皿と血と
吉平たまお
まるで物語のような出会い
「あ」
こんなことってあるんだな、と篠原美咲はぼんやりと思った。
図書館で同じ本を取ろうとして手が触れ合うだなんて、今どきドラマでも見ないシチュエーションだ。
「すいません」
「いえ、こちらこそ」
青年の謝罪に、美咲は口籠った。
彼は落ち着いた顔つきをしていて、何処にでもいそうな大学生に見える。
大学生。美咲が手に取ろうとした本は民俗学の論文課題に必要な資料であった。
青年に見覚えは無いが、美咲は他人に興味が無い。近隣の大学の文学部の学生であるならば、
(もしかして、同じ講義を取ってるのかな)
そうだとしたら、借りるのは気が引ける。
かといって買うと高いし……。
美咲が手の置き場に逡巡していると、声を掛けられた。
「あの」
「……はい」
「もしかして、N先生の授業ですか」
「あ、やっぱり貴方も」
「レポートに必要な本を借りようと思って来たんですけど、良かったら一緒にやりませんか」
「……ああ」
美咲は、青年の提案に「良いですね」と返した。高い本を買わなくて済む。それに、一人で課題を黙々とやるのは嫌いじゃないけれどたまには気分を変えたかったし……。
美咲のその悪くない反応に、青年はぱっと顔を明るくして「よろしくお願いします」と微笑んだ。
図書館の勉強スペースでノートパソコンを立ち上げながら、小声で自己紹介をする。
平日の日中だから人は少ないけれど、静かな空間だからつい囁き声になってしまう。
「文学部3年、Yゼミの篠原です」
「先輩だったんですね。文学部2年、Fゼミの鈴木靖睦です」
美咲は鈴木が年下であることに少し驚いた。彼は落ち着いた雰囲気を持っているから同い年か年上かと思っていた。
隣合って座り、机の真ん中に資料を置くことを提案したのも彼だ。ぼんやりしている美咲よりずっとしっかりしている。
美咲は僅かに首を傾げて微笑んだ。
「同い年かと思いました。N先生の講義、少し難しいから」
「出席点低いからって聞いて取ったんですけど、少し後悔してます。……敬語使わなくていいですよ」
「鈴木くんも、敬語じゃなくていいですよ」
「先輩にタメ口はちょっと」
「私も知り合ったばかりの人にタメ口はちょっと」
「……すいません」
鈴木は眉尻を下げてちょこんと頭を下げた。嫌味の感じられない仕草だった。
美咲はワードを開いてタイトルを打ち込みながら、無造作に言った。
「謝らなくていいのに。……あ、ごめんなさい。意地悪な意味ではないの」
「はい。……先輩は、よくこの図書館来るんですか?」
「大学の図書館よりは、ですね」
大学の図書館の方が専門的な資料は揃っているが、欲しい本が借りられていることも多い。
だから美咲は論文作成にはもっぱら此処の図書館を利用していた。通学定期圏内であるし。
「俺もです」
「そう」
もしかしたら家が近いのかもしれないが、あまり話を深堀りする気にはなれなかった。
「……あの、聞いてもいいですか。レポートのテーマなんですけど」
「はい」
「先輩は何にしましたか」
「……ええと、」
鈴木の持つ本とは別の資料のページを捲る美咲の手が止まった。
なんと答えたら良いのだろう。
テーマは既に決まっているし、だいたいの流れも頭の中で出来上がってはいるけれど、話しても変に思われないだろうか。
美咲の困惑した表情に、鈴木は慌てて弁解した。
「いやあの、パクろうとかではないです。
俺のテーマ、ぐい呑みですし。
ただ『食に関わる器』が課題ってけっこう幅広いじゃないですか。だから他の人が何を書くか気になって」
「鈴木さんは知りたがりなんですね。……掛詞ってご存知ですか?」
「え」
美咲はゆっくりと言葉を選びながら尋ねた。
美咲の黒目がちの瞳が鈴木をじっと見つめる。
鈴木の心臓がドキンと高鳴った。
この先輩は、見目も雰囲気も大人しく、どこかたおやかな風情を感じる。
「和歌にもよく使われているアレです」
「あ、『松』と『待つ』みたいな」
鈴木は、ヒントをもらって何の話か察する。
高校でやった古典の授業を思い出した。
それはどうやら正解のようで、美咲は満足そうに頷いた。
「そうです。博識ですね」
「いえ、まあ、短歌の実習を来期に取ろうと思ってて」
「今期取りましたけどおすすめですよ。S先生は面白いですし。
……私のテーマは『皿と血』です」
今なんて?
鈴木は聞き返しそうになったが、思いとどまる。
美咲は微笑を浮かべたまま、穏やかに言った。
「具体的に言うと供物ですね」
「供物」
鈴木は聞き返した。
「はい。御饌や、祭礼。そのあたりを書こうかと」
「く、詳しく聞いてもいいですか?」
何がどう繋がっているのか、鈴木にはサッパリわからなかった。
N先生がよく講義中に言っている『ハレ(非日常)とケ(日常)』に関係があるのだろうか。そう考えるとウケの良さそうなテーマではある。
美咲は左手を頬に当てた。どうしようかな、と言いたげだった。
「ええと。わかりづらかったらごめんなさい。
皿と血って漢字、似てるなぁという気付きからこのテーマにしたんです。
器とは容れ物ですから、皿は課題にぴったりでしょう? 少し範囲が広いですから、血と絡めようと思いまして。
調べてみたら、皿という漢字は象形文字なんです。食物を盛る物を皿と表しているんですね。そして、その皿の中に入れるものを血と表したんです。
古来より、人は神に供物と祈りを捧げてきました。
あ、さっきの御饌というのは、神様への供物のことです。神饌、御贄ともいいます。現在は土器が使われることが多いそうですが、様々な器があるようです。このあたりを深く掘り下げるのも面白そうですし、それに関する食物や祭礼について調べるというのも興味深いと……」
美咲は、はた、と口を閉ざした。少し喋りすぎてしまったようで、鈴木はきょとんとした顔をしていた。
こうなってしまうから、あまり積極的に話したくなかったのだ。
美咲は知りたがりな性質で、他人に自分の考えを話すのも好きだった。けれどつい、話しているうちに熱が入ってしまって相手を圧倒してしまうのだ。
悪い癖だと自覚しているのに、ついやらかしてしまう。
だから、鈴木の反応は予想外だった。
「面白いですね……。皿と血の関係、言われるまで気付きませんでした。そういえばワインはキリストの血でパンは体とか言いますもんね。あー、ぐい呑みじゃなくてワイングラスにしようかな……」
「……鈴木くんは引かないんですね」
「え、なんですか? 駄目ですかね」
「いえ、大変興味深いですが」
「先輩に話しかけて良かったです。来期、同じ講義取りませんか? またこうやって一緒にレポートやりたいです」
鈴木は、目を輝かせて美咲に提案した。
美咲は、咄嗟に近くにあった資料で顔を隠した。
「えっ、嫌ですか!? 嫌ってことですか!?」
「いえ、あの、び、びっくりして……」
嬉しかった。
美咲はあまり人に好かれるタイプではない自覚があり、人間関係も希薄だ。こうして、好意のようなものをぶつけられるとどうすればよいのかわからなくなってしまう。嬉しすぎて。自分の気持ちを持て余してしまう。ゆっくりと資料を下ろして机の上に置いたが、鈴木の顔を見るのは難しかった。
目を伏せる美咲に、鈴木はじわりと頬が紅潮するのを感じた。唾を飲み込んで、勇気を出して一歩踏み込んだ。
「も、もう少し先輩のこと知りたいんですけど……」
「ぁ……その、つまらないかも」
「いえ、興味深いです。とても。俺、知りたがりなので」
鈴木のその言葉に、美咲はふふっと声をもらして笑った。
知りたがりなのは美咲も同じだった。
「……レポートが終わったら、美味しいお茶が飲みたいです」
「行きましょう! ウワー、やる気出てきた」
「私、七時に帰ります」
「が、がんばります」
美咲は微笑んで頷き、資料を読み込み始めた。
鈴木も齧り付くように本に集中する。
レポートの指定文字数は三千字。現在午後二時。お茶の時間を一時間と仮定すると、制限時間は四時間。
二人は黙々とレポート作業を進めた。
午後五時。
ぐったりした鈴木は美咲と図書館の近くの喫茶店に訪れた。
「受験勉強並にがんばりました……」
「お疲れ様」
「あざす。先輩、甘いもの好きなんですか?」
鈴木はカフェオレ、美咲はケーキセットと紅茶を注文した。
チョコレートケーキを選んでいたのが、なんとなくらしかった。
「脳味噌を使うと、糖分を摂取したくなるものなんです」
「ああ確かに……」
鈴木も無意識にカフェオレを選んでいたが、普段飲むのはブレンドが多い。
紅茶に砂糖とミルクを入れてティースプーンでくるくるかき回す美咲は、図書館にいた時より穏やかな顔つきをしていた。
猫舌なのかふうふうと息を吹きかける仕草が可愛くて、鈴木はぼんやりと見惚れながらカフェオレを啜る。
ふと、図書館で読んだ本の内容を思い出す。
「そういえば、昔の人はソーサーで飲んでたんですって。熱いお茶をカップからソーサーに移して冷ましてから飲んでたとか」
「それは……なんだかわかる気がします」
「昔は茶を入れる皿だったと思うと、なんか物事って変わっていくんだなぁって」
「それが当たり前なんですよ。鈴木くん」
「靖睦って呼び方に変えてもらってもいいですか?」
鈴木はキリッとした表情で言った。
名前で呼ばれたかった。
変わるのを当たり前だというなら、良い方に変えてほしかった。
「……ふふ。ウン、仲良くなったらいいですよ」
美咲は、こくりと紅茶を一口飲んだ。ほんのちょっと、いいなと思ったのは内緒。曖昧に笑って流す。
「とりあえず連絡先教えてもらっても」
「鈴木くん」
「ハイ」
美咲は丁寧に切り揃えられた爪でソーサーをこつんと弾いた。
とりあえずで連絡先を教えてあげるほど優しい女にはなれなかった。
「私、皿の中にはいないの」
「は……」
「だからね、がっつかれると怖いの」
「……すみません」
頭を下げる鈴木に、素直な人だな、と美咲は思った。
必要な時に必要なだけの謝罪が出来る人だ。あと、そんなに察しが悪い方ではなさそう。
(なんで私のこと知りたいんだろう)
面白みのない人間なのに。
小さなフォークを手に取り「いただきます」と言って、チョコレートケーキを一口食べる。
甘くて、美味しい。疲れがほどけていくようだった。
「……あの、お詫びに何かクッキーとか」
「いりません。……気にしないでください。私も気にしませんから」
「気にしてほしいです」
美咲は、二口目のケーキをゆっくり咀嚼した。
……鈴木くんは、被虐嗜好があるのかしら。美咲の訝しげな視線に、鈴木は慌てた。
ぶんぶんと首を横に振り「いやそういう意味でなくて先輩と繋がりがほしいっていう」と言い募る。
「俺、どうしても先輩の連絡先が知りたいです」
「いいですよ」
「エッ」
鈴木は目を剥いた。
単なる気持ちの表明であったのでまさか了承されると思わなかった。
断られたばかりであるし。
「悪用しないでくださいね」
「いやそれは絶対にしませんけど、いいんですか!?」
「どうしても、と仰ったでしょう」
美咲はふんわりと微笑した。
そうして「あまり頻繁にお話出来ませんが」と前置きし、「ラインで良いですか?」とスマホを鞄から取り出す。
鈴木はコクコクと頷いて「もちろんです!」とポケットに入っているスマホを掴んだ。
三口目のチョコレートケーキは一層甘かった。
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