第九話 呪い
(……え?)
今、彼はたしかに『呪い』という言葉を口にした。
赤の王とやらが芋虫さんに対して森から出られなくなる呪いをかけたのだ、と。
「……呪いなんて、そんなもの……あるわけないわ」
「……ああ、その通りだ……」
「!?」
頭に思い浮かんだそのままを唇から落としておいてなんだが、素直に肯定されるとは思っていなかったため無駄に驚いてしまう。
「……『呪い』とは、もとより……“それ”を受けたと主張する者の……強い思い込みから生まれた、空想……あるいは、被害妄想……そうでしかないと、我も思っていた……だが……」
「……?」
「……」
いったん口をつぐんだ芋虫さんはどこか遠くを見ながら二、三度まばたきをしてからのんびりとした動作でキノコから降りて、ズボンを両手でぱんと払い、どこから取り出したのか……大きめのストールを緩く羽織ってこちらに向き直った。
「……クッキーくんに、こうして……口頭で説明するのは、とても簡単なことだが……実際に“見せた”方が理解しやすく、説得力もあり、効率的だと……そう判断した……」
「そ、そう……」
「……まずは一度、下に降りよう……」
「……えっ!?」
下に降りるですって……?この高さを……?!
登って来る時はただ反発するキノコに身を任せるだけで良かったためとても楽だったが、降りるとなればそうはいかないだろう。
一段一段、このビルキノコに沿う
だからこそ、今この瞬間まで『それ』を出来るだけ無意識下へ追いやっていたというのに。
「……っ、」
「……そうか……人の子には、羽が生えていないのか……失念していた……」
羽が生えていないのは芋虫さんも同じでしょう?と言うよりも先に、彼は私の背後に立ちお腹に腕を回して抱きついてきた。
「……っ!? なに、」
「……クッキーくん……少しの間、大人しくしていてくれると……我は、とても助かる……よい、しょ……」
その眠くなるような口調と声音からは想像できないほど力が強く、私の足はいとも簡単に地面から離れて宙ぶらりんになってしまう。
そして、自称・芋虫の奇人はなにを血迷ったのかビルキノコのカサの端ぎりぎりまで歩を進め、
「……では、クッキーくん……下へ降りるぞ……」
「待っ――……!!」
私を抱きかかえたまま、なんの
「〜〜っ!?」
信じられない……信じられない、信じられない死んでしまえ……!!死ぬなら一人で死ねばいいのに!!
飛び降り自殺に巻き込まれる最期だなんて最悪にもほどがある、と文句を言うために首だけで振り返った時、彼の背中から生える鮮やかな蝶の羽が視界に入り息を呑む。
(……芋虫の、はずじゃ……え? 蝶々……?)
混乱する私をよそに四枚の羽はひらりと揺らいで空気を撫で、私たちは何の傷を負うこともなく無事地面に着地した。
同時に、芋虫さんの背中に生えていたものはロウソクの火を消す時のようにふっと
「い、今……蝶の羽が……」
「……うん? 蝶の羽が生えることは、何ら不思議ではない……なんせ、我は芋虫だ……」
「……そう、ね……」
また長々と屁理屈を並べられてはたまらないので、ワンダーランドでは当たり前のことなのだろうと考えて自分を無理やり納得させた。
「……クッキーくん、ついて来てくれ……」
***
芋虫さんの後ろを黙って歩き続けること、約数分。たどり着いたのは、森の一角にあるひらけた場所だった。
周囲に生えているのはありきたりな木ばかりで、自分を軸にして上下左右の四方向へ続く道が伸びている他には特に特筆すべきものは何も無い。
強いて言えば、この場所にだけ柔らかい
「……ここは?」
「……明確なラインが、目に見える形で記されているわけではないが……ここにある道が、この『ニヒツ森』と……『それ以外』の地を分ける、境目だ……」
隣に立つ芋虫さんの顔を見上げて「ラインが無いのなら、どうして境目だとわかるの?」と問うと、彼はちらりと私に目線を向けたあと黙って頷き、前を見て一歩ずつ踏みしめるようにゆっくりと足を進め始めた。
「……?」
「……クッキーくん……」
「なあに?」
同じように隣を歩きながら、彼の声に耳を傾ける。
「……繰り返すが……我は……『呪い』というのは、所詮……対象者の、被害妄想に過ぎないと思っている……いや、思っていた……」
過去形の物言いに引っかかりを覚えたものの、余計な口出しをせず芋虫さんの挙動を見送っていると、彼は四方向へ別れる道の中から適当な一本を選んで前へ出た。
すると、
「……『呪い』と言っても……赤の王は、我に……『芋虫を呪う』などと、明確な言葉を口にしたわけではないのだ……」
「!?」
何の冗談だろうかと、隣にいる芋虫さんを凝視する。
たった一歩……靴一つ分だけ森から出た途端、
「……だが……どう、だろうか……我の……から、だ、は……森……っぐ、森から、出る、と……っ」
なんと――彼の両手は、自分の首をぎちぎちと絞め始めてしまった。
「……い、ぎ……息、を……する、の、を……っゔ、ぐ……拒絶、っが……っ!」
(……悪ふざけじゃないの……?)
芋虫さんの指先が白くなっていることから、力加減など全くしていないのだと理解できる。
(このまま放っておいたら……この芋虫さんは、死ぬのかしら? 生き物が死ぬ瞬間を、見られるのかしら……?)
そんな考えが頭に浮かんでぽわりと心を弾ませてしまった私をよそに、芋虫さんは震える足で後退して『森』へ戻ってきた。
途端に彼の両手はあっさりと首から離れてしまい、少し残念だけれどその場に座り込み咳き込みながら深呼吸を繰り返す芋虫さんの背中をそっと撫でて様子を伺う。
「……っはぁ……っは……げほっ……ゔっ……」
「大丈夫……? 今の、」
「……はぁっ……い、ま……今、クッキーくんの見た、光景こそが……我にかけられている『呪い』だ……」
少しするとようやく呼吸が安定したらしく、芋虫さんは「……手間を取らせてすまない……」と言いつつ立ち上がり、額の汗を服の袖で拭った。
「……さっき……赤の王は、はっきり呪いを口にしたわけじゃないって言っていたけど……それじゃあどんな『呪い』なの?」
「……『お前は、この森から出ると息ができなくなるのだろう?』……と。赤の王が、我に“言った”のはそれだけだ……」
まるで意味がわからない。
そう思ったのが顔に出ていたのか、芋虫さんは瞼を伏せて言葉を続ける。
「……当時の我も、クッキーくんと同じ疑問を持ったとも……言葉の意味がわからない、と……なんせ、そんな覚えは無かったからだ……しかし、我の身に起きていることは現実であり……『呪い』としか言いようがないのも、また事実……故に、我はこの森から“出られない”のだ……」
「……そういう、ことなのね……」
呪いなどというものが実在するはずがないと、今もまだそう思っているのは本当だ。
だが、先ほどの光景を見てしまったからには「絶対にありえない」と全否定できないでいることもまた本当である。
「……クッキーくんは……ノーシーボ効果、というものを……知っているだろうか……」
「ノーシーボ効果……? プラシーボ効果なら知っているわ」
「……強い『思い込み』は……時に、人を殺すこともできる……声を聞かせるだけで、言葉を理解させるだけで……“それ”が可能な者も、この国には存在する……」
(思い込み……)
なぜか夢で見た黒蛇の姿が脳裏をよぎり、ぞわりと全身に鳥肌が立った。
「……クッキーくん……この先を、まっすぐ行くといい……」
芋虫さんの指差した先は四本の道のどれでもなく、草木がぽかりと不自然に口を開けている獣道。その先は薄暗くてよく見えないため、どこへ続いているのかもわからない。
「ここを? どうして?」
「……ユニコーン、と呼ばれる者がいる……クッキーくんが、本当に『アリス』であるならば……会っておいて、損はないだろう……」
「ユニコーン……?」
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