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 さちほは学校に行かず引きこもっていた。カーテンを閉め切って、暗い部屋にいると落ち着いた。食べかけのカップ麺は小さな机に乗ったまま。その隣には空になったカップ麺の容器。

 コバエが飛んでいる。総菜パンの袋はいつのものか分からない。食事は主にネットスーパーとuber eatsで済ませていた。親からの仕送りは底をつきかけている。また口座から引き出さないと……。

 水滴が一滴、二滴。シンクを叩く音がする。水道の蛇口が閉まり切っていない。さちほは寝返りを打つ。耳障りだけど、止める気は起きない。

 ふと、ラインが鳴った。充電ケーブルを引っ張ってスマホを手繰り寄せる。うっとうしい。干渉しないでほしかったから、通知を切った。

 光彦が死んでから山のように連絡が来た。親、大学の友人、どこから聞きつけたか分からないけれど一度や二度しかやり取りしていない子もいた。全部、形式的なものに感じて、さちほはどれにも返信しなかった。既読がついて、生存報告だけできれば相手の気持ちも満足すると思うし、実際そうだった。

 そんな気持ちを察してか、あるいは単純に飽きてきたのか、次第に連絡は少なくなっていった。ただ、そのなかでも一人だけ往生際の悪い奴がいた。

 金成だった。あんな仕打ちをしてもラインだけは送り続けた根性は評価に値する。でも、真実味は感じられなくて金成のラインもうわべだけだった。ストーカーらしく連日のように駄文を送ってきた。大丈夫ですか。皆心配しています。だからきっと、今回もどうせ金成からだろう。謝罪や憐みのラインはどうしても読む気が起きなかった。加害者からのラインならなおさらである。光彦はもう戻ってこないのだ。

 彼は直接訪ねてくることもあった。チャイムを鳴らし、ドアをノックした。部屋にいることは見抜かれていた。でも無視し続けた。金成はストーカーだから危険だった。どういう神経してんだろう。それでも、ずっと室内にいる限り安全だった。

 ガチャン。

 さちほは物音に振り返る。玄関の戸に直についている投函口から何かが滑り落ちる。さちほは首を伸ばして見る。白い封筒が一つ。 

 諦めてさちほは起き上がった。無視しようと思っても封筒を寄越した理由が気になった。封筒の背面には金成拓也と書いてある。ビリビリと開けると、手紙が入っていた。手紙は薄い字で石橋さちほさん――という文言から始まっていた。

 さちほは手紙に目を落とした。

 

×××

 石橋さちほ 様

 お久しぶりです。金成です。

 突然のお手紙失礼します。ラインでも連絡がつかなかったので、このようなかたちになってしまったことをどうかお許しください。

 手紙を差し上げたのは僕の名前の件です。今更そんなこと興味ないと思われるかもしれませんが、どうか最後までお聞きください。きっとさちほさんの求めている真実にたどり着きますから。

 さちほさんにはイメージがつかないと思いますが、幼い頃、僕はやんちゃな子供でした。毎日擦り傷を作っては旧友と笑い合っていました。その反面、家では静かでした。父がいるからです。僕はずっと虐待されていました。叩かれたり、真冬に裸で外に出されたこともあります。顔の傷もそのときのものです。同級生には火傷と言っていましたが、実は父に無理やりガスコンロに押し付けられたときのものでした。母はそんなとき黙って見ているだけでした。いつもは優しい母なのに、父がいると豹変しました。

 全部父のせいなんだ。僕は父がいないときを選んで、母に聞きました。どうしてお父さんは僕に厳しいの? お母さんは答えませんでした。でもその意味深な表情が後で分かりました。

 父は本当の父ではなかったのです。

 やがて、母と父は離婚しました。父の暴力は母にも及んでいました。それでとうとう母は離婚を切り出したのです。これには親戚の協力も不可欠でした。

 中学進級を期に、僕の苗字は母の旧姓に戻してもらいました。経済状況はよくありませんでした。母とともに県外に住む祖母の家に移り住みました。そんな複雑な家庭環境で思春期を迎えた僕は不規則な生活を送っていました。普通の中学生が勉強、部活、恋愛に励んでいるとき僕はもっと現実に即した悩みを抱えていたのです。体型は変わり、かつての面影は失われました。

 そんなとき僕はある人を思い出しました。石橋さちほさん、あなたです。僕はあなたのことが好きでした。幼稚園のときからあなた一筋でした。あなたは支えでした。県外の中学に進む前に、一言でも伝えられたらと後悔していました。

 高校生になった僕はあなたの進路が薬学部だと知りました。あなたのご実家の薬局に行って薬をもらったときに、ふとお母様が言ったのです。僕は猛勉強しました。薬剤師に思い入れはありませんでしたが、あなたにはあったのです。自暴自棄になっていた僕が自分を取り戻して、頑張ろうとした矢先、父が現れました。父は金を無心しに来たのです。

 殺してしまおうかと頭をよぎりました。でもそれをしなかったのは石橋さんと会えなくなるからでした。代わりに僕は自分を殺しました。名前は呪縛です。僕はずっと自分の名前が嫌いでした。ゲームのキャラクターから名前を取るなんてどうかしている。俗に言うキラキラネームというやつです。裁判所に経緯を話すと、名前の変更がようやく認められました。もうお気づきかと思います。こうして僕、四津川星琉は死んで、金成拓也になったのです。

 オープンキャンパスであなたを見かけたときのことを今でも思い出します。打ち震えました。僕の想い人があのときのままいたのです。石橋さんの本命の大学がそこだとはすぐに分かりました。あなたは薬剤師に興味がなかった。それに薬剤師になれればどの大学でも関係ない。だから併願の必要がなかったのですね。

 そうして僕は安心して受験に臨みます。幸い学力は足りていました。ネックだったお金の面も、奨学金を利用したり、祖母に頼み込んだりしてどうにかなりそうでした。

 ようやく入学できた大学で、再び石橋さんを見かけます。僕はそこで声を掛けようとしたところ、あなたは誰かと楽しそうに歩いているではありませんか。神前くんです。

 僕は猛烈な嫉妬に駆られました。神前くんから奪おうとしました。学内で見かけるごとに発狂しました。そのうち二人の関係に気づきます。実は石橋さんは神前くんと別れたがっているのではないか。よく口論しているのを見ていたからです。

 そこで一計を案じます。僕は神前くんに接近し、ゲームの話を持ち掛けました。ゲームが好きということは神前くんと友達の話を盗み聞きしていたので知っていました。神前くんとはすぐに打ち解けました。僕みたいな外見の人間でも神前くんは分け隔てなく接してくれました。神前くんとは連日のようにゲームをしていました。そのうち神前くんは色々なことを教えてくれました。自分が石橋さんと付き合っていること。石橋さんの住んでいるアパート。そして神前くんは昔から心臓が悪くて今も薬を飲んでいること。

 僕はそれを聞いてはっとしました。すぐにさちほさんの薬局でバイアグラを入手、それを神前くんに渡しました。精力増強剤として使えるよと言って、騙したのです。このアイデアは、あの石橋さんと初めて言葉を交わしたときの講義で思いつきました。心臓の薬とバイアグラは併用禁忌でしたね。

 それにしても石橋さんが神前くんの持病を知らなかったとは思いませんでした。悪い友達がたくさんいた神前くんのことですから、弱さを見せたくなかったのでしょうか。

 企みは成功し、僕は神前光彦くんを殺しました。直接手を下してはいませんが、間接的に。本当は飲んでほしくはありませんでした。こんなことを言っても信じてはもらえないでしょうが、神前くんはとてもいい友人でしたから。だから心のどこかで、薬を捨てるとか、また別の誰かに渡すとか、そういう展開を期待していました。でももう遅いですね。それもこれも石橋さんのためです。神前くんの石橋さんに対するアタリはキツすぎました。僕はあなたを守るために、彼を殺したのです。

 守ると言えばもう一つだけ伝えなきゃいけないことがあります。僕はずっと嘘を吐いて生きてきました。そうでもしないと生きていけなかったのです。でも今真実を一つだけ言います。僕は誓って、ストーカー行為はしていません。石橋さんの部屋を見ていたのは誰かにつけられているのを心配したからで、ネックレスを取ったのは証拠になると思ったからでした。

 石橋さんをオープンキャンパスで見かけたとき、本当はすぐに気持ちを伝えたかった。でも、あまりに年月が経ちすぎていて尻込みしてしまいました。今の僕の姿を見ても、きっと見向きもされないでしょう。そしてあの日。講義で声を掛けた日からしばらくして、石橋さんがストーカー被害に遭っていることを聞いて、これだと思いました。ストーカーの証拠を押さえて、石橋さんにそれを示せれば僕に好意が向くかもしれない。そう考えたのです。ですから、さちほさんが僕の名前とゲームキャラクターを結びつけたときは正直恐れました。ストーカーではなくても、僕の正体がバレるのは時期尚早だったのです。あんなに詰問されるならゲームキャラクターを自分の名前にするんじゃなかったですね。でも、ああやって僕が殺され続けることで過去と決別するよりほかなかったのです。僕は殺したくてFPSをやっていたわけではありません。殺されるためにFPSをやっていたのです。

 石橋さん、いいえ、さちほちゃん。僕はさちほちゃんに会うためにこの大学に来ました。でももう終わりです。僕にあんなむごいことをしたのは、さちほちゃんの指示だったですね。爪が痛いです。痛くて堪りません。お別れのときが来たようです。

 永遠にさよならです。


×××

 手紙はそこで終わっていた。さちほは手紙を閉じて、深呼吸した。

 金成は星琉だった。しかしそれが判明しても冷静だったのは、星琉が自分に失望したように、すでに自分もかつての好意を持っていなかったためだ。あんな体型を見て誰が好きになるだろう。ましてやこの期に及んでストーカーではないとのたまうなんて。

 ただ、と思う。永遠にさよならということは引っかかった。まるで手紙ではなく遺書だった。

 さちほは金成がかつて言っていたことを思い出す。

 原子になって部屋に侵入する――金成はそう言っていた。さちほは天井を見上げる。天井には染みがあった。

 まさか、と思った。さちほは靴を履いた。玄関を開ける。すると部屋の前に立っていた人に戸がぶつかる。宅配人だった。でも、構っている余裕はない。金成のところに行く必要がある。

「今、急いでるの」

「すぐに済みますから」

「急いでるんだって」

 しかし宅配人は譲らなかった。さちほは怒っていた。ずっと受け取りを断っていたのに全く意思を尊重してくれていない。さちほは宅配人の伝票を奪い取り、書いてあった番号に電話した。クレームを言おうと思った。営業所は三コールで出た。

「あの、ウチに来てくれる配達員、ちょっと対応が悪いんですけど」

 さちほはネームプレートを見た。名前を読み上げて電話口に伝える。

「お客様。申し訳ございません。そのような名の者は弊社に在籍していなくて――」

「えっ、でも目の前にいますよ」

「はあ、そうなんですね……ですが、先ほど申し上げましたとおり、それは弊社のスタッフではありませんから。あっ、ちょっと待ってください。今、確認しましたところ、数ヶ月前に在籍はしていたスタッフに同じ名前の者がおりました。制服を返却していなかったのでよく覚えています。……お客様? ええと、お客様?」

 さちほはスマホを持った手をぶらりと下げた。宅配人は一部始終を見て笑っている。

「最後の贈り物です」

 さちほの動きが止まった。視線を巡らせる。大きなダンボールが台車に載せられている。渡された伝票には見知らぬ名前。宅配人のネームプレートの名前。

「どうして」

 無意識に呟いていた。どうしてこんなことを……。

 投げかけた問いに、宅配人は黙っている。

 動悸が止まらない。心臓が激しく脈打っている。本能が告げている。逃げろと、警告している。でもさちほはその場から動けなかった。

「はじめまして。それ、僕の名前です。やっと言えました」

 声が出なかった。眩暈がして倒れそうになった。さちほは助けを求めようとスマホをタッチする。履歴から光彦を探す。手が震える。かければきっと助けてくれるはず。けれど、そこで思考が止まった。光彦は死んだのだ。友達が離れた今、もう自分には金成しかいなかった。あれほど無下に扱った金成は、しかし、コール音が鳴るだけで電話は繋がらない。

 ――助けて! 助けてよ。……お願い、出て。電話に出て。

 宅配人はさちほの動きをゆっくりと見ている。その余裕がさちほには分からなかった。

「あ、あなたが……ストーカーだったの」

「いいえ。ストーカーならここです」

 目線の先はダンボールだった。くぐもった音が聞こえる。底で蠢く鈍い振動――。

「酷いですよね。この人、あなたをストーカーしてましたから。その上自殺して逃れようとしていました。そんなこと到底許せません。なので僕が罰しました」

 宅配人は爽やかに言った。赤黒い液体が底を濡らして、染みが大きくなっていく。脳が理解を拒んでいた。あれはインク……。きっとインクだと自分に言い聞かせた。さちほはドアを閉めようとする。しかし、宅配人は乱暴に足を差し込んで、さちほを絶望の底に突き落とした。

「ようやく二人になれたんですからもう少し話しませんか」

 お邪魔します、と宅配人は靴を脱いで入ってくる。もう逃げられなかった。だって彼が絶対に見せなかったポケットのなかの右手には、鋭利な刃物があったのだから。

 さちほは、そこでやっと気づいた。

 あの夜、背後からつけていたのは金成に間違いない。でもそれはさちほをつけていたのではなく、さちほのストーカーを尾行していたのだ。贈り物を取っておいたり、ストーカーを隠れて調べていたり、そうやって歪んだ形の貢献でしか金成は愛を表現できなかったのではないか。

 無言電話だって金成の仕業ではない。あのときは動揺していて正常じゃなかった。だから、さちほは直前に見た金成の仕業と誤認したのだ。実際は金成とはラインしか交換していなかった。電話番号を知るすべはなかったはずだ。

 ああ、どうして――。

 どうして、金成を信じてあげられなかったのだろう。金成はストーカーじゃなかったんだ。

 方法は間違っていた。けれど、金成は金成なりの方法で、暴力的な光彦や執着するストーカーから助けようとしてくれていたのだ。

 こんなに身近にいたのに。こんなに何回も会っているのに。住所と電話番号を知る人物に最後まで気づけなかった。

 さちほは後悔した。自分の行いを省みて謝罪したい気分だった。でも、もう遅い。ダンボールから染み出た血液はすでに自分の足元まで届いている。

 原子になって侵入する。金成の言い分は正しかった。今、金成の血液はゆっくりとさちほのつま先に触れあった。

 ぴちゃり。後ずさると陽気な音が鳴った。

 私って、馬鹿だな……。

 ドアが閉まる。無常な音を立てて、鍵がかかる。

 抵抗は諦めた。涙は出なかった。

 明日はさちほの誕生日だ。でも、どうしても、新しい年を迎える未来の自分を想像できない。

〈了〉

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