月浜定点観測所記録集 第三巻

此瀬 朔真

「楽園と永遠」

四千九百九号書架 ふ 六万六千九十九区

百三十八番

五百三巻 一頁 五百四十章

百六十三節


「楽園と永遠」


 風向きが変わる。夜明けが近い。

 伸ばしたきりの髪が視界を遮り、まとめて手近な紐でくくる。作業はすっかり終わった。材料は計算通りに使い切った。今頭の後ろでなびく紐はその数少ない残りだ。波打ち際に積み上げた荷物を次々載せていく。大した量にはならない。最低限をひとりぶん、バランスを考慮しながら配置する。

 絶望的な旅ではあると思う。

 武器と言えば刃毀れしたナイフと銃と残り少ない弾丸、そしてこの小さな船だ。辛うじてかき集めた資材をかき集め、組み立てた船がこれからの足になる。動力などない。文字通り、風まかせの道のりだ。

 それでも、絶望を感じてはいなかった。


 もう何度目かの、そしてひとつとして同じもののない夜明けが来る。

 胸に下げた鍵が、かすかに朝陽を照り返す。

 戦争がなぜ起きるのか。

 その問いは、子供が繰り返し親に投げかけるものと同じだ。まったく他愛なく、そして答えようもない。

 せめて人間がもう少し賢ければ、あるいはもっと愚かであればその答えを導き出せたのかもしれない。しかし今となっては、身をもって過ちを清算する以外に選択肢はなかった。

 大陸に湖が穿たれ、都市に瓦礫が積み上がり、海は艦と飛行機と血と肉と骨を飽きるほどに飲み込んだ。灰を含んだ雲があらゆる空を閉ざし、太陽と月と星は再会の約束のないまま地上から姿を隠した。

 死を覚悟した者も、死を拒み逃避した者も、死など夢にも思わなかった者も、皆等しく死んだ。撃たれて死んだ。焼かれて死んだ。飢えて死んだ。内臓を侵す毒に喉を掻きむしりながら死んだ。粉々に砕けて何も残さず死んだ。暦を破って捨てるように、毎日毎日無数に死んだ。

 無惨という言葉は不釣り合いで、無様と呼ぶほうが相応しいこの大量の死を、おそらくは絶滅と呼ぶのだろう。

 太古から予言されていたように、人間は自らの手で滅ぶに至った。

 では、未だ街の残骸を歩く俺は人間ではないのだろうか、と男は考える。

 幼子らしき骨を踏み砕いても何も思わない俺は。

 腰に下げたボトルを掴み取り、残り少ない水を舐める。これが尽きるとき俺はどこにいるのだろう。ひしゃげた戦車も両断されたヘリも、崩れたビルも焦げた街も見飽きた。死体はもっと見飽きた。せめて最後は、もっとマシなものを見て死にたい。できれば美しいものを見たい。それを網膜に焼き付ける最後の景色にしたい。

 その願いとは裏腹に、男の朦朧とした頭はもはや目に映るものをまともに認識していなかった。

 だから、最初は幻覚だと思ったのだ。

 光の膨らんでいく水平線。

 それを背に立つ影。

 逆光のなかでもはっきりと浮かび上がる、輝くふたつの瞳。

 瞬きをしても、その光景は揺らぎもしなかった。

 少女は躊躇うことなく男に近づいていった。その表情のあまりの険しさに男はわずかに怯んだが、すぐにそれが杞憂だったと気づく。

「少し眠ったほうがいい。ついてきて。食料も水もあるから」

 唐突に言って踵を返す。手製らしい杖で地面を叩きながら歩いていく後ろ姿を、束の間逡巡してから男は追った。睡眠と食料と水。願ってもない申し出だった。もし何らかの罠であっても対処はできる。相手を無力化して、物資を奪取する。何度もやってきたことだ。歩く足をわざと引きずって音を立てながら、ナイフの鞘を緩めマガジンを取り換える。相手がなるべく抵抗しないことを願った。武器の消耗は命に係わる。

 岬へ向かう坂は岩だらけだったが、少女は荒れた道を苦もなく登っていく。

 どこかへ誘い込まれている可能性は捨て切れない。しかし上着を風になびかせ、無防備に背を向けたまま先を進むその堂々とした後ろ姿があまりに不可解だった。この世界で見ず知らずの相手に隙を見せるなど、ありえないことだった。

 男の逡巡など気にも留めない風で錆びついた灯台の麓に立ち、少女はようやく振り向く。

「ようこそ。私たちの街に」

 丁寧に岩を取り除き、耕した土には薄紅の花が咲く。その裏手からは舗装こそされていないが踏み固めた道があちこちに伸びて、素朴で小さな家たちを相互に繋いでいた。手製らしい不格好な案山子の伸ばした両手に手袋がはめている。

 血や火薬の匂いのまったくしない、静かな開拓地がそこにあった。

「こ」

 久々の発声に喉がひどく掠れる。上がり症の子供のような有り様に男はきまり悪い思いをしたが、少女は笑うこともなくじっとこちらを見ていた。

「ここに、住んでるのか」

「そうだよ。生き残った人たちと一緒にね」

 少女は男を促し、「街」のなかを横切っていく。まだ早朝で人の姿はないが、気配は感じる。しかしそれは敵を警戒する際のとげとげしい、慣れ親しんだものではなかった。

 まだこの世界が穏やかだった頃。次第に浅くなる眠りにたゆたう者、あるいは朝餉の支度に精を出す者たちが醸し出す、一日が始まっていく空気。

 その懐かしく浮き足立つ心地が、かえって男をいたたまれなくさせた。

 赤茶けた屋根の家を通りがかるとき、出し抜けに扉が開いた。小さな影が飛び出してくる。男はほとんど無意識に腰に下げた武器に手を伸ばしたが、こちらへ向けられたあどけない表情にすんでのところで踏み止まった。

 古びてもなお鮮やかな向日葵色のワンピースをまとった娘が、黒曜石のようにつやつやとした丸い目でこちらを見つめている。あまりにまっすぐで邪気のない視線に男はたじろいだ。それを見て取ったのか娘は顔じゅうで大きく笑う。

「おはようニコ。今朝は早いね」

 ニコと呼ばれた娘は、声の主に向き直って頷いた。両手を突き出し、指と手のひらを組み合わせてひらめかせる。いくつかの形を次々に繰り出す。

「わかった。あとで見に行くよ」

 怒涛のように繰り出された手話を読み取ったのか、少女がそう答える。ニコは再び頷き、男にもう一度笑いかけてから再び身を翻して家のなかへ駆け込んだ。ぴたりと閉まった扉を呆気に取られて眺める男に少女はこともなげに言う。

「人なつっこい子でね。誰に対してもああなんだ。普段はもう少し遅くまで寝ているんだけど」

 戦争が始まり、泥沼に陥って以降は自分以外の他人はみな敵であるというのが常識だった。侵入者に警戒して様子を見に来たのならまだわかるが、あんな風に屈託なく笑うなど考えられない。

 いや、それすら本当は罠なのか。

「ここではもういいんだよ。そういうのは」

 男の戸惑いは伝わっていたらしい。静かにそう言って、少女は再び歩き始める。こつこつと地面を叩く杖の音が妙に心地よい。それに誘われて男はあとに続く。

 その背中を刺し貫き、または口を塞いでから頸動脈を掻き切る一連の動作を、男は何度も脳裏に浮かべた。消音器を取り付けた銃で誰にも気づかれず頭を撃ち抜くことも容易い。瞬きをするよりも早く、苦しむ暇すらなく少女を殺せる。

 同じようなことを何度もしてきた。今さら躊躇いも言い訳もない。

 なのに今、目の前をのんびりと歩く少女に指一本触れられずにいる理由を男は理解できずにいた。

「着いたよ」

 小路の行き止まりに、粗末な板で葺いた屋根の小さな家があった。ろくに鍵も掛けていない扉を開いて男を招き入れる。室内は寝台と机と椅子がひとつずつ、床は剥き出しのままだ。

 あまりに質素な部屋を見回す男に、少女は手を差し伸べた。

「荷物を預かるよ。そのままじゃ寝づらいでしょう」

「いや。いい」

 男は咄嗟にそう答えた。いくら居心地が良いからと言って、いやだからこそ、まだこの街と少女を信頼する気にはなれない。緊張の糸を緩めたくないと感じた。

「そう。じゃあまかせる」

 気を悪くした様子も見せず、そのまま戸口へ向かう。

「食事を持ってくるから、休んでいて」

 静かに扉を閉まった。しばらくそのまま耳を澄ませていたが、あの杖が地面を叩く音が次第に遠ざかっていく。男の様子を外から監視するつもりなど毛頭ないようだった。家具の少ない部屋には刺客や爆発物を隠しておけそうな場所もない。後ろめたさに耐えつつ少女の寝台に近づいて毛布をめくっても広がっているのは清潔なシーツだけだ。

 しばらく部屋をうろついていると、本棚に分厚い図鑑を見つけた。用心しつつ手に取る。ページに癖がついているのか勝手に開いた。南の島を囲むエメラルド色の浅く温暖な海と、そこに住む極彩色の魚たちが描かれている。

 かつてあらゆる船は、大砲や戦闘機ではなく、旅客や漁師を乗せてのんびりと海を進んだ。すれ違えば汽笛を鳴り交わし、港へ帰り着けばいつでも笑う人垣が迎えた。この図鑑を描いたのはそんな船に乗っていた誰かだろう。波間から持ち帰った細密画は、今となっては望むべくもない、楽園の写し絵だった。

 静かに本を閉じ、棚に戻す。

 ――本当に敵意がないのか、あいつは。

 わずかに軋む椅子に腰かけ、男は勘考する。

 見ず知らずの相手に迷いなく話しかけ、自身の居住地に案内し、そのうえ家にまで招き入れる。武器のひとつもちらつかせない。まるで客人に対する待遇だ。加えて、先ほどの言葉が気にかかる。

「ここではもういい、か」

 呟いた少女の横顔は、深い疲れに陰って見えた。見覚えのある陰りだった。

 何度も何度も同じことを繰り返してきた者特有の、暗さ。

 そんなことは散々やってきたから、ここではもういい。

 少女はそう言いたかったのかもしれない。

 思考に沈んでいた男を、こつこつとドアを叩く音が引き戻した。

「ごめん、両手が塞がっているんだ。開けてくれないかな」

 男は静かに立ち上がり、足音を忍ばせて戸口へ向かった。細く扉を開けながら腰の後ろへ伸ばしかけた手を、あたたかな香りが止める。

「大したものはなかったけど、体が温まるよ」

 少女が運んできた盆にはパンの塊が半分と、湯気を立てる鉢があった。グラスにはたっぷりと透き通った水が注いである。

「信じてもらえるかわからないけれど、変なものは入れていないよ。だから」

 少女はそれぞれを机に並べ、男へ向き直って言った。

「できれば食べてほしい。それから、少し眠ってもらえたら嬉しい。ひどい顔をしているから」

 男はすぐには答えず、ただ少女を見つめ返す。眼差しに嘘は感じなかった。

「なあ」

 再び杖を携えて出ていこうとする背中に、たまらず声をぶつけた。

「なに?」

「俺に殺されるとは思わないのか」

「本当にその気ならもうやっているでしょう」

 てらいのない言葉で少女は扉を開けた。昇ったばかりの太陽の光と新鮮な風がふんだんに部屋のなかへ注ぎ込まれる。

「怖がらなくていいよ。ここはそういうところだから」

 少女の姿がシルエットになって浮かび上がり、扉の向こうへ消えた。ゆっくりと足音が遠ざかっていく。

 静まり返った家のなかで、男はしばし立ち尽くす。

 ぎこちなく振り返れば、鉢のなかでスープが辛抱強く湯気を立てて待っている。鉢の端がほんの少し欠けている。目を移せば、添えられた匙に無数の細かい傷が見える。持ち主と共に穏やかな日々を送ってきたことを如実に表していた。

 独りで取る食事には慣れている。まずはよく観察し、外見と匂いを確かめる。そしてほんの少量だけを口に含み、少しでも異常を感じたらすぐさま吐き出す。食べ物を粗末にするな、などという箴言は既に意味をなさない。命を繋ぐための食事に殺されることなど、既に日常の一部だ。

 刻んだ野菜をミルクと煮込んだ、平凡なスープは舌にじんわりと沁み込んだ。舌を刺す苦味も威嚇するような異臭もまったくしない。自身を害するものを排除するために先鋭化された味覚は、その平和なスープの味を正確に感じ取ることはできなかった。ただ少女の言葉だけが脳裏に浮かぶ。

 怖がらなくていいよ。

 男は匙を掴み直し、猛然と食べ物を口に運び始めた。角の取れた根菜を頬張り、素朴に固く焼き上げたパンを噛み締める。すべて異なった歯応えを持ち、温度があり、それらが少しずつ麻痺していた感覚を呼び起こしていった。

 食べながら男は、知らないあいだに抱え込んでいた飢えの深さを思った。崩壊した世界にはとっくに順応したと考えていたがそれは間違いだった。ただ忘れていただけだ。なんの悪意も飾り気もない、疲れた放浪者のために供される食事が、こんなにもかけがえのないものだということを。

 冷たい水をひと息に飲み干して、深く息を吐く。腹のなかが重く、あたたかい。久々にありつけたまともな栄養を体が貪欲に吸収しているのを感じる。血が巡り、凝り固まった筋肉がほぐれ、疲れが剥がれ落ちていく。文字通り生き返る心地がした。

 深い安堵に、くらりと男の頭が揺れる。

 鼓動に合わせ指先まで熱が巡っていくにつれて、強烈な睡魔が訪れた。椅子に腰かけたまま眠ることも無理ではないが可能であれば横になりたい。たとえば、清潔なシーツの引かれた寝台で。

 遠慮がなかったわけではない。ただ、整えられた寝台はそれを打ち消すほどに魅力的に映った。

 おぼつかない手元で靴紐を解き、ほとんど投げ出すように体を横たえた。枕に顔を埋め、花と薬草のような甘く清涼な香りを深く吸い込むと、押し寄せた波に飲まれ速やかに意識が遠ざかっていく。深い深い、夢の入り込む隙すらない眠りだった。

 目を覚ました男はほんの一瞬、自分がどこにいるのか思い出せなかった。

 男にとって日々の休息とは浅く短いものだ。微かな物音でも覚醒し、すぐさま攻撃の態勢に移る。武器を取るため利き手の神経はいつも張り詰め、撓むことはなかった。

 しかし今、寝台に投げ出した手は卵を包むように、緩やかに指を曲げている。乾いてささくれ、ひどく荒れて、ただ疲れた人間の体としてそこにあった。戦う道具としての役割などすっかり忘れているようだった。

 そうだ、と錆びついた記憶を掘り起こす。この手は、銃を握りナイフを振るうためのものではなかった。花を植え、買い物籠を運び、ペンを走らせ、飼い犬のリードを掴み、そして子供の頭を撫でるために存在していた。

 男はゆっくりと手を握り、開く。冷えてはいたが、指先まで走る血管が確かに脈打つのを感じた。

 扉の外は夕暮れ時だった。道沿いに視線を走らせていくと、分かれ道を折れて少女が近づいてくるのが見えた。こちらに気づき、歩み寄ってくる。

「おはよう。よく眠れたみたいだね」

 ありがとう、の一言が喉に引っかかり、男はただ頷くだけで応える。

「起きたばかりのところで悪いんだけれど、みんなに会ってもらってもいいかな。あなたがいるのを反対する人はいないと思うけど、やっぱり顔を見たほうが安心すると思うんだよ」

「構わないが、一軒ずつ家を回るのか?」

「ううん、違うよ」

 くすっと少女は笑う。

「この街には日課があってね。毎日夕方に集まってその日あったことをお互いに話すんだ。火を焚いて、それを囲んで」

「焚火か」

「いつだったかな、誰かがキャンプファイヤーをしようって言い出して……それ以来続いてる。なんだかみんな、火を見ていると話しやすいみたいで」

 少女は男を促し、街の奥のほうへ歩いていく。住人たちが敵意を示す可能性は充分に考えられたが、黙っていた。いざとなったらやはり殺して逃げるほかない。これまで通り。

 しかし、男の予測はあっさりと裏切られる。

「みんな、お待たせ」

 開けた空地には既に火が熾っている。それを囲んで車座になった住人たちは、少女の声に振り向いて笑いかけてきた。嬉しそうに、懐かしそうに。

「もうみんな知っていると思うけど、彼が旅人さん。朝の浜にいたのを案内してきた」

 率直に向けられる眼差しに敵意も警戒心も感じられない。かえって落ち着かず、ぎこちなく頭を下げると今度は次々と声がかけられる。

「ここまで来たとはついてるなあんた、大したもんだよ」

「ゆっくり休めた? 体調が悪そうって聞いたけど」

「人が来るのは久しぶりだねえ。さあ座って座って」

「そう騒ぐんじゃないお前たち。どれ、茶でも淹れてやろうかね」

 たちまち男は輪に引き込まれた。綺麗に均された地面に腰かけるとどこにいたのか、待っていたとばかりに駆け寄ってきたニコがぴょんと膝に飛び乗り、男を見上げて屈託なく歯を見せた。

 住人たちは男の話をなんでも聞きたがった。些末な事柄にも熱心に耳を傾け、大きく頷き、悲痛に顔を歪めた。誰にも顧みられるはずのなかった旅路を彼らは当然のように労った。

「みんな、苦しみながらここへ辿り着いたんだ。あなたもそうだろう。だったらせめて、互いに慰め合おうよ」

 男とそう年の変わらないように見える、ロウジと呼ばれる青年はそう言った。

「辛い思いをしなかった人なんていない。それを知っているから、わたしたちはやさしくなれるのだと思うの」

 オリエという女性は微笑みを絶やさずそう語った。

「お前さん、この先行く当てはないんだろう。ならしばらくここにいれば良い。ただし」

 白髪の老人ニンバは眼鏡の奥から強い視線を投げかけた。

「仕事はきちんとしてもらう。それがこの街の規則だ」

 仕事。彼らの説明によれば、次のようなものだった。

 この街の住人たちはそれぞれ仕事を担っている。崖の裏手にある井戸から水を汲む。畑を耕す。料理を作る。服を繕う。屋根に空いた穴へ板を当てる。生活のために必要な作業を分担し、そうして街を運営している。罰則はないが、よほど大きな怪我や病気でもしない限り誰かに仕事を肩代わりさせることはできない。

 起き、食べ、働き、眠る。この街での暮らしはその四つでできていた。

「だけどあなた、今すぐ丸太を運んでくるってわけにはいかないでしょう。もう少し休んだほうがいいと思うわ」

「だが、今のうちに何をしてもらうか決めておく必要はある」

 再び飛び交うかと見えた声たちを、とん、と地面を打つ音が押し留めた。

「仕事はもう決まってるよ。この街の副管理人。つまり、彼には私の助手をしてもらう」

 朗々と宣言した少女に、異を唱える者はいない。安堵と納得の声がそこかしこから上がる。

「そうね、その手があったよ」

「きみひとりじゃ大変だったからなあ。彼がいてくれればぼくらも安心だ」

「うむ、適任だな。文句はない」

 頭上で勝手に話が進められ、呆気に取られていた男は鼻先に差し出された手で我に返る。

「そういうわけで、あなたは今日から私と一緒に働いてもらう。いいかな?」

 遠目からでは白く、ほっそりとした指のようだったが、よく見ればひび割れて、ささくれが目立つ。厚くなった皮膚は硬く頑丈だ。

 何かを守るために強くなっていった結果。その証かもしれないと、男は思った。

 男は立ち上がり、少女の手を取る。あたたかな手を握り返す。

「わかった。よろしく頼む」

 湧き上がった拍手と、よく乾いた枝が火のなかで爆ぜる音がない交ぜになり、いつの間にか辺りをすっぽりと夜が覆っていた。

 街の副管理人、少女の助手を引き受けたものの、具体的に何をするかは不明だ。めいめいの家へ戻っていく住人たちが激励の言葉を残して帰っていくなか、男は所在無さげに突っ立っている。

「夜のあいだにやることはもっぱら見回り。みんなが家に帰ったのを確認して、街のなかを点検する。難しくないでしょう?」

 そう言いながら男の脇を通り過ぎ、少女は焚火のなかからまだ燃えている枝を一本取り上げた。残りには丁寧に水をかけて始末する。

「どんなに世界が変わっても、火の始末だけはしっかりしないとね」

 濡れた灰が完全に冷めたのを確かめて、土をかぶせてから二人は広場を出た。先ほどの枝を松明代わりにして街じゅうを巡り、家を一軒ずつ訪ねていく。住民たちは誰もが待ちかねているように扉を開いた。そして、先ほどの焚火の会では口にできなかった悩みをそっと打ち明ける。少女はそれらをすぐに解決しようとはしない。まずは丁寧に耳を傾けて、それからひとつふたつ助言をする。

 それで何かが解決するわけではない。しかし、心にわだかまったことを話すという行為によって、住人たちは少なからず心の平穏を得ているように見えた。

 住人たちが安らかに眠りについたあと、二人は足音をひそめて居住区をあとにする。

「次は畑と炊事場と、それから倉庫の点検。疲れたかもしれないけど、もう少し付き合ってね」

 先ほどから男は、松明がまもなく燃え尽きそうであることが気がかりだった。いよいよ炎が指を焦がさんとする頃、堪え切れず少女を呼び止める。

「待っていてくれ」

 踵を返し、家々のあいだを縫って一目散に走る。目的は先ほどまで休んでいた少女の家だ。扉を開くのももどかしく飛び込んで、投げ出したままの荷物へ手を差し入れた。捨ててはいないはずだ。冷たい感触を捉えて、そのまま掴み出す。

 こぼれ出す淡い光を最後に目にしたのはもう思い出せない。まずは無事灯ったことに胸を撫で下ろし、破損がないか手早く確かめる。再び外へ出て少女の待つ分かれ道へ急いだ。

 息を切らし走りながら、男は苦く笑う。人のために持ち物を提供しようとするくせに、服の裾に隠した武器を未だに捨てようとはしない自分がひどく矛盾していることはわかっている。

 けれど、と男は自身に反論する。

 それを責める相手はここにいないし、それに急がなければ、彼女が火傷する。

「待たせた。すまない」

 男が到着したとき、少女はわずかに燃え残った枝を地面に落とし、弱った火をかばうように手をかざしていた。

「もう、急にいなくなるから火が」

 抗議の言葉を遮って、持ってきたものを押し付けた。

「これは……ランプ?」

 くすんだ真鍮の枠が卵型の火屋を取り囲む、古めかしい照明装置は一見ただの骨董品のようだったが、よく見るとその内部には火を灯すための芯も蝋燭もない。ただ、火屋に収められた小さな三日月がぼんやりと輝いている。

「すごい……すごいね、綺麗だ」

 感嘆の声を上げる横顔を男はそっと盗み見た。やや痩せた頬は笑みをまとい、黒い瞳は水面のように灯りを照り返す。痩せて乾き切り、ひび割れた地面に雨が降り注ぐように、胸のなかで何かがやさしく溶け出していくのを感じた。

「松明は不便だろう。それを使うといい」

 そう告げると少女は困ったように男の顔を振り仰ぐ。

「でも、これはあなたの持ってきたものでしょう」

「俺はもう使わない。それに、どうせ二人で見回りするんだったら……きみ、が持っていたって変わりはしない」

 少女をどう呼んだものか、ほんの一瞬だけ迷った。しかし本人は戸惑う素振りすら見せず、大きく頷いてみせる。

「わかった。大切にするね」

 ありがとう。

 男が先ほど伝え損ねたその言葉を、少女は大切に口にする。当たり前のように感謝を伝え、伝えられていた日々は尊く、そして今は遠い。

 穏やかに重ねていた日常を思い起こさせる言葉は、耳を強く打つ。

「……ああ」

 携えた杖にランプをくくりつけ満足げに掲げる少女を眺めながら、男は荷物の整理をしようと考えた。使えそうなものはすべて取り出して、空になった鞄には、持っていた武器を押し込んでおく。そうして、もう開かないようにしっかり蓋をする。そうしようと、考えた。

 畑のまるまると実った野菜たちが収穫を待ちつつ夜気を浴びている。曇りなく洗った鍋は炊事場の隅に伏せられ静かに水滴を落としている。倉庫の扉を押すと軋む音すら立てずに開き、なかには食料や農機具が整然と並ぶ。

「異常なし。今日も街は平和に回っていた」

 争いを求めず、平穏に暮らすことを選んだ住人たちによってこの小さな楽園は運営されている。照明を欠いても不自由なく歩けるほど念入りに整備された道は、かえって彼らの覚悟を感じさせた。

 ここを終の棲家と定め、最後まで人間として誇り高く生き、そして死んでいく覚悟だ。

「ひとつ、訊きたいんだが」

「うん」

「この街はどういう経緯でできたんだ?」

 やや悩んだような沈黙を置いて、少女は口を開く。

「あの戦争が終わる少し前かな。生き残った人たちが、自然にやってきたんだ。みんなどうしてここへ来たのかはわからなかった。ひと目見ただけじゃ、ただの荒れ地だったから。でも、生活するには充分だってすぐにわかった。土は肥えているし、少し掘れば真水も出る。近くに林があって木材も手に入る。まるでこの場所が人を呼んだみたいに」

 足元を叩く杖に合わせ、ランプのなかの三日月が小さく音を立てる。

「最初にここに集まった人が、街の基盤を作った。次に集まった人たちはそれをもっと大きくした。今ここにいる人たちは、それを守りながら暮らしてる」

 それはつまり、彼らがある段階でこれ以上の街の拡大は必要ないと判断したということだ。新たな住人を迎えるのではなく、既存の住人が快適に暮らす方針に切り替え、成長よりも運用に重きを置くようになった。

「ええと、誤解しないでほしいんだけど、新しい人が来るのを迷惑に思っているわけじゃないんだよ。食料はまだまだ余裕があるんだ。何よりさっきのみんなの反応は嘘じゃない。久しぶりのことだから、本当にうれしいんだ」

 慌てて言い添える様子は、素直な少女そのものだった。

「……そうか」

「だから、それについては心配しないで。あと話しておくことはなんだっけ……そうそう、この高台は竜の岬って呼ばれてる。地形が竜の口に似ているのが理由らしいんだけど、誰も空から見たことはないから、実際はどうかわからない。それからさっきあなたがいた浜が……」

「朝の浜、か」

「そう。東に面していて、どの季節でも朝日が綺麗に見える場所なんだ。早起きできたら行ってみるといいよ。さて」

 話しているあいだに、少女の家に辿り着いていた。

「今日の仕事はここまで。おつかれさま」

 少女は本棚の足元へかがみ込み、大きな包みを引き出した。紐を解くと寝具がひと揃い入っている。どれも新しくはないが、清潔だった。それを手際良く床に広げてあっという間にひとりぶんの寝場所を用意した。

「すまない、助かる」

「違うよ。こっちは私。あなたはそっちね」

 当然のように寝台を示す少女に、男はひどく狼狽する。

「いや、それはさすがに……」

「来たばかりの人を床に寝かせたらみんなに怒られるよ。まずはしっかり食べて、休んでもらわないと」

 きっぱり言い切ると上着を椅子に投げ、さっさと床の毛布へ潜り込んでしまう。あまりに堂々とした振る舞いに男は言い募った。

「ちょっと待て……朝とは状況が違う。今は真夜中だ。しかもこの家は居住区の外れで、何かあってもすぐに住人が来られるわけじゃない。それに」

「さっきも言ったけど」

 夜の闇のなかでさえ、まっすぐに射る瞳は黒く深く輝いて見える。

「本当にその気なら、もうやっているでしょう。傷つけることも、奪うことも」

 返す言葉はなかった。

「みんな散々傷ついたり傷つけられたり、奪ったり奪われたりしてきた。でも、そんなことしたって結局何も残らなかった。だからもうしない。そう決めたんだ。人を信じることも、人に信じられることも、諦めたくない。ここは、そういう街なんだよ」

 くるりと背を向け、少女は黙り込んだ。すぐに穏やかな寝息が聞こえてきて、男は観念して寝台へ体を横たえる。

 ランプのなかの三日月が、少女の髪をやわらかく照らしているのを眺めているうち、男もいつの間にか目蓋を閉じていた。

 静かな衣擦れが浅い眠りを揺らし、自然と男は目を覚ました。

「おはよう。仕事の時間だよ、副管理人さん」

 陽射しを浴び、冷たいで顔を洗う。街の慌ただしい朝が男を待っていた。再び街をざっと見て回り、続々と起き出してくる住人と挨拶を交わす。炊事場の火を熾し、寝坊した者の家を訪ね、湯気を立てる朝餉を盛り付け、めいめいの食器を並べる。自身の周りにこんなに人間がいること、そして彼らが一切敵意を向けず、金属片を擦り合わせて火花を散らし、短時間で薪を燃え上がらせる慣れ親しんだ動作に口々に驚きと感謝の言葉を投げかけることが、たまらなく新鮮だった。

「お兄さんのおかげで食事がすぐ作れるよ。ありがとうねえ」

 鍋をかき混ぜ、汚れものを洗いながらそう言われると男はむずがゆさに俯いた。器にたっぷりと注がれたスープは格別に香り高かった。

 揃って食事を取ったあとは、仕事の時間だ。住人たちはそれぞれ持ち場へ移動して作業に取り掛かる。天気の良いうちに新しい畑を耕しておきたいと男たちが話しているのが聞こえた。

「ちょっといい? 今日は彼にも畑仕事を手伝ってもらおうと思って」

 少女が呼びかけると、大柄な農夫たちは笑って請け負った。

「おお、助かるよ! 人手は多いほど良いからなあ」

「あんた、よろしく頼むよ」

 大きく分厚い手のひらで遠慮なしに背中をどやされ、思わずつんのめりながら男は戸惑ったように少女を見る。

「管理人ってね、昼間は暇なんだよ。何かあったら呼びに行くから」

 手を振ってそう言い残し、さっさと立ち去ってしまった。仕方なく農夫たちと共に畑へ向かう。慣れない鍬はずっしりと手に重く、全身の筋肉がすぐに悲鳴を上げ出したが、不思議と男の心が曇ることはなかった。何度も汗を拭い、小石を取り除き、小さな葉を出した苗を植える。根元に土を寄せ、両手で押さえながら土のしっとりとした手触りと匂いを存分に楽しんだ。渇いた喉に流し込む水の、新鮮な甘さを堪能した。

「兄ちゃん、筋が良いなあ。ありがてえや」

 農夫たちの元締めらしいジガムという名の腕の太い男が言う。ひげ面に笑みを浮かべて、いかにも豪快な働き者といった風貌だ。

「急に済まない。頼みがあるんだが」

「んん? なんだい、改まって」

 わずかに躊躇って、男は口を開く。

「……管理人のことを教えてくれないか」

 そのとき、農夫たちのあいだに信頼と憐れみのない交ぜになった空気が漂った。彼らは一様に父親の顔をして仕事の手を止める。

「あの子はなあ……良い子だよ。仕事好きで、明るくてな。俺たちはみんなあの子が好きなんだ」

「俺たちのことをいつも気遣ってくれる。誰にでも平等でやさしい子だよ」

 農夫たちはしみじみと頷く。そのうちのひとり、ジガムの弟分であるエニマが、やや遠慮がちに声を上げた。

「あんた、あの子自身のことは聴いていないんだな。その様子だと」

「まだ、そんなには」

「そうか……」

 迷うような深いため息をついて、エニマはゆっくりと顔を上げた。

「あの子はここへ来たとき、ひどい怪我をしていたんだ。可哀想なくらいにぼろぼろで……正直、助からないとみんな思っていた」

 少女がいつも携えている杖が脳裏に浮かぶ。注意深く見なければ気がつかない程度に右足を引きずりながら歩く理由が、ようやくわかった。

「少年兵というやつでな。今でも多くは話してくれないが、ずいぶん人を殺してしまったらしい……それでも俺たちは助けた。誰であっても、助けを求める者を無視しない。それがこの街のルールだからな」

「大した治療はできなかった。気の毒だったが、ここは薬が充分にあるわけでもなかったからな。それでもあの子は回復して、俺たちの前で誓ったんだ。自分はこれから、この街のために生きて死ぬって」

「それで、管理人を」

 ジガムは頷く。

「武器を捨てて、この街に献身する。それがあの子の選んだ償いだったんだ」

 束の間、自身の過去に思いを馳せる。

 男も女も、子供も老人も、軍人も市民も区別なく殺した。生きるためと言い訳するにはあまりに多い数の命を奪った。土に汚れた手をいくら拭ったところで、染み付いた血が落ちることはない。

 俺と同じ苦しみを、あの子も背負っている。

 黙り込んだ男たちに明るい声が投げかけられる。

「おつかれさま! 休憩にしよう」

 手を振る少女の姿に一瞬だけ動揺の空気が流れたが、屈託のない笑顔のもとにすぐに緩み、霧散していった。

「おお、ありがてえ」

「嬢ちゃんも座っていけや」

 大きな薬缶にたっぷり入れた熱い茶をカップに注ぎ、素朴な硬く焼いた菓子を詰めた籠を回して一同は輪になって座った。

 農夫たちは男の働きぶりを絶賛した。

「奴さん、筋が良いぞ。経験がないとは思えん」

「そうそう。ひょろひょろだからちょっとばかし心配だったんだけどね、頼りになるよ」

 まったくこの街の住人は人を褒めるということに躊躇いがない。とっくに空になったカップをあおり、赤くなる顔を隠す。

「そっか。よかったよかった」

 我が事のように喜ぶ少女を、男はもう先ほどまでのようにまっすぐには見られなかった。同じ傷を持つ者同士の、同情にも似た親愛を感じずにはいられない。しかし、それを明かすことは侮辱でしかないことはとっくに理解していた。自ら定めた道を歩むなら、できるのはただそれに寄り添うことだけだ。

「ここに来てくれてよかったよ。本当に」

 少女はいつもの朗らかな顔で、新しい茶を注いでくれる。焙った茶葉が芳しく鼻をくすぐった。

 昼は畑で働き、夜は少女と共に街を見て回り、心地よい疲れにまかせて眠る。男はほどなくその穏やかな生活に馴染んでいった。その合間を縫って畑を整備し、炊事場の包丁を研ぐ。あるときは子供たちにせがまれて玩具をこしらえ、手近な材料を組み合わせて離れた井戸から街へ水を引いた。

 男はごく当たり前の知識と技術を駆使したまでだったが、そのひとつひとつに住民たちは大いに驚き喜んだ。ときには手を取ってまで謝意を述べる住人たちの笑顔に心の満たされる思いがした。

 これでやっと、自分もまともな人間として生きられるかもしれない。

 殺し、傷つけるのはもう終わりにしよう。誰かを助け誰かに助けられて生きる、平凡で幸福な生活をやっと取り戻せる。これからはあの子と、そしてみんなと、ここで静かに暮らしていこう。

 誓いは固かったが、誓いと願いとは違う。

 男が自分の本当の願いに出会うには、もう少し時間が必要になる。

 いつも通り、朝から昼食を挟んで夕方まで働き、農夫たちと一緒に泥だらけになって戻ってくると、街には緊迫した気配が漂っていた。

「なんだ? 騒がしいな」

 農夫のひとりが通りがかった住人に声をかける。

「どうした、何かあったのか?」

 前掛けを固く握った女、キイラは蒼褪めた顔で答える。

「ニンバさんが倒れたんだよ、今管理人さんが診てくれてる」

「どこにいるんだ?」

 男は食って掛かる勢いで尋ねる。キイラは面食らったように黙ったが、すぐに道の先を示した。駆け出した男に続いて農夫たちも先を急ぐ。

 ニンバの家は居住区の中心に程近い。開け放した扉から慌ただしく住人たちが出入りしている。人波をかき分け室内へ飛び込むと、ベッドには老人が横たわり、その傍らで少女がタオルを固く絞っていた。男が近づくのに気づいて向き直る。

「来てくれたんだね。ごめん、呼びに行く余裕もなくって」

 気丈に笑ってみせるが、その顔には憔悴の色が濃い。

「何があった?」

「ついさっき、夕飯の材料を運んでいる途中で急に倒れて」

「……まったく大袈裟なんだ、お前たちは」

 少女の言葉を遮るようにニンバが呻いた。

「この老いぼれなら、どこかしら悪いに決まっているだろうが。倒れたくらいでいちいち騒ぐんじゃない」

 憎まれ口を叩いてみせるも口調は弱々しい。偏屈だが、長い年月に鍛えられた気概と知恵を兼ね備えるニンバを住人たちは長老として仰ぐ。彼の存在は精神的支柱となっていた。その人物が臥せる姿は、少なからず動揺を呼ぶ。

「それよりお前たち、夕飯はどうした? こんなところで油を売る暇があるならとっとと飯を食え。じじいより自分の心配をせんか」

 一喝されて返す言葉もなく、狼狽える住人たちに少女が呼びかける。

「私がここに残る。助けが必要だったらすぐ呼ぶから、心配しないで」

 彼らの表情から不安は消えなかったが、次第に人垣は割れていった。ニンバと少女に労わりの言葉を残してひとりまたひとりと立ち去っていく。

 彼らを見送ってから、男も家を出ようとした。今夜は、自分が代わりに食事と夕方の集会を取り仕切らなければならない。少女に目をやると意図するところはすぐさま伝わったらしく、小さく頷いてみせる。

 そのまま、戸口をくぐろうとしたときだった。

「これ、お若いの」

 振り返ると、ニンバが少女に支えられながら上体を起こしていた。

「お前さん、この先もこの街に留まるつもりかね」

 皺に囲まれた薄青い目に底知れない迫力を感じ、まっすぐ老人に向き直る。

「はい」

「死ぬまでか」

 間髪入れず老人は畳みかけてくる。

 男は少女の視線を一瞬だけ受け止めてから、はっきりと答えた。

「はい」

 ほんのわずかのあいだ、静寂が室内を満たす。

「そうか」

 老人が伏せた顔を再び上げたとき、そこにはただ凪いだ水面のような瞳があるだけだった。

「この子を、よろしく頼む」

 それだけの言葉に含まれた意味を、男はごく自然に理解した。心を決めるにはそれだけで事足りた。

 男は老人に深く頭を下げ、そのまま振り返らず家を出る。

 日が沈み、街が夜の闇に包まれてしばらく経った頃、少女は静かに家へ戻ってきた。

 寝台に座って待っていた男の隣へ、黙って腰を下ろす。腕に何かを抱きしめるようにしていた。

「ニンバさん」

 強張った肩が震える。

「もうだめかもしれない」

 内心では、男もそう思っていた。

 住人たちを叱咤する声こそしっかりしていたものの、老人の顔にかかった影は拭いようもないほど暗い。そのことを一番理解しているのも、また彼自身だろう。

「そうか」

 命が消えていく瞬間には何度も立ち会ってきた。やり過ごしてきたその時間が今になって復讐してきたせいで、男はかける言葉を根こそぎ奪われている。肩を抱こうとする腕さえ鉛のように重く動かない。

「これ」

 胸に押し付けたままの腕をそっと開く。指に巻き付けていた紐がほどけ、鈍く光るものが宙に跳ねた。

「……鍵?」

 真鍮らしき金属で作られた大振りの鍵だった。くすんだ緑の革紐を結わえて、少女の手からぶら下がって揺れている。摩耗によってすっかり角の取れたそれはもはや錠前のピンを押すには役立たないように見える。

「自分の代わりに、この鍵で鎖を解きに行けって。そう言ってた」

 少女はもうひとつ、抱えていたものを男に示す。何度もめくられひどく古びた本の表紙に目を凝らすと、書かれていたのは古い童話の題名だった。

 銀河のほとりを走る鉄道。そこに乗り込んだ少年は、出会いと別れの連なった旅の終わりに使命を与えられる。

「『おまえはあのプレシオスのくさりをとかなければならない』」

 くすんだページからその一文を、囁くような声で読み上げて、少女は男を見た。

 懸命に耐える黒い瞳へ三日月のランプが柔らかな光を混ぜる。ぼんやりとした輝きが揺れる模様が、男にはいつか見た天の川のように見えた。

「約束したんだ、必ず、代わりに……」

 ゆっくりと滅びに近づく世界のなかで、どんなに儚い約束だと知っていても。

 鉛の腕が翼に変化する。俯いた少女へ向かい、開き、包み込む。

 胸に縋る手の力強さを、嗚咽する体の震えを、零れ落ちる涙の熱さを、全身で感じ取った。命が叫ぶ重さを体じゅうで抱きしめた。

 生きる苦しみを思い出していた。

 誰かが自分を置いて去っていく痛みを思い出していた。

 生きるとは、苦しみと痛みに溺れそうになりながら、それでも前に進んでいく姿なのだと、思い出していた。

 きっときみなら約束を守れると、気休めを言うことなどできはしない。そんな風に彼女の進む道を穢したくはなかった。

 ただ、荒れ狂う悲しみに身を預けて泣く少女を、強く強く抱きしめる。

 魂を覆っていた分厚い被膜の、最後の一枚がぼろぼろと剥がれていくのを感じながら、男は割れるように打つ鼓動に耳を澄ませていた。

 朝の浜の片隅に埋めてほしい。ニンバはそう言い残した。

 そこには、先立った彼の妻が眠っている。

 荼毘の炎が鎮まる頃、白い木箱に収まった老人の骨は住人たちによって砂浜に運ばれた。

「果てにまします、我らがあるじ」

 頭を垂れる人々の先頭で少女は静かに別れの言葉を唱える。

「これより、我らの友が参ります。どうぞ彼をあなたのもとへ迎えてください。彼に澄んだ水を与えてください。彼の寝台をあたたかに整えてください。どうぞ彼を、永きの安らぎに憩わせてください。いずれ巡る再会の日まで」

 揃えた声が、空へ吸い込まれていく。

「いつか再び笑い合おう。我らの友、賢者ニンバ。ここにしばしのお別れを」

 真っ赤な目元を何度も袖で拭いながら、農夫たちが木箱に砂をかける。老人の好んだ薄紫の花が墓標になった。

 いずれ何もかもが潮風に吹き散らされ、消えていく。

 彼らはそれで構わないという。人として最後の時間を過ごし、そして旅立って行くために、ここへ集い共に生きているのだから。

 どれだけ他人を蹴落とし傷つけて殺そうが、自分が生きていればそれでいい。今日を生き延びられた者だけが勝つ。そう考えていた。荒廃した世界を渡るには、そうしなければ自分を保てなかった。そのために大勢を殺してきた。

 そんな自分に、ここではもういいと、少女は繰り返し語りかけた。

 他人の血にまみれ、少女が獣のようにこの街へ辿り着いたとき住人たちは同じように語ったのだろう。

 もうそんなことはしなくていい。人として、ここで生きなさいと。

 疲れ果てた誰かがやってくるたびに、何度も。

 誰かを傷つけ、誰かに傷つけられた過去をなかったことにはできない。

 だから日々汗を流して働き、共に食事を取り、旅立って行く同胞のために涙を流す。

 失われた暮らしを少しでも取り戻し、最後まで穏やかに生き抜くことが彼らの償いだった。

 少女はニンバの墓前に跪いて、固く手を結んだ。住人たちと共にそれに続く。男も彼らと一緒に目を閉じ、老人のために祈った。

 本当に久しぶりに、誰かのために、心から祈りを捧げた。

 そして夜が来るように、滅びはこの小さな街を静かに浸していった。


 相手の都市を潰せば自分の国が消される、それが戦争の常識だった。

 今思えば、そういった反撃の恐怖こそが人間の最大の敵だったのかもしれない。ありもしない復讐に怯え、敵を必要以上に、執拗に殺すことが当たり前となった。前線で戦う者はもちろん、逃げ回る市民すらも手にかける。それを手間と考えた人間は、長い時間をかけて得た知恵と技術で効率良く大量の敵を葬る方法を編み出す。

 そこに住む人間を、彼らの住む国土ごと焼き尽くす。空を舞う爆撃機も、海を走る軍艦も、まとめて灰にする。小さなボタンひとつで世界地図は真っ黒に塗り潰された。支払う代償の大きさも知らずに。

 海から吹き上がる風が自然の壁となって、竜の岬は世界を蝕む「後遺症」から辛うじて免れていた。無論住人たちはそれが盤石の守りとは思っていなかったが、同時に手を打とうともしなかった。

 もちろん、もうそんなことはしないと決めたからだ。殺し合うことも、逃げることも。

 主を失ったニンバの家に、今日もまたひとり病人が運ばれてくる。

 既に床には苦しげに息をつく人々がひしめき、看病する者たちは水を飲ませ、背中をさすってやっている。

 男はひと際苦しそうな患者のもとへ歩み寄り、話しかけた。

「体勢を変えるぞ。少しは呼吸が楽になる。水は飲めるか?」

 いつも他愛ない冗談を言っては周囲を笑わせていたスオレを抱き起こす。共に畑を耕した仲間の、健康的な筋肉をまとった肩は骨の形がはっきりわかるほどに痩せている。駆け寄ってきた少女の手を借りて横向きに寝かせてやり、水差しを口元へ持っていく。

「ごめんなあ、あんた……」

 苦痛に顔を歪ませながらスオレは男に語りかける。

「俺、最初は……あんたを、疑っていたんだ……でも違った、あんたは、本当にいいやつだった。俺たち、みんな……そう、思ってるよ……」

「ああ。わかってる」

 骨ばった指が、思いがけない力で男の手を掴む。

「あんたが……この街に、来て、くれて……よかった……ありがとう」

 呼吸が次第に浅くなり、最後の息をゆっくりと吐くまで、男はスオレの傍らにいた。少女もその隣を離れなかった。

「……行こう」

 そしてどちらからともなく立ち上がり、ニンバの家を出た。空は高く、澄んで晴れている。

 向かい合った二人は、何も言わず互いの手を強く握る。ほんのひと呼吸ぶんの短い時間だった。土にまみれ、ひび割れてあたたかな、生きている手だった。

 それで充分だった。

 男は少女に背を向け、少女は男に背を向け、歩き出す。

 見送る者たちは振り向かず、自らの仕事に向かって歩き出す。

 数を減らした農夫たちは墓地の土と涙で顔を汚す。祈る声がそこから途絶えることはない。潮風は嘆きと恐れを吹き散らし、懐古の情と悲しみを静かに守る。

 季節が移ろっていくように、海辺の小さな街は終焉を受け入れていく。

 ここは長い余生のための場所だったのかもしれない、と男は思う。

 世界が滅ぶことは既に決まっていて、あとはそれをどう迎えるかの問題でしかない。この街はもう覚悟を決めた。あたかも不治の病を引き受けた人間が苦痛を抑えながら尊厳を守っていくように、人が人らしく終わっていくために。

 だから、呪詛の声は響かない。苦しさに荒く吐く息に、跪いて手を組む背中に、怒りも恨みも宿らない。

 慎ましく素朴に暮らす人々が何物にも代えがたく美しいのは、ただ覚悟があるからだ。目の前にいる小さな娘にさえ。

「……ニコ」

 かつて暮らしていた都市に爆弾が落ち、両親と兄と声を失ったと少女に聞いた。住人はそんな悲壮さではなく、向日葵のワンピースに負けない笑顔のためにこの娘を愛し、世話を焼いてきた。

 墓地は街の裏手にある。木々に囲まれた静かな場所だったが、こうしてニコが立つだけで陽だまりができたように明るくなる。

「どうした」

 両手を後ろに回し、もじもじと体を揺らしながら目を逸らすニコの背丈は男の腹ほどまでしかない。しゃがんで視線を合わせてやり、頭を撫でるとくすくすと笑い出した。

「手伝いに来てくれたのか?」

 冗談半分の質問だったが、ニコは神妙な顔つきになって首を振る。隠していた手をそっと差し伸べた。

 しわくちゃの紙切れを、宝物のように大切に、男へ手渡した。

 受け取るや否や、ニコはくるりと踵を返して駆け出していく。向日葵が午後の風に揺れている。もうすぐ、夕方になる。

「ニコ!」

 呼びかけると、娘はぴたりと立ち止まって振り向く。

「ありがとう」

 その言葉を、男は驚くほどに自然に、なんの抵抗もなく発することができた。かつて喉に引っかかったまま、伝えられなかった感謝の言葉を。

 ニコは頷き、手を振った。夏の太陽のようにまばゆく鮮やかな笑顔を残し駆け去っていく。終わっていく夏を惜しみ、伸びていく影を引きながら遠回りをして帰った日の、輝かしい景色を男は思い返す。

 この街へ来てから、男は幾度となく昔のことを思い出した。戻れない過去の、記憶は色褪せないままに残っている。

 そう、終わっても消えないものがある。

 寄り添う痩せた体に宿る、ぬくもりのように。

「いい天気だね」

 男にもたれかかって座り、眩しい水平線に目を細める。頬は削げ落ち蒼褪めていても、そこに微笑みが絶えることはない。

「こんな日は、南の海のことを考えるんだ」

 細い指が小さく震えながら表紙をめくる。古い図鑑のお気に入りのページには折り癖がついていてすぐに開く。南の島を囲む、エメラルド色の浅くあたたかな海には極彩色の魚たちが住んでいる。底が見えるほどに透明な波のしたを群れになって泳ぐ。

「ガラスでできた船があるんだって。乗っていると、まるで自分が海に浮かんでいるみたいだけど、水があまりに透明だから、どんなに薄い影も水の底まで届くんだよ。いつか乗ってみたいな」

 夢を見ているような瞳は凪ぎ、その奥に宿った光は揺らぎもしない。

「きみは立派に勤めた。それくらいの望みを言っても咎められないよ」

 少女は首を軋むように巡らせ、驚きに見開いた目を男に向ける。

「どうした」

「あなたに褒められたの、初めてかもしれない」

「……きみはいつも誰かに感謝されていたから、わざわざ俺が言う必要もないと思った」

 呆れて笑う少女の、細い体が揺れる。ゆっくりと打つ鼓動がはっきりとわかる。

「気持ちは言わないと伝わらないんだよ。言っている内容が同じだったとしても、それをあなたが言ってくれたってことが、何より大切なんだ」

 男はそっと自分の胸に触れる。ポケットに入れた手触りを確かめる。

『そばにいてあげて』

 たった一言、そう書かれた手紙を男は肌身離さず持っていた。

 死にゆく少女をただそばで見ていることを誰かが罪と呼んだかもしれない。

 しかし今なら、胸を張って違うと言える。

 自分はこのときのために生きてきたのだと。

「じゃあ、今度はきみの番だな」

「え?」

「きみの願いを聞かせてほしい」

 口を閉ざした少女に、さらに語りかける。

「彼らの願いは叶った。最後まで人として生き、そして死ぬこと。きみがそれを叶えたんだ。きみは、この街の管理人として立派に勤めた。今度はきみの願いを叶える番だ」

 噛み締める唇が真っ白に色を失っている。

「それに」

 不意に吹いた冷たい風に促され、少女の肩に手を回した。

「俺は、きみの願いを叶えたい」

 白い砂浜は陽射しを照り返す。辺り一面に漂う光に目を閉じた。

 掠れる呼吸を、目蓋の薄闇のなかで聴いた。

「あなたに」

 掠れる声を、波音のなかで聴いた。

「あなたに、また会いたい」

 南の海で。

 抱き寄せるだけでは返事にならない。そうわかっていても、腕に力を込めずにいられなかった。

「わかった」

 約束も別れも、あまりに重い。抱え切れないほど痛い。だから声を絞り出す。

「必ず会いに行く。必ず、きみを見つける」

 身じろぎした少女に腕を緩めると、あの瞳が男を見ていた。

 輝きに満ちたふたつの目。

 人間に残された最後の街を守り抜いた、気高き管理人。

 少女は、男をまっすぐに見ていた。

 楽園にいるように、幸せそうに、笑いながら。

「待ってるね」


 渚へ押し出した船を小さく波が叩く。戯れるように揺れるそれに乗り込んで、縄を解いた。鳥の羽ばたきに似て、真っ白な帆音高くが開く。

 やさしい街の物語は終わった。

 無数の墓標を抱く岬は静まり返っている。見送った彼らに、今度は見送られる番だ。大きく手を振れば急かすように風が吹き下ろした。

 わかっている。大丈夫だ、もう振り返らない。

 ニコもニンバも、この街に住んでいた誰もが俺に伝えたかったのだろう。

 自分たちが置いて行ってしまうあの子の、そばにいてほしい。

 過ごした日々に悔いなどない。ただ、残されるあの子だけが心残りなのだと。

 わかっている。わかっているよ。何も心配いらない。

 頼みならいくらでも引き受けてきただろう。大丈夫だ、今回だってやり遂げてみせる。

 それは、俺の願いでもあるのだから。

 胸元で揺れた鍵を強く掴む。

 さあ、行こう。プレシオスの鎖を解きに。

 約束を果たしに。

 待っているあの子のもとに。


 もう何度目かの、そしてひとつとして同じもののなかった朝が来る。

 焼けるほどに白く、いっぱいに張った帆が呼んでいる。

 水平線に光が膨らんでいく。

 生まれ変わっていく空気を、体じゅうに吸い込んだ。

 船出のときだ。


 今、この瞬間こそが。

 楽園の夜明け。

 永遠のはじまり。


---

 作中の文章は以下のテキストより引用しました。

 宮沢賢治(2000)『銀河鉄道の夜』(岩波少年文庫)岩波書店

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