せっかのショートショート

せっか

珪藻土を買い占めた男

 有り体に言えば、俺は勝ち組である。産まれた時から金に困ったことは一度もない。どれほど困っていないかというと、まあ頑張れば火星と木星くらいなら買えるかな、と言えるくらい金には事足りている。星の値段なんぞ知らないが、呼吸しているだけで金の方から集まってくるのだから、買えないものがない。


 ただ、金額的に買えても、ならば好きなだけ買ってよいかというと話は変わってくる。世界というやつは金でできている。そして意外と脆い。

 例えば俺がとても美味い米を食べたとする。あまつさえ俺がその米に心底惚れ込んでしまったとしよう。さて、俺が五歳の子供なら召使いを呼んでこう言うだろう。

「世界中のこの米を全部買え」

 これで俺のもとに米が集まる。他の人間は食えなくなる。世界は滅びる。

 金があるというのは、そういうことなのだ。気分ひとつで世界は滅びる。だから、自分の行動が与える余波を見極めなければならない。幼稚園のガキに現実改変能力を持たせちゃいけないのと同じだ。

 とはいえ、俺にも物欲がある。無限の金で無限の物を手に入れられる俺の中には、無限の物欲が渦巻いているのだ。「金を持ちすぎると物欲がなくなる」というのは、所詮貧乏人の戯言だ。要するにこの世界は、俺の物欲と理性の狭間で今日もぐるぐると回っているだけの球体にすぎないのだ。


 そういうわけで、今日は珪藻土とやらを買い占めることにした。どういう訳かは知らないが、その珪藻土というのは驚くほど水を吸う物質らしい。

 太平洋のど真ん中の島で暮らしていると、庶民の間での生活系の流行に疎くなる。今はその珪藻土とやらが流行っているらしいので、世界中から買い占めることにした。流行の品がある日突然ぽっかりと無くなると、庶民は滑稽なほどに慌てふためく。珪藻土が無くなったところで世界が滅びることはないので、安心して庶民の様子を観察できるというわけだ。

 全ての珪藻土製品は明日届くよう手配したので、届いたら片っ端から庭のプールに投げ込んで吸水性能を見てみようと思う。それから、ニュースで珪藻土の無くなった世界を見ながら、贅を尽くしたこの部屋でワインでも飲もう。


 そんなことを考えているとスマホが鳴った。運送業者からのメールが一件。どうやら珪藻土を積んだタンカーが転覆したので明日中の配送はできない、とのことらしい。

 まあ世界中の珪藻土を買い漁るにあたって様々な運送業者に頼んでいるので、タンカーの一隻くらいは問題なかろう。むしろそれによって削がれた俺の興の方が大問題だ。

 そう思っている所に、今度は二十件ほどのメールが一気に来た。件名を見ると、全てがタンカーの転覆を告げる運送業者からのメールだ。

 全滅。そんな馬鹿なことがあるか。あまりに呆気なさすぎる。今この瞬間、俺の物欲を満たすための流行の品は全て海の藻屑と化した。これだけ金があってもそう易々と流行は買えぬ、ということなのか。


 俺を満たすものが唐突に塵と消え、後には無力感のみが残る。フォアグラのように肥大化した物欲は、満たされると限りなく美味いが、宙ぶらりんにされると相応の敗北感とか絶望感のようなものを置いていく。余りに気が滅入りそうなので、とにかくビーチで身体でも動かして忘れようと外に出た。


 地面と睨み合いながら砂浜を歩く。今日は玄関から徒歩二分のビーチがやけに遠い。歩いても歩いても海に着かない。たかが珪藻土が届かなくなったショックだけで、それほどまでに時間感覚が狂ってしまったのか、それともありえないほど足取りが重くなってしまったのか。行き場のない物欲が生んだ無力感に完膚なきまで打ちのめされている自分に、さらにショックを受ける。もはや波の音を楽しむ余裕もない。というより音が聞こえない。

 いや流石におかしい、と顔を上げて気がついた。海がない。後ろを振り返ると、家はかなり遠いところにある。比喩ではなく本当に長い距離を歩いていたようだ。俺は今、本来なら海水の下であるべき場所まで来てしまっている。

 改めて足元に目を落とす。やはり海はない。今度は遠くまで見回してみる。やはり視界のどこにも海水は存在しない。明らかに異常事態だ。これほど突然に、静かに、大量に水を消失させる術を、ついぞ聞いたことがない。海のど真ん中の孤島の海辺に住む俺でさえ、今のいままで全く気づかなかったのだ。どう考えてもおかしい。

 そもそもいつからだ。タンカーの転覆のメールがさっき来たのだから、少なくともタンカーが出発する時点では海があったはずである。そして「海がなくなったため」ではなく、「タンカーが転覆したため」配送が遅れるというのだから、きっと海が干上がったことがタンカーの転覆の原因にはならないはずだ。ならばいったいどのタイミングで……。

 スッ、と嫌な汗が垂れる。あのタンカー、珪藻土を積んではいなかっただろうか。珪藻土を積んだタンカーは一つ残らず転覆していなかっただろうか。

 世界中の珪藻土足拭きマットが海の水気を全部抜いてしまったとでも言うのか。まさかそんなこと、あるはずがない。……とも言えない。この目で珪藻土マットの吸水性を見たことがないのだ。どの商品にも「驚くほど水を吸ってくれます!!!」というレビューが付いていることくらいしか知らないのだ。

 また嫌な汗が首筋を伝う。もしかして、俺はとんでもないことをしてしまったのか。

 手が、身体が、わなわなと震える。自分の顔面から血の気が引いていくのがありありと分かる。しかし、同時に不気味な昂揚感が肺の裏側で渦巻いていることにも気がついた。だってそうだろう、俺は地球上の海水を全て吸った男だ。たった今まで誰も成し得なかったことを、海の征服を成し遂げたのだ。俺は今、この星の七割を占めるあの海を、丸ごと殺したのだ。もはや物欲とかいう次元ではない。万物の母たる海を、自然を、丸ごと支配下に置いたのだ。

 は、ははは、と渇いた笑いが、ぶつ切りにいくつか並ぶ。次の瞬間、俺は家へと駆け出していた。


 キッチンから目につく限りの缶詰を掻き集めた俺は、そのまま車に飛び込んだ。目指す先は海。今まで自動車を拒み続けてきた海水は眼前から消え失せ、道路も交通ルールもない、莫大な自由の大地が広がっている。海を征服した証に、気が済むまでこの海を爆走することにした。

 これからこの世界がどれほど困るのかは知らないが、今この瞬間が死ぬほど気持ちいい。今まで絶対に踏めなかった地面を車で馬鹿ほど轢き散らすのが快感で堪らない。人間の住めない海の底だった場所に車を停めて、缶詰を食いながら海よりも深い色をした夜空の下で野宿するのが人生で一番心地よい。

 持ってきた食料は三日分ほどあるので、ここでもう一泊しよう。きっとこんな風に今日を過ごしたのは世界で俺だけだ。磯の香りのしない夜風が気持ちいい。圧倒的な勝者の気分に浸りながら、眠りについた。


 翌日、昼頃に起きて飯を食ってから、なんとなく音楽を聴きたくなって車載のラジオを点けた。しかし「海から離れてください!」と鬼気迫る警告が繰り返されるばかりで、肝心の音楽を流しているチャンネルはない。これだから庶民はつまらないのだ。どいつもこいつも全く余裕が足りてない。そもそも水のなくなった海に危険な要素などあるはずがないだろう。なんだって離れなくちゃなら、ないの、か……。

「……繰り返します。突如なくなってしまった海水は、なんらかの要因で一時的に蒸発してしまっただけと考えられます。気象庁の発表によると、確定的なことは言えないものの、今すぐにでも蒸発した水が大雨となって地球上に降り注ぐ可能性がある、とのことです。まず海の近くにいる方は海から離れてください。また、海抜の低い土地にお住まいの方は可能な限り高い場所へと避難してください。繰り返します……」

 今度こそ血の気が引いた。体内の血が尽く消えてしまったのではないかと思った。まずい。まずい。かなりまずい。調子に乗ってかなり遠くまで車を飛ばしてきてしまった。空を見上げれば、太陽が薄灰の雲で翳っている気もする。

 優越に浸っていた感情は、不安の氾濫と化した。俺は間に合うのか。許されるのか。

 今にも泣き出しそうな空を今にも泣き出しそうな顔で睨み付けながら、アクセルペダルを全体重で踏み抜いた。

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