第四話 危険な快楽
ジルベール男爵領で暮らしていた時、まだ幼かった私はその頃の事をあまり覚えていません。ですから私は貴族の血が流れていても自分は庶民だと自覚しています。
母は私と姉の前で父のことを悪く言うことは決してありませんが、私たちの目には父親は頼りなくてろくでもない人間だと映っています。
父がもっと真面目で勤勉な人だったら、借金も家の立て直しも母と二人、夫婦で協力していたと思うのです。私は子供心に貴族階級全般を嫌うようになってしまいました。それでも私が王宮など、貴族相手の職場で働きたいのはお給料が良いからという、それだけの理由です。
姉の婚約者であるテネーブルさまのことは、姉と交際中から時々お会いしているので知っています。
落ちぶれた男爵家出身の姉に何故か入れ上げてしまった彼は、一時はストーカーのごとく彼女を追いかけていたのです。ツンデレで超天然の姉もテネーブルさまのことを憎からず思っていたというのに、二人の恋が成就するまでは事件や騒動、周りも巻き込んで色々なことがありました。
婚約が成立すると私と母もテネーブル家に呼ばれ、ご家族の皆さまに紹介されました。テネーブル公爵夫妻であるご両親もお姉さまのガブリエルさまも、とても気さくでお優しい方々なのです。彼らは私の中の貴族像から大きくかけ離れている一家です。そうでなければ姉もテネーブルさまを好きになってはいなかったでしょう。
さて、クイヤール伯爵家に勤めることになった私は住み込みではなく毎日通うことにしました。私自身、家族と離れるのが嫌でしたし、母も姉も忙しく働いているので今までどおり家事を手伝いたかったのです。
お屋敷の料理長ポールさんは見た目によらず、作る料理は繊細で上品な味付けなのです。流石、貴族のお屋敷に長年勤めているベテランです。
出勤初日に私は改めて彼に本名を告げたのですが、彼の中ではもう私の名前はマドレーヌと刷り込まれてしまっているようでした。いちいち訂正するのもやめて、マドレーヌと呼ばれることが定着してしまいました。
気難しいポールさんに私は良く怒鳴られていますが、悪気はない人で、働きやすい場所でした。
一緒に厨房で働いている彼の奥さんがもうすぐ遠方の娘さんのところへ出産の手伝いに行くため、私が雇われたのでした。そうすると数カ月間だけの短期の仕事ですが、私の働きぶりによってはこのままずっと奥さんが帰ってこられても続けさせてもらえるかもしれないのです。それは雇用条件としてお屋敷の執事に聞かされていました。
執事の方からは他にクイヤール伯爵家で働くための決まりも聞かされました。
主家の方々の噂話をしない、彼らに声を掛けられない限り口を利かない、などです。ただの料理人の私には屋敷の居間や応接室に二階の寝室等、ご家族の皆さまがお使いになる場所は立ち入り禁止という項目もありました。
料理人は完全な裏方の役割を担っているので、私が勤め出してから数週間は主家の方々を目にすることはほとんどありませんでした。
ただ、次男のジュリエンだけは時々見かけることがありました。というのも彼は毎朝裏庭で欠かさず素振りや運動をしているからなのです。彼の年齢、体つき、立ち振る舞いや服装から主家の方で近衛騎士である次男のジュリエンの方だと決めてかかっていたのですが、間違ってはいませんでした。
一度だけ長男のフィリップさまも剣のお相手としてご一緒のところを見かけていました。男性二人の動きや筋肉のつき方からどちらがジュリエンか、彼らがお互いの名前を呼び合っていなくてもすぐに分かりました。
王宮医師としてお勤めのフィリップさまは、私の抱いていたイメージ通りの勤勉そうな落ち着いた方でした。ジュリエンの方は茶色の短髪で、笑顔からはやんちゃで人懐っこい感じを受ける人です。と言っても私も水汲みや裏庭の菜園に行くついでにちらりと彼らを見るだけで、まじまじと観察していたわけではありません。
ジュリエンは厨房に来ることもありました。主家の方々が足を踏み入れる場所ではありませんが、彼はお構いなしでした。料理長のポールさんは何とも親し気に彼と世間話までする仲なのです。
彼が生まれた頃からずっとこのお屋敷に勤めているポールさんだからこそ、この態度なのでしょう。ジュリエンの方も毎回厨房に来て、ポール料理長との気さくなやり取りを楽しんでいるようでした。
「また貴方ですか、坊ちゃん。もういい加減にここから食料をくすねるのはおやめ下さい。私があの鬼執事に注意勧告を受けるのですから」
「人聞きの
「……クイヤール家のエンゲル係数を上げているのは坊ちゃんお一人です。栄養は十分足りておいでです」
「お前も言うな。とにかくこのパンいただいておくよ、ありがとさん」
「あっ、それはご夕食のために焼いたもので!」
「鬼執事には鬼執事と呼んだこと内緒にしておいてやるからさ」
「坊ちゃんも同じこと思ってるんじゃないっすか!」
毎度この二人は同じような会話を繰り返しているのです。ポールさんの言葉遣いは主家の方々に対するものとも思えないのですが、このお屋敷に何十年も勤めている彼だからこそ許されるのでしょう。それでも流石のポールさんも他のご家族の方と同じように接しているわけではありません。ジュリエンだけが特別だったのです。
厨房で私の受け持ちは主にお茶菓子と夕食の準備の手伝いでした。ポールさんは朝が早いので、夕食後の後片付けも私の担当となりました。夜遅くまで残って新しいお茶菓子や気になるレシピを試してみることもありました。
頑固者のポールさんですが、私の提案や意見にも耳を傾けてくれるのです。それに私が作った料理を味見しては端的な意見を述べ、気に入ったものは取り入れてくれて伯爵家の食卓に並ぶこともありました。
翌日のお茶菓子を作っていたある夜、私は鍋のチョコレートを混ぜることに集中していたため、背後に人が立っていたことに全く気付いていませんでした。
「何作ってんの?」
ジュリエンでした。そう言えば、彼は夜中でもお腹を空かせると度々厨房に忍び込んで来るのだ、とポールさんに聞いていました。
「夕食に出た豆のスープ、南部料理風の香辛料が少し効いていたろ、旨かった。まだ残っていたら温めてくれよ」
そのスープは私が作ってポールさんも気に入ってくれた一品でした。ジュリエンに直接褒めてもらえるとは思ってもいませんでした。
「知ってるか? 女の大半はチョコレートよりもセックスの方が好きなんだぜ」
「えっと……若旦那さまは夜食をお求めで……スープなら今すぐ準備いたしますから」
ところが、私はスープを温めようとしたのに、何だか妙な雰囲気になっていました。
「いや何か、別のもんが食いたくなった。例えば俺の目の前の旨そうなマドレーヌとかさ……」
マドレーヌとは私のことを指すのだと分かるのに数秒要しました。ポールさんにそう呼ばれていたのを聞いていたのでしょう。彼の瞳に欲望の炎が灯ったのが分かりました。
あれよあれよという間に抱きしめられ、唇を奪われました。ジュリエンがその先にも進みたがっているのが分かりました。熱く
私の体にも火がつき、ジュリエンがその気なら乗ることにし、地下の食料庫に誘い入れました。
彼が上半身裸で鍛錬しているところを見ていて、その鍛え上げられた逞しい体に抱かれることには大いに興味があったのです。
それから私たちはずるずると食料庫での密会を続けることになりました。主従関係に縛られているとは言え、二人共独身で別に何も悪いことではないのです。
ただ、この関係が誰かに見つかると、雇われの身である私は職を失う可能性もありました。ですから私は細心の注意を払い、ジュリエンと逢い引き中は厨房の灯りを消し、食料庫には中から錠を掛けることを決して忘れませんでした。
***ひとこと***
人の話を聞かず、名前を覚えようとしないポール料理長のお陰で、職場ではすっかりマドレーヌが定着してしまったダフネちゃんでした。それはそうと、彼女もマッチョ好きだったのですねぇ。
危険な快楽 チューベローズ
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