お前らの顔を見てると死にたくなる
賽ノ目研助
第1話
「なぁ、この単語なんて読むの?こむぷり、、、?わかんねー。」
和樹は問題集を指差しながら呟いた。英語の長文読解に取り組んでいるらしい。文章の頭、まだ始まったばかりのところで手は止まり、俺に質問してきた。このペースで読んでいたら、読み終わるまでにいったい何分かかるのか。そんなことを頭の隅に追いやってから和樹の指先にある単語に俺は目を向けた。
「いや、complicatedな。“複雑な“って意味。」
「えぇ〜初知りだわ。ありがと!」
さらっとお礼の言葉を言いながら左耳のワイヤレスイヤホンをねじ込み直して、また問題に目を落とす。テンポの速い鼻歌とは裏腹に、文章を追いかけるシャーペンの流れは空を漂う雲のように遅い。聴き馴染みのない曲を奏でる和樹の鼻歌が、静かな図書館の学習スペースで微かにこだまする。
「つーか、その単語高1レベルだぞ。大丈夫かよ受験生。」
俺は笑いながら茶化した。
「しょーがないじゃん、俺今まで部活でサッカーしかやってこなかったんだもん。だからこうしてお前に教えてもらってんじゃん。」
「言っとくけど、俺も受験生なんだけど。」
俺は呆れて笑いながら、しかし日頃から勉強に付き合わされるストレスを少しだけ含めてそう言った。
「だから一緒に頑張ろってこと。な?」
いつもそうだ。こいつの調子の良さにつられて“一緒に勉強“に駆り出される。ほとんど質問されるだけで、この時間が俺の役に立ったことはあまりない。
季節は秋。受験に向けてここからもう1段階ギアを上げなければならない時期だ。窓の外ではだんだんと冬が近づくことを告げる10月の終わりの風が、地面に敷かれた葉っぱたちを容赦なく吹き飛ばす。
「それにしても、隼人のやつ遅いなー。もうすぐ来ると思うんだけど。」
図書館の入り口に目をやりながら和樹は言った。隼人とは、いつもつるんでいる3人組のもう1人だ。時計を見ると、午後3時の集合時間を15分ほど過ぎている。遅刻癖のあるやつだけど、今回ばかりは遅すぎる。何かあったのだろうか。そう思っていると、ピロンッという音とともに和樹のスマホの画面が明るく光る。ロック画面には肩を寄せ合う男女が映っていて、こちらに向かって笑いかけていた。
「あ、隼人だ。なんか遅れるらしいよ。あとで着くから心配ないって。」
「そっか。まぁ、事故とかじゃないならよかった。つーか携帯の音切っとけよ。一応図書館だぜ。」
「まぁまぁ。周りに誰もいないんだし。堅いこと言うなって。」
そう言ってスマホを置こうとした瞬間、今度は着信音が響いた。和樹はすぐに画面を覗いた。それから少しだけ目を見張り、どこか気まずそうにしながら立ち上がった。
「やっべ。ちょっとすぐ出ないと。わり、一旦外すわ。」
そう言うと、外にも出てないのに和樹は電話に出始めた。もしもし?え、今?んー、ちょっと暇じゃないかも。なんて言いながら背中は入り口の方へと小さくなっていく。それから先は何て言ってるのかわからない。少なくとも、俺の耳はその声を拾わなかった。
あいつは誰からの電話なのかは言わなかった。なんだか着信画面をこちらに向けるのも躊躇っていたようだった。まぁいいや。そう思いながら俺は窓の外に目を向けた。枯れ葉を散らす冷たい風は、いつもより強く渦巻いていた。
“まじめ過ぎて面白くない人だなって思っちゃったの。“
9月の半ば。肌を突き刺すような日差しがだんだんと丸みを帯びてきた頃、電話の向こうの単調な声はそう言った。こちらの返事を待つわけでもなく、ハルカはしゃべり続けていた。“今まですごく寂しかった“とか、“大事にされてるのかわからなくなった“とか。いったい誰に向かって言い訳をしていたのだろうと、今頃になって他人事のように思う。いや、電話で声を聞いている時も、自分じゃない誰かに向けた話を聞くような気がしていた。それは5ヶ月記念日にかかってきた電話が、こんなにも残酷なメッセージを告げるためのものだと、俺が信じたくなかったからかもしれない。
でも、予兆は夏休みを過ぎた頃からあった。一緒に帰ろうと誘っても気が乗っていなさそうな返事をしたり、花火デートも1週間前に急にドタキャンされたりした。本人曰く“急な用事“が入ったそうだが、今思えばあの時すでに他の男と関係を持ち始めていたのかもしれない。
夏休みが明けると彼女は俺の見えるところでクラスの男子と楽しそうに話し出した。俺は彼女が楽しければもうそれでいいと思った。少なくともそいつと話している間は、俺には見せないような顔で笑っていた。その顔を見て、俺は何かを諦めた気がした。
電話で聞いた彼女の言葉によれば、彼女は『もっとヤキモチを焼いて欲しかった』らしい。『壁を作らず、私に話しかけにきて欲しかった』とも言っていた。ヤキモチ?だったら俺にもあの顔で笑いながら話をしてくれたらよかったのに。壁?離れていったのはそっちだろ。俺を“まじめでつまらない人間“だと『線引き』をしたのはそっちじゃないか。
電話が切れる直前、最後に彼女は『あなたは悪くないの。全部あたしのせいなの、ごめんね。』と呟いた。
「お〜い、聞いてる?ペン止まってますよ〜」
驚いて顔を上げると隼人が俺に問いかけていた。その横には電話を終えて戻ってきた和樹も一緒だった。あの日のことを思い出して、周りの音が聞こえていなかった。急に見上げた間抜けな顔を見たからだろうか、和樹は声に出して笑っている。
「え?あぁ、ごめん。聞いてなかった。」
「ごめんはこっちのセリフな?遅れて悪かったって言ってたの。3回も言ったのに。とりあえず、これ。お詫びのしるし。」
そう言って隼人は、500mLのコーラを俺に向かって投げた。ペットボトルについていた水滴が、宙を舞う間にはじけとんだ。
「今飲むなよ。チャリ飛ばしてきて、めちゃ揺らしたから。」
確かに、よく見ると隼人は少しだけ肩で息をしている。
「飲まねぇよ。ここ飲食禁止だし」
「え、そのルールちゃんと守ってんの?マジメだねぇ。」
マジメ。ルールを守ることはそんなに変わったことじゃないはずだ。やってはいけないとされているなら、敢えてやる必要はない。それともルールは守らないことが普通なのか。だから今日もこんなに遅刻してきたのか、こいつは。頭によぎるそんな考えを、俺はコーラと一緒にトートバックへと詰め込んだ。
「つーか、20分の遅刻の埋め合わせがコーラ1本かよ。」
俺は冗談まじりにそう言った。
「しょーがないじゃん。時間通りに出発するつもりだったよ俺も。だけど家出る直前で声が聴きてぇってカナから電話かかってきたんだもん。彼女のお呼びとあらば、出ないわけにはいかないだろ?」
一瞬自分の頬が強張った気がした。“彼女“と“電話“という2つのワードがこんなにも簡単に俺の心を揺さぶる。
ちらりと和樹に目をやると、なんだか気まずそうに違う方向を見ていた。そういえば、コイツには別れた時のことを話したっけ。それにおそらく、コイツも今まで外で彼女と電話をしていたのだろう。その場で一緒にだべっていても、前から入っていた予定に遅れそうでも、友達の優先順位は彼女からの電話一本で簡単に低くなる。それはこいつらが俺に対して信頼を置いているからなのか。それとも単に俺なら蔑ろにしていいと思っているのか。その辺はなんとなく気にしないようにしていた。気にしてはいけないような気がした。
それからしばらくは、3人ともそれぞれ勉強に集中した。2人はどうか知らないが、とりあえず俺だけは確実に集中していた。俺はひたすらに数学の問題を解いた。今は問題を解くことだけが、自分の頭の中からあらゆる雑念を取り去ってくれるたった1つの方法に感じられた。静かな部屋で聞こえるのはシャーペンが紙の上を滑る音だけで、他の一切の音は姿を見せない。本来の図書館の使い方をしている自分が、少し誇らしくて、嬉しかった。
しかしそんな些細な喜びも束の間に消え去る。ペンを置いた隼人が和樹に近づいて囁いた。
「なぁ和樹。ぶっちゃけさぁ、最近サワとはどーなんだよ?順調?」
勉強中だぞ、とはにかみながら注意する和樹だったが、しつこく聞かれるうちに、本当は話したくて仕方がなかったかのようにあれこれと饒舌に話し出した。彼女のサワとこの前、付き合って1年記念を一緒に祝ったこと。クリスマスは受験を考慮してプレゼント交換だけで済ますこと。最近サワの塾の終わりを待って、その帰りに少しだけしゃべること。どれをとっても、今俺が解いている数学の問題の参考になりそうなものはなかった。たとえ数学でなくても、今の俺には全く必要のない情報ばかりだった。
コイツらは今、俺の入れない会話を楽しんでいる。そう考えた時、俺と2人の間に超えられない太い線が引かれた気がした。この線の向こう側にいるあいつらだけが共有できる話と、その線をまたぐことのない俺には共感できない感情が、はっきりとした輪郭を持って俺の目の前で踊っている。
いつからだろう。こんな風に自分と他人との間に線を引くようになったのは。“図書館でも携帯の音を切らない和樹“と“マナーモードを使用する俺“。“集合時間に20分遅刻する隼人“と“5分前行動を徹底する俺“。そうやって自分と他人との間に明確な基準を以て線を引く。自分で線を引いている間は、いつだって自分を正しい立場に置くことができた。少なくとも、自分がどんな線引きでどちらの立ち位置にいるのかぐらいは把握していた。
じゃあ、“真面目な俺“と“つまらない俺“はどんな基準で線引きされているのだろう。彼女は、どんな基準を以て、俺を『つまらない方』へと位置づけたのだろう。俺はあの日の電話を境に、急に目の前に引かれた線の正体を未だに掴めずにいる。
「で?お前はどうなんだよ?ハルカと上手くいってる?」
隼人の声が俺の意識を無理やり自分の方へと引きつけた。隣の和樹が面白いように焦った顔をする。そっか。コイツは俺と自分たちとの間にある境界線に気づいているんだった。だからそんな風に同情的で、憐れむような顔をするんだ。でも隼人は知らない。自分と、今自分が質問を投げかけた男との間に、“彼女がいるかいないか“という基準で引かれた線がすでに横たわっていることを知らない。
「おい、やめとけって。コイツにその話すんの。」
和樹がそう言った。
「なんでだよ?まさか最近上手くいってねぇの?」
「上手くいってねぇっつーか、その・・・。」
またも和樹がそう言った。なぜか和樹は口籠もった。
「え!?マジか。別れちゃったの?なんで?」
なんで別れたのか。それは俺が1番知りたかった。俺にはどういう“線引き“であいつの恋人として相応しくないと判断されたのかわからない。だから俺は、あの電話で聞いた内容をそのまま伝えることにした。
「さぁな。一方的にフラれたよ。理由はよくわかんないけど、俺に飽きたとか、そんな感じのこと言ってた気がする。あぁ、真面目すぎてつまらないって言われたよ。そんで他の男のこと好きになったみたい。」
自分でも驚いた。今自分の口からこぼれ落ちた「俺に飽きた」という言葉が、彼女の「つまらない人間だなって思った」という言葉の意味を完全に代弁していることに。
そう気づいた時、自分でも信じられないくらい腑に落ちた。そうか、彼女は飽きてしまったんだ。真面目な俺に。今思えば彼女とのデートのうち、何度手をつないだだろう。何度好きと伝えただろう。スタバにも行った。映画にも行った。お互いその日1日を楽しんでいた。と思っていた。でも、彼女が楽しんでいたのはあの日飲んだキャラメルマキアートの味で、あの日見た映画の内容で。決して俺との時間を楽しんでいたわけではなかったんだ。
きっとこの目の前の2人は、飲み物の味がよくわからなくたって、映画の内容が薄っぺらくたって、彼女を楽しませられるのだろう。自然に手を繋いで、思った時に好きだと伝える。去り際に気持ちが高ぶれば、ハグをして、もしかしたら人目を気にしながらキスだってするかもしれない。
そんな楽しさを俺が提供できなかったから、ハルカは俺の前に線を引いたのだ。つまらない男だと。
彼女は電話の最後に、俺は悪くないと言っていたけれど、悪かったのは全部俺だったのかもしれない。
「え?何それ。そんな理由お前受け入れられたの?」
そう言ったのは和樹だった。そういえばコイツにも別れた理由は言ってなかった。隼人も和樹も、俺に食い入るような視線を向けている。でも何となくわかった。コイツらが俺にあれこれ聞くのは、きっと自分より可哀想な奴を見て、幸せを実感したいんだ。自分より惨めな奴を慰めることで、自分は彼女がいることに大きな安心感を得たいのだ。
だからさっきも、静かな図書館で、しかも俺の目の前で彼女との楽しい話をしてたんだろ?自分には彼女がいて、優位な立場にいるから自信ありげに息巻いて話してたんだろ?
「そんな身勝手な理由があるかよ。」
「お前は悪くないって。」
2人はそう言って俺を励ました。でも俺は、その言葉の裏に隠れているかもしれない悪意にしか目を向けられない。そんなありきたりな言葉は、考えなくとも口にできる。どうせ、コイツらは俺とは違うサイドにいる。どこまでいっても、彼女がいるっていう線で守られてるんだ。
2人だって心の中で思っているはずだ。俺がスマホの音を切れと注意した時、飲食禁止だからとコーラを飲まずにバッグに入れた時、『細かいルールにこだわりやがって』と。『なんて真面目でつまらない人間なんだ』と。
だからやめろよ、同情したような顔するの。本当は心の中で笑ってるんだろ、コイツにはぴったりの理由だなって。やめろよ、理解できませんって顔するの。本当は納得してるんだろ、コイツはバカ真面目だからなって。
飽きられて当然だって、本当は心の中で思ってるんだろ?
心の中でそうつぶやく度に、俺は自分のこころが汚れていくのがわかった。
勝手に線引きをして自分と他人とを分ける度に、自分の視界が淀んでいくことに気づいた。
わかってる。ホントはそんなこと考えずに、コイツら2人は真剣に俺を励ましてくれてるのかもしれないってこと。俺の失恋のために、同じ気持ちになって一緒に悲しんでくれようとしてくれてるのかもしれないってこと。
でもダメなんだ。線を引き始めたあの時から、俺はお前らのことをまっすぐ見れなくなったんだ。なんでお前らだけ幸せで、俺はこんなに不幸なのか。
その幸せの線引きをしてしまった時点で、俺にはお前らの友達でいる資格なんて無くなってたんだ。
なぁ、どうして?どうしてなんだ。
どうしてこんなにも
お前らの顔を見てると死にたくなるんだ。
「もういいだろ、俺の話は。」
俺が冷たくそう言い放つと、2人は慌ててその場を取り繕おうとした。
「わかった。じゃあ、一緒にラーメン食いに行こう。俺の奢りでいいから。な?」
「そうだよ。うまいもん食って、あいつのことは忘れよう。」
どう見たって、2人が気を遣ってくれているのがわかった。でもとっくに黒く汚れた今の心じゃ、コイツらとは美味いラーメンは食べられない。コイツらと楽しい時間を過ごす資格は、俺にはもう無い。
「いや、いいよ。俺ちょっと頭痛いし。」
『悪い。』と言ってから、俺は2人に背を向けた。出口へと向かう歩幅はなんだかいつもより大きい気がした。
最初は寂しく思えた家までの帰り道も、一歩ずつ踏みしめていくことで心地良く思えてきた。今までにないくらい足取りは軽かった。1人で歩く自分がなんだか誇らしくも思えた。誰かと一緒に歩いている人たちの群れを、たった1人でかき分けていくのは、何とも形容し難い優越感をもたらした。
誰かと一緒にいた時と違って、今は周りがよく見える。イチョウの葉がもうすっかり黄色くなっていること。でこぼこだった歩道が、いつの間にか舗装されていたこと。ついこの間まで人気だったイタリアンレストランの駐車場が、今ではガラガラになっていること。楽しそうに歩くカップルを見ても、なんとも思わなくなっている自分。ひとりになって周りを見渡せば、世界は目まぐるしい速さで回っていたんだと気づく。
1人で歩いていくことは、こんなにも気楽で、気持ちがいいものだったのか。
そう思いながら、俺はトートバッグの中のコーラを、一口も飲まなかったそれを、近くのゴミ箱に放り込んだ。
心はもっと軽くなった気がした。
冬の訪れを告げる秋風は、冷たいながらも、強く強く俺の背中を押した。
お前らの顔を見てると死にたくなる 賽ノ目研助 @psycholo
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