第3話
「努力だけでは、アリア様は認めてくださらないって言われちゃったよ」
☆
次の日。
雨が降っていた。入学してから何度目の雨だろうか。まだ両の手指で数えられるほどのはず。もうすぐ雨季が来るだろうから、そこからは気にもしなくなる。
敷地内に寮と校舎が収まっているうえ、普段から外出よりも部屋の中で過ごす派のティロルは雨が降ろうと特に行動の指針が変わる予定もない。
──あ、けど医務室のシーツ干す場所は変えないとダメか。
経験したことのないパターンだ。普段は屋上を専用の干場としているが、雨が降っては当然のように濡れる。今度、忘れないうちに友人か先輩に訪ねておこうと思う。
「努力だけでは認めてくださらない、か」
なかなかに、カエリニア先生も酷なことを言う。
あのロラゲという男が毎日一人で鍛錬を積んでいることを見て、知っている身としては否定してあげたい気分も湧いてくるが、同じように否定したのも自分だ。
遅すぎる。
「よくもまあ、素人が偉そうに」
「手続き、いいだろうか」
「あら、ヴィラール先生。やっぱり来ましたね」
「あぁ、君の言う通り」
カウンターの向こうに立っていたのは用兵科の主任教師。
プリンツ・ヴィラール。
おさまりの悪いくせ毛に、何を考えているかわからない無表情。
この図書室の常連だ。
この教師は三日ごとに返却と新しい本を借りにやってくる。
「先生は本当に本がお好きですね」
借りるのは出版物が古いものから順に。ジャンルはバラバラで、物語の時もあれば、一年の出来事をまとめた簡易な歴史書もある。
「開くとつい、な」
生徒よりもずっと多忙なはずなのに。やはり、こんな学校で教鞭を取るのだから、それなりに優秀だということか。なにせ、二国の未来の創設を、莫大な資金で積み立てているのだ。人選にも力が入るもの。きっと、それこそ入学試験よりも厳しく困難な試験を超えているはずだ。
──まあ私は推薦なんですけどね。
コード万歳。天からの恵み。一つの努力──教義でいうところの徳──も積んでいないが、これは不公平じゃないのか。
「お仕事はやはり大変なのですか?」
「それほどでもない」
それほどでもないと来た。やはり優秀。
用兵科とは作戦立案に関するすべてを学ぶ学科だ。噂では、専門性には劣るものの、この学校の全学科の知識を詰め込むらしい。
ともなれば、教える側も準備の量はそれなりに、だ。
自分もコードの特性上、こと教えるについては心得がある。苦労もわかる。
「やはり、すご──」
い、と言いかけたところで図書室の扉が開いた。
「ここにいたんですか! ヴィラール先生!」
呼ぶ、というよりも驚きと喜びの興奮が混じった叫び。
静粛な空気で満たされていた図書室の空気が引き裂かれる。
「ここで油を売っているなんてっ。今の状況がわかっているんですかっ」
扉も勢いのまま閉め、近づいてくるのは薄い桃色の髪を高く結った女教師だ。
「イサ──アウストリア先生」
「アウストリア先生、じゃありません! だいたいこの前もっ」
「アウストリア先生、ここは図書室だ」
ヴィラールの呟きに、アウストリアは冷静な意識をハッと取り戻す。
彼女は周囲を見渡し、唖然とする一派となぜかニヤついた笑みを寄越す周囲に頭を
下げ、小声で、
「こんなところで何をしてるんですか」
「なにって。ここは本を借りるところだろ?」
「知っていますよ、図書室ですからね。私が言いたいのは本を借りて、読んでいる暇など無いということです」
「そんなこと言って、前もどうにかなったじゃないか。」
どこか拗ねた口調だが、ヴィラールは相変わらず無表情だ。
「それは、何日も徹夜したからでしょう」
「ああ、お互い眠れなくて酷い顔だったな」
「誰のせいだと思っているのですかっ」
どうやら、プリンツ・ヴィラール用兵学科主任教師は、ティロルの思うより優秀ではなかったようだ。
アウストリアの言を聞くかぎり、仕事が溜まっていて本を読む暇など無いに等しいらしい。
このあと、二言、三言やり取りを交わし、観念したのかヴィラールは図書室を出ていった。ちゃっかり、貸出許可の下りた本を持って。
「はぁ……。ティロルさんにもご迷惑を……」
「いえ、私は──って、どうして私の名前を?」
面識はないはずだ。学科も違う。彼女に覚えられるようなことは良くも悪くもしたことがないはず。
「記憶力はいい方なので」
と、見せてくるのは手の甲に浮かぶ痣。
コードだ。
それは、見る者に〝本〟の印象を与える。
「なるほど……」ティロルも、己の手の甲を撫でる。同じ形をした痣が浮かんでいる。
推薦組と同じく、教師もコードを持っているのか。いや、よく考えれば当然かもしれない。コードの扱い方も教える学校で、その教師が知識以上の情報は絶対に必要になる。
私も失礼します、とその場を離れようとして、彼女はそれを見つけた。
「珍しい芋虫を飼っていますね」
「あぁ、」
アウストリアが見つけたのは、カウンターの横に置かれた虫かご。その中にティロルが飼っている芋虫がいる。
「この子ですか。拾ったのです。門からの並木道で踏まれそうだったので」
それより、アウストリアはこの芋虫を珍しいといった。羽化すると蛾になると知れば、少々モチベーションに響くので調べていなかったが、そう言われると興味も湧く。
籠の中を覗くと、件の芋虫は枝によじ登って葉を小さな顎をもごもご動かして食している。
「そんなに珍しいんですか?」
頭が真っ白で気色が悪い以外、身体は緑のよく見る芋虫。我ながらよく拾ったものだ。
「その芋虫は雪中蝶の幼虫よ。冬の間に成虫になって、子孫を遺して死んでしまう」
「え、けど今は」
「もう春の終わりね。なのにまだ幼虫で、しかも元気だなんてちょっと珍しすぎるわね」
「へぇ、この子が……」
人通りの多い道を、のそりのそりと踏まれそうになりながら這う鈍くさい印象を受けていたが──、
「やっぱり鈍くさいのね、あなた」
まだ大人になれていないということは、卵から出てくるのもきっと遅かったはずだ。他の仲間、兄弟はとっくに生まれて、相手を見つけて種の役目を果たしているはずなのに。この子はまだ、呑気に人から与えられた葉を食べている。
「育てているのですか?」
「そうですね。せめて、蝶になるまでは面倒を見てあげようかと考えています。飼育で気を付けるべきことはありますか?」
「ティロルさんは、他の昆虫を飼ったことはありますか?」
「いえ……」
眺めることはあっても、虫かごまで用意しての飼育は初めて。
「なら、調べてみるべきでしょう。ここは図書室ですし、そうですね──生物学の第三区画。その右端の本棚に、蝶の飼育法について書かれた本があったはずです」
「……どうして、それを?」
用兵科の教師が、いや、まったく戦争と関係のない本の場所をどうしてこの教師は知っているのか。以前、なにかの引き合いに読んだことがあるのか。
「昔、ヴィラール先生の部屋で埃をかぶっていたその本を直しに来たことがあってね」
「はぁ……」
ティロルが図書委員に就任してから、ヴィラールが本を滞納した覚えはない。ともすれば、それ以前か。彼の本好きは今に始まったことではないのは確かだ。
「それでは、私も仕事がありますので」
そう言って、アウストリアは図書室を出ていった。
扉が閉まると、生徒の囁き声があちこちで始まる。
やっぱり、仲いいんだねあの二人。アウストリア先生のことをファーストネームで呼びかけていたし。やっぱり噂は本当なのかな? え、でもあのヴィラール先生だよ?
噂? と、ティロルは耳を傾けるが、利用者たちの声は窓を叩く雨音に掠れ、やがて萎んでいき、あるべき図書室に戻っていく。
窓の外を眺める。
雫と雨で模様付けされた窓の向こう側、そこに彼の姿はあった。
期待を、していたわけではない。ただ、
「こんな天気でも……」
決して、弱い雨などではない。
雨粒ははっきりと目で捉えられるし、肌寒くすらある。わざわざ外に出ることなどしなくていい天気だ。雨具も着ないで、ただ濡れるに任せて、剣を振って。
「バカなの?」
吐く息だけじゃない、彼の肩から湯気が昇っている。あれは、体温が籠るのではなく発散している証拠だ。
良くない。
このままでは、鍛錬どころではない。
ティロルの予感は的中し、彼の全身から力が抜ける瞬間を目撃する。
まずは手から。木剣を落とし。
次に膝が落ちて、地に着いたと思えば上半身から倒れていく。
「バカ」
ティロルも、教師二人と同じ扉から図書室を出て、廊下を周り、中庭に出る。
あそこは、普段から人の寄り付かない場所だ。気づけたのは自分だけ。このまま放っておけば、彼は雨が止むまで背中で雨を受けることになる。
小走りで駆けていく彼女。
図書室のカウンターは無人となる。
図書委員不在を知らせるカードは掲げられず、何人かの利用者が困惑する事態になるのだが、ティロルがその事実を知るのはもう少し後のことだ。
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