肉体を持たないカノジョと、四季を過ごした。

姫野西鶴

春(1)

 消し去ってしまいたい記憶は誰にでもあるはずだ。

 もちろん僕にもある。それも強烈なやつがある。

 中学生男子という生き物に共通する特徴じゃないかと思うけど、僕は「勘違いをしやすい」タイプだ。特に「人間関係」についてよく勘違いをしてしまうタイプだ。

 どうせこの文章は誰にも読ませるつもりはないのだから、遠回しに言っても仕方ない。僕は中学三年生の時、恋愛関係でやらかしてしまったことがある。心底消し去ってしまいたい過去だが、反省のために書いておく。


 板橋さんは美少女という感じではなく、むしろクラスの中でも目立たないタイプだったと思う。度の強い眼鏡をかけた女の子だった。

 僕ともあまり接点はなく、図書委員をやっているということと、五花いつかという印象的な下の名前を覚えていたくらいだ。もちろん彼女のことをその名前で呼ぶ勇気はなかったが。

 それが「気になる人」に変わったのは今年の冬休み、年始のころだった。

 板橋さんから僕に年賀状が届いたのだ。

 アニメ調の犬の手描きイラストと「今年もよろしく」のコメントが書かれたハガキだった。

 この上手なイラストが手描きだ、と断定できたのは、板橋さんの年賀状の犬と同じ画像素材がネット上のどこかで配布されていないか、僕の人工知能に片っ端から検索させたがヒットしなかったからだ。

 ひと昔前は誰のスマートフォンにも同じ人工知能が搭載されていたらしいが、今は持ち主のネット利用の傾向に合わせて最適化された人工知能を個人で所有するのが当たり前になっている。機種変更をする際はこの人工知能のデータを引き継ぐ作業が必要だ。

 僕のスマートフォンにはAIアイという安直な名前の人工知能がいて、中学生がよく利用するWebサイトを熟知していた。

「アイ、この犬のイラストとよく似た画像を探して。中学生が利用しそうな年賀状素材配布サイトを重点的に調べてみて」

『完全に一致する画像は見つかりませんでした。構図が似た画像は100万件以上の候補があります。色彩が似た画像は300万件以上の候補があります』

 僕の指示にアイが機械音声で返答した。

 すぐには納得せず、マイナーなサイトで配布されている画像素材ではないかと疑い、検索範囲を広げたり狭めたりして繰り返し検索しているうちに三が日は過ぎてしまった。

 十年前に世界的なウイルスパンデミックが起こって以降、人や物品の直接的なやり取りを自粛する風潮が広まったことで、年賀状なんていう古風なやり取りは死滅したと思われていた。SNSで一言よろしくと言えば済む時代に、時節の挨拶としてハガキを送るのは結構な手間がかかる。

 だから、犬のイラストの検索作業を切り上げた僕の心は感動で震えていた。

「送るか? ただのクラスメイトに年賀状を?」

「こんなに手間をかけるか? ただのクラスメイトへの年始の挨拶で?」

「答えは――Noだ」

 今考えてみれば直視できないほど痛々しい思考回路ではあるが、この時の僕は「板橋さんにとって僕はただのクラスメイトではない」からこそ「手間をかけて年賀状を送ってきたのだ」、という結論に揺るぎのない確信を持っていた。

 これが正しい、と思いこむとその方向に突っ走ってしまうのが僕という人間だ。自慢ではないが、小学生の頃に一万円札が詰まった財布を拾ったことがあって、そのときも「警察に届けるのが正しい」と思って中身には一切手をつけなかった。

 そんな僕だから、板橋さんからの年賀状に返事を出すべきだ、と思い込んだら行動は早かった。これが悲劇につながった。

 冬休み明けの登校初日、僕は駅前のショッピングモールで購入した紙の年賀状にびっしりと手書きの文章を敷き詰めて学校へ持参した。僕には絵心がないので、大盛りの文章を書くことで板橋さんがかけた手間に応えようとしたわけだ。

 不思議なもので、それまでまったく意識していなかったクラスメイトが「自分のことを好きなんじゃないか」と思ったとたん、板橋さんが実はとても魅力的な人であるように思えてきて、筆が止まらなかった。眼鏡の奥の彼女の瞳が喜ぶところを想像すると、付き合うことができたらどこに行こうかとか、結婚するなら相手のご両親にはどう挨拶をしようかとか、そんなことまで妄想していた。

 心のかさぶたを剥がして塩を塗りこむような行為だが、そんな妄想を詰め込んだ年賀状に書かれた文章がどんな内容だったか、ここに転載しておこう。


「謹賀新年。素敵な年賀状をどうもありがとう。僕もイラストが描ければいいんだけど、できないので文章でお返しします。今年は高校受験でお互い大変だろうけど、よい一年にしたいですね。板橋さんの第一志望はどこでしたっけ(知らないのかよ)。僕は北高キタコー志望で、この前の模試の偏差値から考えると、十分合格圏内だと思います。よければ今度一緒に勉強会をしませんか。2030年元旦 前原コウ」


 厚かましい。

 聞いていないのに自分語りばかりだ。

 カッコ書きによる自分へのツッコミが痛々しい。

 我ながらひどい文章である。郵送ではなくあえて直接手渡しをすることを選んだのも「特別な年賀状」への「特別な返信」という雰囲気を出すためだったけど、いらん心遣いにもほどがある。これまでほとんど話したことのない相手をいきなり勉強会に誘う押しの強さも、恥ずかしい思い出スコアとしてはなかなかの高得点だ。結果は言うまでもないだろう。

 教室に入った僕は一目散に板橋さんの机を目指した。

「板橋さん、これ」

 よせばいいのに、他の女子も見ている目の前で、僕はお手製の年賀状を彼女に差し出した。手書き文字が敷き詰められたハガキを見て、板橋さんは怪訝そうな表情を浮かべている。

「すごい年賀状をもらったから、返事に」

 胸を張る僕に、板橋さんの隣にいた女子たちが冷ややかに告げた。

「ああ、五花は毎年クラス全員に送ってるもんね」

「よくやるよね」

 全身が硬直した。

 なんのことはない。板橋さんはクラスメイト全員に同じ年賀状を送っていて、三年生から彼女と同じクラスになった僕はそれを知らなかったというだけだった。

 彼女にとって僕はただのクラスメイトの一人にすぎない。

「――あの、一緒に勉強会とか」

 破滅の予感をすぐそこに確信しながら、僕は声を絞り出した。

「あ、そういうのじゃないんで」

 眉を中央に寄せた板橋さんの表情と、その冷たい声のトーンはずっと忘れないと思う。


 その週末に迎えた一月の三連休を、僕は自室のベッドでうずくまって過ごすことにした。不意に板橋さんの顔と自分の過去の考えや行動がフラッシュバックするたび、声にならない声をあげて悶えながら枕に顔を埋めることを繰り返す。

 どうしてこんなことになってしまったのか。

 明らかにその原因は、僕がモテないからだ。僕がもっとモテる男子だったら、板橋さんの年賀状を勘違いしたりはしなかっただろう。勘違いしたとしても、思い出して恥ずかしくなるような返事は書かなかっただろう。仮に年賀状を教室で渡す場面までたどり着いてしまったとしても、あの場の空気を読んでもっとスマートな対応ができたんじゃないだろうか。

 モテない男子が勘違いして舞い上がった――それが僕の消し去ってしまいたい過去だ。もっとモテる自分であればこんな思いをせずにすんだだろうし、モテる自分になればこの記憶を上書きできるかもしれない。

 モテたい。

「女の子にモテたい」

 僕のそのつぶやきはスマートフォンに向けて喋ったわけではなかったのだが、僕の人工知能は律儀に反応し、検索エンジンを立ち上げてくれた。

『参考になりそうな動画コンテンツがあります』

「動画――?」

 視線をスマートフォンの画面に向ける。動画の最初の一分がプレビューされ始め、恰幅のいい金髪の男性が語りかけてくるのが見えた。普段なら再生ボタンをタップしない類の動画だったけど、失礼だが、その動画の投稿者がまったくイケメンには見えないのが気になり、僕は思わず動画を再生していた。

『はいどうも、始まりました「すぐモテチャンネル」。この動画は新宿のホストクラブでトップを獲ったことがあるボク――Nickyが、明日からすぐにモテたい中高生男子にモテ技を指南する動画ですー。モテたい男子、ついてこい!』

 アイが検索してきてくれたのは、世界最大の動画共有サイトMyTubeで百万回以上再生されている恋愛指南動画だった。投稿者のNickyさんはホストという職業のイメージからは少し遠い、下膨れした顔でにこやかに笑っている。アイが表示している検索結果によれば、チャンネル登録者も数十万人いる人気のMyTuberらしい。

 ネット上の知識しかないが、ホストとは女性のお客と一緒にお酒を飲んで「ウェーイ!」と騒ぎ、楽しいひと時を過ごしてもらう仕事だと聞いている。Nickyさんのふくよかな体はそういう健康に悪い夜の生活を続けることで作られたものなのだろう。

『第一回の今日は、大事な基本からみんなに教えておこうかー。この動画を見てる男子は「モテる男は結局顔だ」とか思っちょるんと違うか? そう思ってるならとんだ勘違いや』

 瀬戸内あたりの方言で淀みなくしゃべり続ける元ホストの投稿者の言葉は、僕の耳を右から左に通り抜けていった。

(男は顔じゃない、中身だ、とか陳腐なことを言うつもりなんだろう?)

『だからって、「男は顔じゃない、中身だ」なんてことを言うつもりもないで』

 予想外の言葉だった。僕は枕から顔をあげてスマホの画面に見入る。

『いいか男子諸君、モテは「形式」や。顔とか中身とか、おもろい奴だとか、そんなのはどうでもいい。モテる形式を身につけとるかがクリティカルに重要なんや』

(形式――?)

『形式っちゃなんのことかっちゅうと、女子への気遣い全般。女子の言うことをよく聞く、女子の言うことに共感する、女子の言うことを受け入れる、この三つやな。傾聴、共感、受容、これにもとづいて行動することを「モテの形式」と呼ぶ』

 傾聴、共感、受容。

 投稿者の後ろの画面にゴシック体で大きく表示されたその三つの文字を、僕は脳内で復唱していた。

『もっと具体的に説明しよか。例えばちょっと気になる女の子からメッセージをもらった時のことを考えてみよう。そやな、「わたし昨日いちごのクレープを食べたの」ってSNSで言われたら、君ならどう返事する?』

(「僕は歌舞伎揚げを食べました」かな)

『はい、一番ダメな返事の仕方は「そうなんだ、僕は〇〇を食べたよ」ですー』

 いきなりのダメ出し。スマホを持つ手に力が入った。

『なんで相手からなにも聞かれてないのに自分のことを話すの。それは最低、モテの観点から言えば本当に最低。モテの形式を思い出そう』

 傾聴、共感、受容。

『ひとつずつ行こか、まずは傾聴。「いちごのクレープを食べたんだね!」がモテの形式に従った模範回答やな。相手の言ったことをおうむ返しにすることで、「あんたの言うことを聞いてますよ」とアピールするわけやね。次は共感。食べ物の話を振っとるんじゃけん、「チョーおいしかった!」と相手は言いたいわけやん? だから模範回答は「おいしそうだね」。「あんたの経験や感情に共感しますよ」っちゅうアピールが重要や』

 Nickyさんの言葉は日本語なのにまるで外国語のように聞こえる。

 しかしこの「モテの形式」に従って考えれば、僕の板橋さんへの年賀状が間違っていたことは明らかだ。なぜあんな反応をされてしまったかといえば、彼女の気持ちをまったく考えずに自分の気持ちばかりをぶつけていたからだ。この人は正しいことを言っていると思った。

『最後は受容。そもそも相手はなんでメッセージを送ってきてるんか考えよう。そりゃ「おいしいクレープを食べたんだ」っていう経験を誰かに聞いてもらいたいからやろ? となれば、「もっとあんたの話を聞かせて」とアピールすればいい。メッセージなら「最後に短い質問をつける」のが定石やな。これを踏まえると、女の子の「わたし昨日いちごのクレープを食べたの」への模範回答は、「いちごのクレープか、おいしそうやな! 飲み物はなににしたん?」とか「いちごのクレープいいね、おいしかった?」とかになる』

 顔も中身も重要でない、というNickyさんの発言が腑に落ちた。彼が例示した模範回答には、回答する男子の「自分」がいっさい出てきていない。相手の発言に対して一定の形式に従った返事をしているだけなのだ。

『で、どうしてこの模範回答がモテることに繋がるか、わかるかな? それは「私の話を聞いてくれた、わかってくれた」っちゅう経験は人間の本能にふかーく結びついた喜びだからなんよ。これは男子も女子も同じなんやけど、だいたい女子のほうがこの喜びを強く感じる脳ミソをしとる。だから女子はイケメンよりも「自分の話を聞いてくれる人」と一緒にいるほうが嬉しいし、楽しい。そう感じるからその人のことを好きになる』

 人間の本能に訴えると言われては、僕もうなずくしかない。とはいえ、女子の中には男性アイドルみたいなイケメンが好きな子も多いはずだが――

『モテるっちゅうことは相手に好きになってもらうっちゅうことやからな。確かにイケメンを好きになる女子もおる。お金持ちの男を好きになる女子もおる。視聴者の男子諸君の意中の女子がそういうタイプな可能性はあるやろ。でもな、「モテの形式」に従って気遣いを示してくれる男子が嫌いな女子はおらん。これは断言できる。自虐風自慢になってしまうが、さしてイケメンではないボクが、イケメンがうようよしちょる新宿の某ホストクラブで営業成績トップをとれたことを考えてみてくれ』

 これは逆に説得力があった。

 Nickyさんはお世辞にも美男子とは言えないタイプだが、方言を隠さないゆったりとした話し方には人を惹きつける穏やかさがある。ホストクラブで営業成績トップだったという話は盛っているとしても、再生回数百万回超えの動画をいくつも投稿している事実は実力の証明だと言えるだろう。

『相手を気遣って自分に興味を持ってもらう、好きになってもらう。自分のことを話し始めるのはその後。まずは「モテの形式」を身につけること、これが今日みんなに覚えてもらいたいことやね。相手の話を引き出す小技とか、出会いのきっかけを作る小技とかについては、チャンネルから他の動画をチェックしてみてな。それじゃ、動画へのいいねや高評価、チャンネル登録をよろしくー。Nikcyでした』

 アイの検索してくれた動画はそこで終わりだった。短い時間だったが、僕は人生の重要な秘密を探り当てた気がしていた。興奮冷めやらぬといった調子でアイに話しかける。

「これ、すごいよ、アイ」

『お役に立てて幸いです』

 アイからの返事を聞いた瞬間、僕の脳内でさっき聞いたNickyさんの話がフラッシュバックした。とっさに「モテの形式」に従った返事を組み立ててみる。

「アイが役に立つ動画を探してきてくれて嬉しいよ。これからもよろしくね」

 一瞬の沈黙。

『――こちらこそよろしくお願いします』

 機械的な返答。アイの好感度は上がっただろうか。

 アイに性別の設定はないが、機械音声は女性のものをイメージしている。この子に「モテの形式」が通用するかはわからないが、たぶん、今の僕の返答はそう悪くないものだっただろう。

 とはいえ、男子中学生が持っているような安価なスマートフォンに搭載される人工知能には、世界最先端の人工知能が持っているような感情豊かな表現を期待するほうが間違っている。アイで「モテの形式」の練習をするのは難しいかな。

「形式――」

 今学んだことを復唱する。

 自分のことよりもまず相手の気持ちを気遣い、傾聴し、共感し、受容する姿勢を示すという「モテの形式」。過去の思い出を上書きして消し去ってしまうために、僕はこの形式を極める決意を固めた。

「モテるためなら、いくらでも形式を身につけてみせるさ」


 それから僕は、受験勉強と並行してNickyさんの動画を繰り返し視聴するようになった。決してイケメンには見えない彼が営業成績トップのホストに登り詰めたというその言葉を信じて、スムーズに「モテの形式」に従った発言ができるように練習を重ねた。

 正直、英語や数学の勉強よりも熱が入っていた気がする。

 二月、三月と時間は過ぎ、第一志望だった北高への入試を終え、合格発表。

 自分の受験番号が高校の公式Webサイトに掲載された合格者一覧にあることを確認し、安堵に胸を撫でおろす。

 そして四月、僕は高校の入学式を迎えた。

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