」
体を起こすよりも先に、まずは罵倒の言葉を浴びせてやろうと声帯を震わせてから気がついた。
(……あれ?)
――……喋ることができる。
いいえ、それだけではない。一度は離れ離れになったはずの舌が、私の口内へ帰省しているではないか。
(……どういうこと?)
脳みそがひえて冷静さを取り戻し始めるにつれ、状況も少しずつ理解できてきた。
とりあえず、仰向けで寝転がったままの私はイカレバイコーンに膝枕をされている。そして、周辺の景色は初めに見た幻想的な湖へ修復されており、
「……アリス……? やはり、まだどこか具合が悪いのですか……?」
整った眉を八の字にして私の顔を覗き込むイカレバイコーンも、どうやら怒りはおさまっているようだ。
綺麗な銀色の髪が陽光を弾く様だけは相変わらず絵画のように美しいのが腹立たしい。
腹立たしい……の、だが。
「……私、何で……」
やはり疑問は「死んだはずなのになぜ蘇生しているのか?」という部分に帰着する。
「……あの、アリス……それは、」
「わかったわ……貴方の仕業ね?」
神話の中で『ユニコーン』のツノには毒を中和したり、あらゆる病気を治す力があるとされていた。
この男はあくまでも自称・ユニコーンなのだが、ここは何が起きてもおかしくない『不思議の国』である。
ツノ一本で病気を完治させるのなら、二本もあれば死者蘇生も可能なのではないだろうか?という結論に至り、夜空のように煌めく紫の瞳をまっすぐ仰ぎ見た。
「貴方が私を助けてくれたのね?」
「えっ? い、いいえ……その、私は……」
「謙遜しなくいいのよ。まあ、“あんな事”をした後ですもの。罪悪感くらい覚えておいてもらわなきゃ困るけど……助けてくれたことに対しては、純粋に感謝しているのよ。ありがとう」
微笑みを向けながら片腕を伸ばすと、自称・ユニコーンはなぜか一瞬びくりと肩を震わせる。だが、特に抵抗する素振りは見せなかったため、そのまま彼の頭を優しく撫でると、
「……アリス……」
今にも泣き出しそうな表情を浮かべたまま、蚊の鳴くような声で私の名前を呼んだ。
「……良かった」
「な、何がでしょう……?」
「あのまま死んでいたら私は貴方のことが大嫌いになっていたし、もし生き返るチャンスを得られたならその時は確実に貴方を殺していたわ」
「!?」
私の言葉を聞くなり、ユニコーンは綺麗な瞳を丸めて口をつぐみ、微かに震える両手を合わせてぎゅっと握りしめてしまう。
私が目覚める前までの、とにかく始終イライラしていたイカレバイコーンの姿からはかけ離れているその異様な挙動に「また突然激昂し始めるのではないだろうか?」という不安が募るばかり。
だが、
「……アリスに……アリスに、嫌われるくらいなら……私は自死を選びます……」
「……えっ?」
彼がぽつりぽつりと紡ぎ落としたのはそんなセリフで、心の内に渦巻いていた負の感情がプシューッと一瞬で抜け落ちてしまった。
「嫌われずに済むのなら、私は嘘つきで構いません……」
「……あのー、」
「非礼などという言葉では収まりきらないほど、『アリス』に対してあるまじき発言や暴行の数々を、私は……私は、なんて事を……本当に、本当に申し訳ありませんでした……!」
「ねえ、」
「いいえ、いいえ……!! 私の言葉による謝罪など『アリス』にとっては何の価値もありません!! 死んでお詫び申し上げます!! どうか、私の口を裂き舌を引き抜いてください……!! 四肢を削ぎ落としていただいても構いません!!」
「少し落ち着いて!?」
ついにはらはらと涙を流し始めてしまったユニコーンの姿を見て慌てて体を起こし、原っぱで正座したまますんすんすすり泣く彼に向き直る。
正直、あまりにも豹変しすぎていて気持ちが悪い、というのが本音だ。
二重人格なのだろうか?それとも、私はまた途中から夢を見ていた……?……いや、それだけは絶対にない。あの激痛は確かに本物だった。
「生き返らせてくれただけで十分よ。私はもう、貴方を殺すつもりはないわ」
「……さすがはアリス、何とお優しい……今のアリスを見れば、慈愛の女神ですら恥じることでしょう……」
「……」
手のひら返しの速度が尋常ではなく、ごまのすり方は異常なほど露骨である。
「では、このユニコーン。アリスに救っていただいた命は、アリスのために使い切ると誓いましょう。たとえ星が降ろうとも、この身、この魂……全てを使って、アリスを守ると約束します」
「そう……」
どんな宝石も霞むほど煌めくアメシスト色の瞳を見ていると、「そんなこと勝手に誓われても困るわ」とはなかなか言いづらいものだ。
どんな心境の変化か知らないが、私を『アリス』だと認めてくれたのならそれだけで良しとしましょう。
「そういえば……貴方、喋り方そうじゃなかったわよね……? 改まったりしてどうしたの?」
「……お恥ずかしい話ですが、アリスに聞かせてしまったのは“なまり”のようなものでして……『真のアリス』に対して
――……真のアリス。
彼が私をなぶり殺す前、独り言のように何度か繰り返していた言葉だ。
「……聞かないでおこうと思っていたのだけど、やっぱり質問してもいい?」
「はい、勿論です! 何なりと! 何が知りたいですか?! ああ、そうだ……! 私の身長でしたら百と八十二、歳は千と少しです……!」
そんな情報には微塵も興味無いわと言ってやりたい気持ちをぐっとこらえ、いつぞやの某虫同様に話が脱線してしまわないよう「そうなのね、覚えておくわ」と適当にあしらって本題に入る。
「貴方……どうして急に、私が『真のアリス』だと認めてくれる気になったの?」
「それ、は……」
そこで言葉を切った彼は唇を引き結んで俯くと、少しの間を置いてから
「私、には……私は……今日、こうして貴女様に出会うまで、この国に来てから数百年間……赤の王による『呪い』の呪縛に苦しめられていたのです……」
(……まただわ)
芋虫さんの話にも登場した『赤の王』と呼ばれる人物。そして、『呪い』という言葉。
「……貴方は彼になんと言われたの?」
「……!! あの男の『呪い』をご存知なのですか……!?」
弾かれたように顔を上げて私を見る彼に「噂を耳にしただけよ」と返せば、紫の瞳にほんの少しだけ怒りの色が滲んだような気がした。
「……赤の王は、私にこう告げました。『お前がその手で真の“アリス”に触れることなど、一生かけても叶わない』と……」
芋虫さんは言っていた、王は直接「お前を呪ってやる」と口にするわけではないのだと。そして、やはり自称・ユニコーンの話でも、『呪い』の言葉はひどく抽象的だ。
「呪いを受けたあの日から、何年、何十年……! どれだけ時を経ても、私の元へ顔を見せるのはただ『アリス』と名が付いただけで思い上がる低俗な小娘ばかりじゃった……!! 真のアリスには程遠く、何度この私を『バイコーン』などと
座ったままの自称・ユニコーンはその時の怒りを思い出しているのか、わなわなと肩を震わせ低い声で言葉を繋げる。
「ああ、苛立たしい……!! 赤の王などと
ああ、デジャヴだわ。先ほどまで童話のように美しかった湖が、彼の怒りに呼応して再び血の池地獄へ
だが、たった一言「落ち着いて?」と声をかけた瞬間、暖かい風と共に花びらが空へ舞い上がり、異様な変化はいとも簡単に止まってしまった。
「一度ならず二度までもお見苦しい姿を晒してしまい申し訳ありません……!!」
「いいのよ、気にしないで。それよりも、私を『真のアリス』だと認めてくれた理由の続きが聞きたいわ」
「はい、勿論です……!」
ユニコーンは自身を落ち着かせるためか、深呼吸を繰り返してから再び口を開く。
「そして今日、私は……この目で奇跡を目撃しました」
「奇跡……?」
「真のアリスとは、神に選ばれた唯一の少女……つまり、神の子・キリストにも等しい尊き存在。奇跡を起こせる貴女様は、間違いなく『真のアリス』であると確信しました……!!」
……ん?
「そして、真のアリスが私の目の前に現れたということは、クソガキ……赤の王による『呪い』が打ち砕かれたという証拠……!! 貴女様――アリスが、この長きにわたる苦しみから私を解放してくださったのです……!!」
「……」
何の説明にもなっていないどころか、話がループしていることについては触れない方が賢明だろう。と、
「……そう……理由はわかったわ」
本当は「このユニコーンは相当キまっている人だ」ということ以外何もわからなかったけど。
「それにしても……『呪い』なんてものを簡単に使えてしまう赤の王って、いったいどういう人なのかしら」
「もしや……アリスは、あの男に『呪い』を受けていないのですか?」
「そうね。『呪い』を受ける受けない以前に、夢の中以外でまだ赤の王と会えてすらいないわ」
「夢の中……?」
途端に、ユニコーンは目を逸らし表情を曇らせたまま押し黙ってしまう。
そして、何か言いたそうに口を開いては閉じるという行動を何度か繰り返した後、一度瞼を伏せて深く息を吐いてから私を見た。
「……アリス。どうか、白ウサギに気をつけてください」
「……? どうして?」
首を傾げて問い返すと、ユニコーンは静かにかぶりを振る。
「詳しくは言えない、ってこと?」
「……あの
「……よくわからないわ」
そんなに面倒な存在なら、殺してしまえばいいだけの話だ。あの非力そうなウサギ男一羽くらい、先ほど目にしたユニコーンの力があれば簡単に殺せるだろうに。
出る杭は打ち、邪魔な芽は摘む。それが、より良い世界のつくり方だと知らないのだろうか?
(……まあ、いいわ)
それなら、私が代わりに“つくり直してあげれば”いい。
ワンダーランド――楽園のために。
「……ああ、それから……ねえ、」
「はい!」
「その敬語……とても気味が悪いから、普通に喋ってちょうだい」
「……はい……」
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