第31話 三者面談

「そろそろ行かなきゃ遅刻だよ」

「裕、英語の教科書テーブルに置きっぱなし!」

「やべ、忘れてた」

「待って麗奈、お弁当忘れてる!」

「あー、ありがと!」

「皆さん、あと十五分ですが大丈夫でしょうか」

「大丈夫じゃなぁい!」

「俺もう行くからな」

「待ってよバカ! 行ってきまーす!」

 ばたばたと騒々しい足音が去り、嵐の後のように静けさを取り戻した狐荘。

 ポカンとして子供達を見送った咸子に、宏がにこにこと声をかけた。

「失礼致しました。朝御飯にしましょうか」

「……いつもこうなの?」

「そうですね、基本的には。でも幸い、まだ遅刻をしたことは無いようです」

「うちの子達がご迷惑をおかけして……」

「いいえ。毎日賑やかで楽しいですよ」

 宏は三人の食器を片付け、自分と咸子の分の朝食を持ってキッチンから出てきた。

 子供達が完全な和食だったのに対し、咸子に振る舞われたのは、ふんわり甘い匂いの漂う、蜂蜜のかかったフレンチトーストだ。

「コーヒーと紅茶どちらがお好きですか?」

「えーと、じゃあコーヒーお願い」

「かしこまりました」

「……私達だけこんなお洒落なもの食べていいのかしら」

「学生さんは体力を使いますから、スタミナの付くものをたっぷり食べて頂かないといけません。私達大人は、ちょっと一息着く時間ですから……あ、料金には関係しませんのでご心配なく」

 ちょっと罪悪感を感じる咸子とは対照的に、宏は嬉しそうにコーヒーを二杯並べ、テーブルに着いた。

「では、頂きます」

 家でフレンチトーストなんか作ったことのない咸子は、食べながら宏に作り方を聞いたり、料理のコツを聞いたり。そのうち、気付けば奥様会議かのように話が盛り上がっていた。

「宏君って世間のお母様方に好かれそうよね。お友達は年上の女性ばっかりとか、そんなことない?」

 咸子が訊くと、宏は少し困ったように眉を下げて首を振った。

「実は私、お友達と呼べる仲の方がほとんどいないのでして」

「えー、どうして。モテそうなのに」

「咸子さんならお察しだと思いますが……私は裕ほど妖術に長けておりません。万が一のこともありますから、まだ一人で世間を出歩く許可を頂けていないのです。隣町のスーパーまで行くのが許されたのもわりと最近で」

「そうなんだ、勿体ない。なら、こんなオバサンで良かったら、お友達になりましょうよ」

 咸子の提案に、宏は目を丸くする。

「……よろしいのですか?」

「ええ。萩山に帰ってからもお手紙書くから、料理とか教えてよ」

「ありがとうございます!」

 心から嬉しそうに、宏が顔を輝かせた。


「ところで宏くん。あなた萩のこと、どういう風に見てるの?」

 話が盛り上がってきたところで、咸子はずっと気になっていた話題を振ってみた。

「どう……と申しますと?」

「だって、貴方にとって彼は、物凄く年上で格上で、妖力も強くて……恐ろしい存在の筈でしょ」

「……まぁ確かに、あの方は非常に上級の妖です」

「じゃあどうして、普通に接していられるの? 人間ならともかく、妖力を感じ取れる妖怪が、彼と対等に接してるのは初めて見たわ」

「初めて……?」

 宏が怪訝そうに眉を寄せる。

「萩山の妖怪達はね。みんな、萩のことを萩神とか萩様って呼んで、恐れてるのよ。タメ語使うのは人間と、まだ物の道理がわからない子供の妖怪だけ」

 温くなったコーヒーを口に含む。ふと視線を上げると、宏は手元をじっと見詰めたまま、ぽつりと口を開いた。

「裕がお友達として対等に接する相手には、私も裕のお友達として接するようにしています。ですが私は……萩さんのことを恐ろしいなどと思ったことはありません」

「そう。それが不思議なのよ」

「……あんな風に、お優しくて気さくでかわいらしい男の子の、一体どこを恐ろしいなどと思うのか不思議でなりません」

 静かに、だがきっぱりと、宏はそう言った。咸子はふふ、と小さく笑ってマグカップを両手で握り込んだ。

「……もしかして怒ってる?」

「いえ、ただ……寂しいことだなと思いまして」

「充分だわ。ありがとう」

 宏はきょとんと目を丸くした。

「お礼を言われるようなことは何も……」

「はーくんがうまくやっていけてなかったら、無理にでも萩山に連れ戻すつもりだったの。でも、彼と対等に接してくれる貴方達になら任せて大丈夫そうだから」

 コーヒーの水面を眺めながらそう言った咸子に、宏は穏やかな瞳を向ける。

「そうやって心配してくれる方がいる、萩さんや麗奈さんが羨ましいです」

「ん? ま、私は麗奈にはそこまで心配してなかったのよね、実は」

 そう笑った咸子に、宏はゆるりと首を振る。

「いえ、そうではなく……萩さんは、貴女と同じことを言って麗奈さんの元に来られたので」

「同じこと?」

「裕の力が、麗奈さんを守るに足らなかったら連れ戻す、と。試されたんだって、裕が怒ってました」

「そんなこと言ってたの……もー、どこまでも麗奈ラブなんだから、はーくんは」

 咸子は呆れて噴き出した。

「そうですね。あ、そうだ、萩さんは恐ろしい方ではありませんが、麗奈さんのこととなると豹変しますね。怒らせたら怖い方、だとは思います」

 宏が思い出したようにそう言った。

「怒らせたらすぐ手が出るから厄介なのよあの山神様は」

 今までを思い返してくすくす笑いながら、咸子はコーヒーを啜った。


 ◇


「これで帰りのホームルームを終わります。はい世話係、挨拶」

「起立ー、気を付け、礼」

「さようならー」

「はいサヨナラ」

 帰りの挨拶を終えて生徒達が一斉に帰り始める。

 五組はいつもホームルームが短いことで有名だった。クラス担当の教師が、手際よく必要事項の連絡だけしてさっさと解散するからだ。

 萩は荷物を鞄に詰めてから、京介と一緒に昼食を食べるため、京介の支度が終わるまで待つつもりでぼんやりしていた。

 すると。

「ねーねー萩くん」

 いつも萩を取り囲んでいる女の子のうちの一人が、何やらニコニコしながら声を掛けてきた。

「な、何」

 少し警戒して顔を上げると、彼女は教室のドアの方を指差した。

「あの方、萩くんのお母さんじゃない?」

「おかあ……えっ?」

 慌ててドアの方を見る。

「はーくん!」

 にこやかに手を振る咸子と目が合った。

「……げぇ」

 時計を見る。まだ一時前だ。

 萩は荷物を机に残したまま渋々廊下に出た。

「何しに来たの」

「何って、三者面談」

「面談は二時から!」

「いいじゃない、早めに来たって」

「良くないよ!」

「麗奈とはーくんが普段どうしてるか見たいんだもん。先生だって、授業は終わってるからいいですよって言ってくださったし。授業参観にも来てあげられなかったから、代わりにね」

「……勝手にしなよ」

「もちろん。勝手にするわよ」

 咸子は嬉しそうに、隣の教室――麗奈のクラスの方に歩いていった。

「今の、萩の母さんか?」

 教室から廊下に出てきた京介が、興味津々に尋ねてくる。

「えーと……麗奈のお母さんだよ」

「あ、そっかお前ら従兄弟だったっけ。てことは叔母さんか」

「うん、そう」

 家族のいない萩には人間の家族関係の名称は難しくてよく解らない。親子と兄弟以外はちんぷんかんぷんで、正直イトコの意味もぼんやりとしか理解していないくらいだ(だから国民的海鮮ファミリーのアニメなんて見ても誰が何やらさっぱりだ)。下手に喋って掘り下げられても困るので、とりあえず適当に話を合わせておくことにした。

「お前も親来るのか?」

「ううん。麗奈ママが代理」

「さっきの人か。てか高沢の母さん、若くて綺麗だよな。いいな」

 京介が羨ましそうに言うので、萩は首を傾げた。

「……そうかなぁ……」

「俺の母さんなんかもう四十代も後半だぜ」

「ミ……あの、麗奈のお母さんも四十三だよ」

 ミナ、と言いそうになり慌てて言い直す。

「ええっ、マジでか! 全然見えないなぁ」

「若作りが巧いだけだよ」

「ふーん……女ってすげえな」

「うん。すごいね」

 四十三にもなってあんなにきゃぴきゃぴして、そのくせ平気で萩を背負い投げるような人間の女だ。人間同士ならまだしも、人間なんかよりずっと身体能力の優れた萩と互角な勝負をする筋肉バカは他にはいない。それでもごりごりのマッチョレディではなく「若くて綺麗」なんて言われるのだから、やはり人間の化粧品という発明は――

「はーくん今何か失礼なこと考えてなかった?」

 いつのまにか戻ってきていた咸子の声に、京介が「うぉ!?」と飛び上がった。

「べつに」

「あら、お友達?」

「あ、はい高沢さん達にはいつもお世話になっております中村です」

 京介が礼儀正しく頭を下げる。

「まあ、素敵なお友達じゃない。中村くん、うちの子と仲良くしてやってね」

 咸子は彼女らしくなくそんなことを言って、萩の頭をぽんぽん叩いた。

「……なんだよ」

 気味悪いな、と小さく呟いたのが耳に入ったのか、咸子は笑顔のまま

「たかが甥っ子が叔母に楯突くんじゃないわよ」

 と、これまた微かな声で囁いた。

 人間の親戚同士のノリってこういうもんなのだろうか。萩は咸子がどこまで本気なのか判別しかねて黙ってしまったが、京介がニコニコしているのでとりあえず適当に流すことにした。

「あ、そうだ麗奈は見つけられた?」

「ええ。麗奈は面談明日なのよね。楽しみ楽しみ」

「……楽しいかなぁ」

「はーくんなんかには親心は一生理解できませんよーだ」

「……」

 なぜそこでいじけるのか。


「萩。俺今日は先に帰るな」

 京介が申し訳なさそうに両手を合わせる。

「え、帰っちゃうの」

「お前これから面談だろ。俺、今日母さんに昼飯家で食うって言っちゃったし、持ってきてないんだよ」

「そっか……」

 萩ががっかりしたのを察してか、京介は

「もし暇なら、面談終わった後でまたバスケでもしに行くか。正樹とか裕も誘ってさ」

 と、提案してきた。狐も来るのは少々癪だが、久しぶりに外で遊ぶいい機会だ。

「うん、行く!」

「じゃあ準備して待ってるから。終わったら……あー、メールは無理か。電話して」

「わかった!」

「じゃ、あとで。えーと、失礼します」

 萩に手を振り、咸子に頭を下げて、京介が去っていった。

「いいお友達じゃない。賢そうだし」

「京介は頭いいんだよ。あいつの家、動物病院なんだって。僕いつもだいたい一緒にいるんだけど、皆に優しいし、リーダー気質だし……何?」

 咸子はにこにこして話を聞いている。あまりにじっと顔を見られて気持ち悪くなり、萩が話すのを止めると、咸子は「続きは?」と促した。

「いや、なんでそんなニコニコしてんだか」

「嬉しいのよ。はーくんにお友達が出来て」

「……友達くらい、出来るよ」

「それでもやっぱり嬉しいのが親心ってもんよ」

「親じゃないから」

「はいはい。で? 京介くんのこともっと教えてよ。いつも二人でどんなこと話すの?」

 咸子が楽しそうに聞いてくるので、なんとなく乗せられて色々と話しているうち、気付けば面談の時間になっていた。

 咸子は他人を自分のペースに巻き込むのが上手い……と、萩はつくづく思う。


 ◇


「高沢。お前、文系の教師とか向いてるんじゃないか」

「やだ。僕理系がいいんです」

「なんでそんなに拘るんだ。理系学部に進学したいのか」

「大学は行きません」

「なら無事に卒業出来るルートを選ばないか。高校には留年という制度もあってだな」

「そうよ、はーくん。文系だったらトップよ」

「理系がいい」

「あのな高沢……人には向き不向きってもんがあるんだ」

「関係ないね」

「……高沢」

「ごめんなさい先生、この子言い出したら頑固なんです」

「子って言うな、ミナの癖に」

「黙んなさい我が儘坊主。誰が学費払ってると思ってんの」

「まあまあお母様……」

「母親じゃない!」

「うふふ、叔母です」

「叔母でもない!」

 五組で繰り広げられた三つ巴の攻防戦は、面談時間の二十分間を目一杯使って続いた。

 結局、本人の意志を尊重するということで落ち着いたのだが、咸子とクラス担当から「理系はやめとけ」と散々言いくるめられた萩の機嫌は相当悪くなっていて。

 麗奈も合流した帰り道、萩はむっつり口を閉ざしたまま一人でずんずん先に歩いて帰ってしまった。

「あ、もう見えなくなっちゃった」

「はーくん何をそんなにいじけてるのかしら」

「イヤだったんじゃないの、否定されるのが」

「嘘だあ。あの人そんな子供じゃないでしょ」

「……そうかなあ。案外あたし達と変わらないと思うけど」

 不思議がる咸子に、麗奈はそう言った。面談の様子は見てはいないが、咸子から聞いた話で大体予想は出来る。

 面談が終わって教室から出てきた時点で、萩は物凄く機嫌が悪かったのだ。

 裕に成績を馬鹿にされただけであんなに怒っていたのだから、教師や咸子に成績のことを色々言われて嫌にならない訳はない。

 その気持ちは麗奈にもよく解るから、ちょっと同情してしまった。

 麗奈と咸子が民宿の前に着いた時、萩はボールを抱えて裕と一緒に公園の方向に飛び出していったところだった。

「夕飯までには戻る!」

 裕が振り返って叫ぶ。麗奈は了解の意味を込めて手を振った。

「……元気ねぇ」

「いつもあんな感じだけど。……ただいま戻りましたぁ」

「麗奈さん咸子さん、お帰りなさい」

 宏がリビングのドアを開けて迎え入れてくれる。

「裕と萩はまたバスケに?」

「はい。中村さんと杉元さんも一緒みたいですよ」

「またあの四人……ほんと仲良しですよねあそこ」

「宿題も真面目にやるよう言っておかないといけませんね」

 宏が困ったように笑う。

「勉強会でもやらせましょうか、萩の部屋広いし。中村くんあたりに指導してもらえば」

「いいですね。麗奈さん提案してあげてください」

「はーい。あたしも宿題教えてもらおっと」

 そんな話をしながら、麗奈は部屋に荷物を置きに上がる。

 制服を着替えて降りてくると、咸子と宏がなにやら楽しそうに話していた。夕飯の献立について話しているようだ。

 咸子は麗奈が戻ってきたのに気付くと、駆け寄ってきた。

「ねえねえ麗奈、はーくんが行った公園に連れていってよ」

「え? いいけど……なんで?」

「はーくんのプライベート観察」

「……遊んでるの邪魔しないなら……」

 萩が怒らないかちょっと心配だ。しかし咸子が「見るだけだから」と言い張るので、麗奈は咸子を公園に案内することにした。


 ベンチに腰掛けて缶コーヒーを飲みながら、遠くのコートでフリースロー対決している四人の少年を、咸子は目を細めて見詰めている。麗奈はそんな母の様子を見ながら、炭酸ジュースを啜った。

「……面白い?」

「麗奈にはこの面白さが解らないのねー」

「面白いんだ……」

「動画撮っとこ」

 咸子が携帯を出して動画撮影モードにし、「遠すぎて映らない」などとぼやいている。

 遠くで萩がシュートを決め、京介とハイタッチした。

「こうして見てると案外、普通の男の子よね。はーくんも、裕くんも」

「萩も裕も、普通だよ」

「……そうねえ」

 咸子は携帯を鞄に片付けて、缶コーヒーを全部飲み干した。

「ま、麗奈はずっとそのままでいてあげてね」

「うん……?」

「私は、そんなふうには思えなかったから。今でも思ってあげられないから」

 麗奈が顔を上げると、咸子はほんの少し寂しそうに微笑んだ。

「喧嘩もするしふざけたりもするけど、やっぱりどうしても私にとって彼は、“萩神”なのよ。対等ではないの。きっとはーくんも、ずっと前から気付いてる」

「……お母さん」

「だから、麗奈だけは、はーくんと対等でいてあげて」

「あたしだけじゃないよ」

 麗奈はそう言って、母の手から空になった缶を受け取った。すぐ傍のゴミ箱に、自分の缶と一緒に捨てに行く。

「裕も、宏さんも。それに萩には、クラスの友達がいっぱいいる。女の子にモテモテで、毎日きゃーきゃー言われてる」

「……あの人が?」

「そう。だから、萩はひとりぼっちじゃないから、心配しなくてもきっと大丈夫」

 咸子は暫く麗奈の顔を見つめてから、ホッとしたように口元を緩めた。

「……麗奈も、お姉さんになったわね」

「なんであたし?」

「二人とも大丈夫そうね。お母さん心配して損しちゃった」

 立ち上がり、鞄を肩に掛ける。

「宿に戻ろっか」

「もういいの?」

「楽しそうなはーくん見れたから満足。あの人もあんな風に遊んだりするのね」

「いっつも遊んでるよ。宿題後回しにして」

「ダメ学生まっしぐら」

「留年しないといいけど」

「そう! それなのよ。今日面談でね」

 咸子が楽しそうに、面談の様子を話してくれる。麗奈はそんな母の話を、笑いながら聞いた。なんだかんだ言ってはいるが、やっぱり母は萩のことを子供みたいに心配しているのだ。


 翌日は麗奈の面談だった。

 麗奈は素直に「進路が決まらない」と相談したのだが、担任の山本先生も咸子も、揃って「じゃあ理系にしときなさい」と、何度も聞いたようなフレーズを口にした。

 それで話が纏まると、咸子はしめたとばかりに雑談を開始した。

「私、今この子が下宿してる民宿に泊まってるんですけど」

「あーはいはい、稲崎さんとこの」

「あのお宅、とおざきさんっていうんですか」

「ええ。稲崎裕のとこよね?」

 山本が麗奈に同意を求める。麗奈は頷いた。

「あそこのオーナーさん、イケメンじゃないですか」

「もしかして、稲崎の保護者代理で来てた若い人?」

 山本が麗奈に確認する。麗奈はまた頷いた。

「あーたしかに、爽やかな感じですよねぇ」

「先生も思いましたか!」

「一昨日の早い時間に面談だったんですが、物腰の柔らかい素敵なお兄さんでしたよ」

「あれで家事まで完璧にこなせるんだから凄いですよね」

「結婚してないのが不思議なくらい」

「でもまだお若いですからねー」

 三者面談が女子会みたいになっている。

 萩や裕に聞いたところによると、クラス担当の教師は皆、妖怪の存在を把握しているらしい。だから山本も、裕や保護者代理の宏が妖怪であることは知っているのだろう。

 そう考えると、妖怪も人間も分け隔てなく接している人は母が言うほど少なくはないのではないかと麗奈は思った。

 実際、授業中に居眠りしていた裕が、他の生徒と一緒に怒られている場面は何度か見たことがある。

 麗奈は母と山本の話に興味を失って、廊下側の窓に視線をやった。五組で麗奈を待っていた萩が、様子を窺いに四組の前まで来ている。麗奈が小さく手を振ると、萩は状況を察したのか苦笑いで小さく手を振り返してくれた。

「山本先生は結婚してないんですか?」

「してないんですよー、募集中なんです」

「えー、こんなに綺麗なのに勿体なーい」

「やだー褒めても何も出ませんよ。でも最近、保険医の安河内先生みたいなできる女になって一生独身貫くのも悪くないかなって」

 ……早く帰りたい。


 ◇


 面談が終わると、麗奈は咸子と萩と三人で学校帰りに遠回りをして、商店街のカフェに向かった。

 麗奈もよく友達と行くことがあるこのカフェは、周辺に娯楽施設が少ない霞原町では学生の溜まり場になっていた。

「お母さん、萩、お腹に余裕ある? あたし一回このバケツパフェ頼んでみたかったんだけど、女の子だけでは食べきる自信なくて頼めなかったんだよね」

 麗奈が開いたメニュー表には、バケツに入った巨大なパフェの写真がでかでかと載っている。大量のソフトクリーム、バニラアイスやチョコアイスに、生クリームと色とりどりのフルーツがこれでもかと盛り付けてあり、チョコクリームがたっぷりかかっている。美味しそうだが、女子三人いても食べきれるような代物ではない。

「いいわよ、はーくんいるし。はーくん甘いの好きでしょ」

「……僕、和菓子は好きだけどクリームとかチョコはあんまり……」

「いける、大丈夫! すみませーん、このパフェ一つ。あと、冷たい紅茶二つと、アイスコーヒーください」

 強引に押しきって、咸子がバケツパフェを注文した。

「萩って、チョコ食べて大丈夫なの? もしかして、体調悪くなったりしない?」

 麗奈がちょっと心配になって小声で尋ねると、萩はうーんと首を捻った。

「まーたぶん」

「たぶん!?」

「ま、死にはしないよ」

「無理だったら食べなくていいからね?」

「じゃ、果物だけ食べちゃう」

「それはダメ!」

「えー、ケチ」

「だったらはーくん、チョコクリームだけ除けて食べたらいいじゃない。なんなら麗奈がチョコだけペロッと」

「……それは別にしなくていいかなあ」

「どうする麗奈、はーくん間接チュー嫌だって」

「チューどころの騒ぎじゃないよ。あたしも嫌だよ」

 母の提案はきっぱり断った。


「そういえばもうすぐお盆だね」

「海! 楽しみだな」

「そうだ、お母さん水着買ってよ」

 麗奈が身を乗り出すと、咸子はすんなりと了承してくれた。

「いいわよ」

「えっ、本当!?」

「ええ。この間、勇太と華奈にも買ってあげたから。はーくんも一緒に行くんでしょ、買わなくていいの?」

「僕はいいよ。泳がないから」

「えーっ、なんで! 一緒に海入ろうよ!」

 麗奈が言うと、萩は困ったように笑った。

「僕、泳げないんだよね」

「え、でも体育のプール出てたじゃん」

「カナヅチレーンにいたの気付かなかった?」

 カナヅチレーンとは、水泳の授業の際、泳ぐのが苦手な人の為に確保された一番端のレーンのことだ。ガンガン泳いでタイムを計る他のレーンとは違って、ばた足からゆっくり泳ぎ方を指導される特別講座が開かれている。

 麗奈は小さい頃スイミングスクールに通っていたので泳ぎは得意で、通常レーンで泳いでいた。プールサイドを反対側まで移動する時は弥生達と話しながら歩いていたので、萩がどこにいるかなんて気にしてもいなかったのだ。

「ごめん、気付かなかった」

「泳がないにしても、浅瀬で水遊びするのにパンツ一丁ってわけにもいかないでしょう。買ってあげるから選びなさいよ」

 咸子の言葉に、萩が頷く。

「そっか……じゃあ遠慮なく」

 そんな話をしていると、注文したバケツパフェと飲み物が届いた。

 飲み物はお盆に載せて運ばれてきたのに対し、なんと両手で抱えて運ばれてきたバケツパフェ。

 店員さんが「さあ完食できるかな」みたいな表情で去っていくのを見送って、三人はまじまじとパフェを眺める。

「……でっか」

「食べきれるかな、これ」

「挑み甲斐のある大きさね。敵に不足無し! かかれー」

 戦の掛け声みたいな咸子の号令で、一斉にスプーンを突っ込んだ。

「ところで、海ってどこの海?」

「バスで一時間ちょっとのとこだって。まだ詳しくは知らないけど」

 咸子の質問に麗奈が答えると、それを聞いた萩が思い出したように顔を上げた。

「近くに墓地あるらしいよ」

「えぇ……それ肝試しフラグじゃん……」

「肝試し楽しみだねー」

「やだよ、あたし絶対行かないからね! そんなの死者への冒涜だ」

「難しい言葉知ってるわね麗奈」

「通過するだけなら祟られないって。……まぁ人を化かすのが好きな妖怪の本領発揮出来る絶好スポットではあるけど」

「やだー、絶対やだ。あたし海に入った夜は熱出すことにする」

「それ仮病宣言?」

「はーくんエスコートしてあげなきゃね」

「文化祭のお化け屋敷は平気そうだったじゃん、麗奈」

 あの時は萩がお化け役を片っ端からちょっかい出していたから怖がるどころじゃなかったのだ。人が作ったお化け屋敷ならまだしも、実際の心霊スポットとなると話は別だ。

「絶対絶対絶っ対、行かない」

 麗奈はそう言い切って、パフェのバニラアイスにスプーンを突き立てた。

「はーくん男なら麗奈を守ってやんなさいよね」

 咸子がパフェに載っていたイチゴにフォークを刺しながら笑う。

「別に、そうでなくても守るよ。当たり前じゃん」

「本当? 驚かしたりしない?」

「……たぶん」

「もし本当に肝試しがあったとして、万が一あたしを脅かしたりしたら、あたし一生萩と口きいてやらないからね」

「えっ……」

 萩がこの世の終わりみたいな顔をする。

「じゃ、じゃあ絶対おどかなさい!」

「約束だよ」

「約束する!」

 赤べこみたいな勢いで頷く萩を見ながら、麗奈はなんとなく萩の扱いに慣れてきた自分に気付いたのだった。


 ◇


 あの巨大なバケツパフェをぺろりと完食して立ち去る三人を、カフェの店員達は好奇の目で見送った。

「さあ二人とも、好きな水着をチョイスしなさい。ただし五千円以内ね」

 商店街で運良く水着フェアをやっていたので、若者向けの一番大きな店を見ることにする。

 萩はどうやら水着売り場に来たのは初めてだったらしく、「今時の女の子ってこんなに肌出して人前出るの」なんて呟いている。一体いつの話をしているのやら。

「あたしあれがいいな、セパレート? 上からスカートつけるやつ」

「ビキニにしなさいよ」

「……ビキニはちょっと恥ずかしいかなぁ……」

「えーそんなことないわよ、みんな着てるでしょ。ねぇはーくん、麗奈の」

「っゲホゲホ」

「萩に聞かなくていいから! あっちのコーナー見てみようお母さん!」

 明らかに麗奈のビキニ姿が見たいか聞こうとした母を、おしゃれ水着コーナーへ無理矢理引っ張っていく。

 噎せながらついてくる萩の顔が真っ赤だ。こんな調子では、海で水着の女の子なんか見たら卒倒するんじゃないだろうかと心配だ。

「あ、これこれ。これなら見た目普通の洋服って感じでしょ。まあ中はビキニだけど、上にキャミとスカートあるからお腹も露出しないし可愛いよね」

 麗奈が選んだ水着を見せると、萩は何故かほっとしたように頷いた。

「いいじゃん、可愛いじゃん」

「はーくんさ、頃合いを見計らって、上のキャミソール剥ぎ取りなさい。スカートは……まあ許そう」

「お母さん萩に何させようとしてるの」

「麗奈は絶対ビキニがいいってー」

「あたしそんなスタイル良くないから」

「私の娘のスタイルが悪いもんですか」

「胸ないもん。触る?」

「はーくんどうする」

「……もうやめてよその手の話僕に振るのさぁ……」

「だって反応面白いんだもん」

 と、面白がる咸子。ちょっと萩が可哀想になってきた麗奈だった。

 麗奈の水着を買い物籠に入れて、男性用水着売り場へ向かう。

「はーくんは海パンでいい?」

「……よくわかんないけど――」

「あ、そう。じゃビキニね」

「やめてあげてお母さん!」

「頼むから麗奈が選んでよ……」

 萩は水着を見ながら、げんなりした様子で呟いた。


 とりあえず萩の好きな色や柄を聞きながら麗奈の見立てで海パンをチョイスし、レジに向かわずそのまま服売り場へ向かう。

「洋服も選びなさい。五千円分ずつね」

「本当に!? いいの!?」

 麗奈が飛び付くと、咸子は大きく頷いた。

「これはお父さんからの分。はーくんもよ」

「……悪いよ、それは」

 やったーと両手を上げて服を選びに走る麗奈とは反対、辞退しようとした萩の肩に、咸子は横から肘を乗せてぐいぐい体重をかける。

「貰えるもんは貰っときなさいって。どうせ、お母さんから送られてきた安っぽいお古のTシャツくらいしか持ってないんでしょ? おしゃれ着は一枚くらい持っとくの」

「でも……」

「いいから。なんなら九百八十円のシャツ五枚でもいいから、とりあえず好きなの選びなさい」

「……ありがとう」

 小さく呟いた萩の頭を、咸子はにっこり笑ってぐしゃぐしゃに撫でた。


 服を選び終わり、咸子が籠を持ってレジに並んでいる間。麗奈は萩と店の外で咸子を待った。

 両親からの思わぬプレゼントに心踊らせる麗奈の隣で、萩がぼんやりと口を開く。

「あのさ、僕さ」

「ん?」

 麗奈が振り返ると、萩はちょっと照れたように下を向いていた。

「こういうの、初めてなんだ」

「こういうの?」

「親いないし。もともと山にいたから、あんまり人としての生活してなかったし。こう、一緒にお買い物、とか……服、選んでもらったりとか、体に合わせてもらったりとか」

「……うん」

「だから……ちょっといいな、って思って。親、とか、家族とか、そういうのがいるっている感覚を全然知らなかったから」

 萩は下を向いたまま視線だけを上げて、麗奈の方を見た。

「家族って、なんかいいね」

「うん……うん! そうだね」

 麗奈は何度も頷いた。

「萩はさ、きっともう高沢家の一員なんだと思うよ。それにほら、あたしたち従兄弟だし」

「……でもそれは」

「もちろんそれは仮にだけど、でも、いいよ。そう思ってたらいいじゃん。赤の他人じゃないよ。家族だよ」

「うん。……ありがと」

 照れたように笑う萩に、麗奈も少しほっとする。麗奈親子と一緒にいて、遠慮とか疎外感を感じているのではないかと密かに気になっていたのだ。そうではなくて、居心地が少しでも良かったのなら。

「なあに、面白い話してんじゃない。で、どっちがプロポーズしたの」

「そういう話じゃない!!」

 話をわざと履き違えたような咸子の言葉に、麗奈と萩の声がシンクロした。


 ◇


 その日の夕方。

 面談という役割を終え田舎へ帰る咸子を見送るため、麗奈と萩、狐荘の二人は民宿の前に集まった。

 麗奈と萩は駅まで見送ると言ったのだが、咸子が断ったので民宿の前で盛大な見送りをすることになったのだ。

「お世話になりました。麗奈、はーくん、元気でね」

「お母さんもね。気を付けて帰ってね」

「……くれぐれも変な妖に喧嘩売らないこと」

 萩のお小言に、咸子は「はいはい」と生返事をして、宏と裕の方を向く。

「宏くん裕くん、麗奈とはーくんを宜しくね」

「はい、お任せください!」

 胸を張って頷く宏の横で、裕も小さく頷いた。

 咸子は荷物を持って、思い出したように萩の方を見る。

「あのさはーくん、たまには萩山に帰っておいでよ。別に無理矢理引き留めたり、学校辞めさせたりしないから」

「……気が向いたらね」

「シンにもそう言ったでしょ。曖昧な男はモテないわよ」

「う……」

 咸子に詰め寄られ、萩は目を斜め下に向ける。

「いや、まあ」

「山の妖怪達だって会いたがってるし……山からずっと離れてるから、身体の方も心配なのよ。年に一回でいいから」

「……」

「じゃあさ、お正月にあたしと一緒に帰省しようよ」

 口を閉じて何も言おうとしない萩に代わり、麗奈が提案すると、萩は長い間の後に渋々頷いた。

「……わかった」

「絶対ね。約束よ、はい指切った!」

 咸子は自分と萩の右手の小指を無理矢理絡める。

 萩は不服そうだが、どうしてそんなに村に帰りたくないのか麗奈には解らない。

「お盆、海に行くんでしょ。みんなで楽しんでおいでね」

 そう言って咸子は手を振った。

「じゃ、また」

「華奈と勇太に宜しく伝えといて」

「……あと、山の奴等に、正月帰るから、って」

「了解、ばっちり伝えとく」

 萩の言葉に咸子がぐっと右手の親指を立てて、そのままくるりと踵を返す。

 その背中が見えなくなるまで、四人で見送った。


「そうだ萩、裕に水着見せてあげようよ」

「えー、別にいいよ」

「あ? さっき聞いたぞ、お前の母さんに」

 萩が面倒くさがるのを見て、裕が目をぱちくりさせる。

「キワドイビキニとブーメランパンツとか言ってたけど。お前ら意外と……ワイルドなシュミしてんのな」

 いや、別に個人の趣味なんて気にしないけどななんて真面目な顔で口走りながら去っていく裕。

 麗奈と萩は顔を見合わせた。


「おかーさんの――」

「咸子の――」

「バカやろぉぉぉぉっ!」

 見事に揃った二人の声。

 遠くの方から、咸子の高らかな笑い声が微かに聞こえたような気がした。


 ちなみに水着は、あとで袋の中を確認すると自分で選んだものがきちんと買ってあったとさ。

 ひと安心。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

狐の民宿 @sea4nagisa

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ