第15話 クラスメイト

 今日はいよいよ初授業の日。

 裕と萩が先に家を出たので、後から一人で登校した麗奈は、一年四組教室前の廊下で、思わず立ち止まった。

 五組の教室の前に、二十人近い女子の集団が集まってきている。学年は判らないが、制服の着崩し方や話し方からすると上級生のようだ。

 何だろう、と首を傾げながらも教室に入ると、弥生が顔を上げて手を振った。

「おはよう」

「おはよー……ね、何かあったの? あれ先輩だよね」

「さぁ……知らない」

「毎年恒例らしいよ、あれ」

 弥生が首を振ると、隣で話していたクラスメイト達がこちらの話に入ってきた。

「恒例?」

「毎年、上級生が新入生の品定めに来んの。お姉ちゃんに聞いたんだけどね。部活の勧誘の為って名目らしいけど……」

「ホントは今は勧誘禁止期間なんだよ。だからあの先輩達のほどんどは、イケメン探しの下見に来てるって訳。各クラスから数人ずつ代表で偵察に来るらしいよ。で、その情報をもとに、部活動勧誘のターゲットを決める。この学校の慣習になってるんだって」

「へ、へぇ……ありがとう」

 あの集団はどうやら、一年生を観察しながらクラスを順に回ってきた所だったらしい。

 だが、先程から五組の前を移動していない。

「……五組にいい男でもいたのかなぁ?」

 呟きながら鞄から麦茶のペットボトルを出してキャップを開けた。

「あ、それでね、さっき廊下通った時に聞こえたんだけど……」

 隣の少女達が二人で会話を再開した。

 麦茶を飲みながら、麗奈は何となく聞き耳を立てる。

「なんか五組に超可愛い男の子がいるんだって。きゃーきゃー言ってたよ」

「あ、それ聞いた。『タカザワ・ハギ』くんだっけ?」

――ぶふっ。

 麗奈は麦茶を噴いた。

 勢い良く噴いた。

 咄嗟に口を押さえたから被害は広がらなかったが、クラス中の視線が集まった。

「麗奈どうしたの、大丈夫?」

 弥生が驚いて覗き込む。

「大丈夫……ちょっと待って、その男の子が誰だって?」

 再び隣の二人に尋ねると、二人はきょとんとしてこちらを向いた。

「タカザワ……あ、あなた高沢さんだったっけ。もしかして親戚?」

「萩……? 萩っていったよね」

「そうそう。先輩に目ぇ付けられちゃったみたいだよ、可哀想に。勧誘期間になったら大変だね」

まさか。

(いや、でも……)

 そういえば、萩の名字を聞いていなかった。

 麗奈は咄嗟に裕の元に走り、机に伏せて居眠りしていた裕を叩き起こして教室の隅に引っ張っていった。

「……何だよ」

「裕、萩の名字知ってる!?」

 機嫌の悪そうな裕に構わず問う。

 裕は眉を潜め、少し考える素振りを見せてから、「あぁ」と頷いた。

「お前と一緒にするって言ってたぞ」

「一緒に……するって?」

「だって彼奴……ていうか俺も、人間じゃないから名字なんか無ぇもん。基本的に妖の名字はその場しのぎで適当に付けた偽名だし」

 裕が小声になって言った言葉に納得すると同時に、五組の高沢といったら萩しかいないではないかと脱力する。

 すると裕がぽつりと呟いた。

「俺は荻谷(おぎや)にしろって言ったのに……」

「おぎや、……んっ」

 まあ萩にとっては、彼自身高沢家の神社にいた訳だし、高沢が一番無難だったのだろう。そして、その萩が先輩たちの人気を集めているらしい。

 確かに萩は中性的な顔立ちをしているが、見慣れた麗奈には『超可愛い』と言われてもよく解らない感覚だった。

 裕と麗奈が席に戻ると、上級生集団がぞろぞろと移動して四組の前に来た。

 女子は特に相手にされていないようなので何とも無かったが、教室にいた男子一同に緊張が走ったのが判る。選別されているようであまり気分のいいものではないだろう。

 麗奈がふと見ると、裕は耳栓をして再び睡眠体勢に入っていた。

「あの子ちょっとイケメンじゃない?」

「そうかなぁ」

 誰とは言わないからまだ良いが、当人達に筒抜けな声で評価するのもどうだろうか。

「あ、あの子金髪」

 上級生の一人が、裕に気付いた。

「本当だ」

「でも寝てるから顔見えないね」

 裕が耳栓をしたのはこの為だったようだ。

「今年の一年ってチャラくない?」

「ねー」

 あの金髪の所為で、案の定勘違いされている。しかし耳栓をしている裕は全く動じない。


 しばらくすると、「お前ら自分の教室に帰れー」と、ホームルームに来た教師陣が廊下の上級生を追い返して、廊下は静かになった。


 ◇


 この日の午前中はまだ授業が無く、クラス役員決めやオリエンテーションが行われただけで昼休みになった。

「麗奈、一緒に食べよう」

 弥生が椅子を後ろに向けて麗奈の机に弁当箱を置く。

「うん!」

 麗奈は小中学校とも給食だったため、幼稚園ぶり(遠足を除いてだが)の弁当にわくわくしながら巾着を開けた。

 今日の弁当は宏の手作り。朝早くに起きて、裕と麗奈と萩の三人分をきちんと用意してくれたのだ。

「……うわぁ」

 蓋を開けた麗奈は、思わず一度閉めなおしてしまった。

「え、凄い。美味しそう」

 再び開けた弁当を覗いて、弥生が感心する。

 初日ということで張り切ったのか、新しい弁当箱の中身はある意味かなり豪華だったのだ。

 ウインナーがタコになっているかと思えば、リンゴはウサギになっている。

 白飯にはふりかけでお花やら星やらの形が描かれている。

 ハンバーグはネコか何かの形だ。

 宏は冷凍食品を使うのを嫌うから、もちろん全て手作りなのだろう。色とりどりのバランやピックを使っているところもまた宏らしい。

「可愛いねー。これ麗奈自分でやったの?」

「いや……下宿先の人が」

「優しい奥さんなんだね!」

「あはは……そうだねー」

 宏が優しいのは確かだ。奥さんではないが、何故か訂正する気にならなかった。

 さて食べるか、と麗奈は箸を取ろうとして、ふと手を止めた。麗奈の巾着に、箸ケースが三本入っている。

 疑問に思って顔を上げると、裕は弁当箱とにらめっこしている状態だった。

 どうやら裕が出ていった後に箸を入れ忘れたことに気付いた宏が、とりあえず麗奈の弁当に入れておいたらしい。

「ごめん弥生、ちょっと待ってて」

 麗奈は裕の分の箸を裕に持っていった。

「裕。お箸入ってなかったでしょ」

「……おー」

 顔を上げずに手を差し出す。視線は弁当に注がれたままだ。

 その時、裕の前の席の杉元正樹が振り返った。

「なぁ稲崎、弁当一緒……あっははははは!」

 振り返った途端に大爆笑する同級生の顔を、裕が恨めし気に睨んだ。

「……杉元」

「おまっ、おま……お前の弁当超可愛いな! ファンシーだな!」

 麗奈が覗くと、裕の弁当も麗奈同様可愛らしく飾り付けられていた。

「黙れ杉元! 何だよこれ、幼稚園児の弁当かよ!」

 顔を赤くして怒る裕。どうやら恥ずかしかったらしい。確かに高校生男子の弁当箱にタコやウサギやネコがいるのもどうだろうか。

「えーと……きっと宏さん頑張って作ったんだよ」

「これは張り切り過ぎだろ……あ、箸サンキュ」

「はーい」

 ひらひらと手を振って席を戻る。

 席に着くと弥生は怪訝そうな顔をした。

「なんであの人のお箸が?」

「あ……えーと、下宿先が一緒なんだ」

 裕の家に下宿しているとも言えず、咄嗟に言い訳した。

「……そう」

 一瞬弥生の表情が曇ったように見えて、麗奈は少し不安になる。

「……どうしたの?」

「あ、ううん、何でもない!」

 そう言った弥生の表情は、元の明るい笑顔に戻っていた。


 昼休みも半分過ぎた頃、弥生が手洗いへ行くと言って教室を出ていった。

 弁当を食べ終えた麗奈は一息つき、弁当箱の巾着を開けて愕然とした。箸ケースがもう一本あることを忘れていたのだ。

 そう言えば三本入っていたなと思い出し、弥生がいない隙に慌てて箸を握って五組へ走る。

 一年生の教室前の廊下には、未だに上級生がうろついていた。

 麗奈が五組の教室を覗くと、案の定萩は窓際の自分の席で、弁当を前に一人途方に暮れている。

「萩! ごめん!」

 軽く両手を合わせて箸を見せると、萩は迷子の子供が親を見つけた瞬間みたいに顔をぱっと輝かせて顔を上げた。

「麗奈!」

「ごめん、あたしの所に二人のお箸……」

「ちょっと来て!」

 急に立ち上がってドアまで走ってくると、萩は麗奈の手を引いて自分の席まで連れてきた。

「な、何?」

「あの……あのさ、麗奈お昼もう誰かと食べた?」

「? うん。クラスの子と」

「そっか……」

「あっ、ごめんね。お箸のこと忘れちゃってて」

「ううん違う、それはいいんだ」

「え、じゃあ何?」

「いや……何でもない」

 明らかに萩が何か困っているのは見え見えだったのだが、その後麗奈がいくら尋ねても「何でもない」と返されるばかりで何も言おうとしないので、麗奈は追及するのを諦めて自分の教室へ戻った。

 鈍い鈍いとよく言われる通り、麗奈は他人の心とか言外に含まれるニュアンスとかを細かく感じとるのがどうしても苦手なのだ。

 教室に戻ってふと見ると、裕は周りの席の男子と固まって、何か喋りながら弁当を食べていた。

 人見知りだという裕にしては頑張ったのだろう。

(……あたしも、弥生だけじゃなくて早く友好の輪を広げないと)

 何となく、裕に遅れを取りたくないと対抗心が起こる。

 その後教室に戻ってきた弥生と、麗奈は昼休みが終わるまでひたすら部活決めの話で盛り上がった。


 ◇


 放課後、麗奈は弥生に誘われて、途中まで一緒に下校することになった。

 麗奈は自分が授業についていけなかったらどうしようと不安で仕方なかったのだが、初めての授業は大して進まず、少しほっとして初日は終了。

 とはいえ、二ヶ月もすればテスト勉強に追われて泣きを見る羽目になるのは分かっていることだが。

「今日の数学難しかった?」

「でもあれ、宿題で予習させられたページだったよね」

「ずっとあれくらい簡単ならいいのにねー」

 二人で河原を歩きながら他愛のない会話をしていると、後ろから誰かが走ってくる音が聞こえた。

「れーいなーぁ!」

「佐藤先輩だ」

「先輩?」

 麗奈と弥生が立ち止まる。佐藤は息を切らして二人に追い付いた。

「ちょ、ごめんね待たせて……麗奈が見えたから三百メートルくらい全力疾走しちゃったよ」

「三百!? ……大丈夫ですか?」

「うん、もう平気。あ、もしかして麗奈のお友達ちゃんかな?」

 いきなり話を振った佐藤に、弥生は戸惑って「はぁ」と返している。

「アタシ麗奈と中学一緒だったのよー。可愛い後輩をよろしくね。ところでアタシ誰だか知ってる?」

「はい?」

「んもぅ、今日生徒会役員の紹介あったでしょ、副会長だってばぁ」

「あ……副会長さん」

「そうそう! あ、ホントはまだ勧誘禁止なんだけどまいっか。テニス部を是非よろしく」

「……はぁ」

「麗奈、良かったね友達出来て!」

 話が終わったと思ったら、今度は唐突に麗奈に抱きつく佐藤。弥生は完全に置いてけぼりを喰らっている。

 しかし麗奈は中学の頃から彼女の性格を知っているので、彼女のテンポには慣れていた。

「クラスメイトの弥生です」

 紹介すると、佐藤は弥生を見てにっこり笑う。

「そっか弥生ちゃんかぁ。うん、うまくやっていけそうで良かったね! でももしまた何かあったら、すぐに相談してね」

「ありがとうございます」

「弥生ちゃん、麗奈をよろしく頼んだよ。んじゃアタシは録画した昼ドラを消化する義務があるから、じゃね!」

 元気よく手を振ると、佐藤はUターンして走り去った。

「あれっ家こっちじゃないんですか!?」

「……個性的な先輩だねぇ」

「あはは……でも、頼りになるんだよ」

「へぇ」

「中学の時、色々相談に乗ってもらったんだ」

 だから、どんなに個性が強くてもテンションが高くても、彼女が真面目で優しくて他人想いだということを、麗奈はよく知っていた。

「そういえば……相談って何の? 『また何かあったら』って言ってたけど」

「あ、それはたいしたことない話なんだけど」

「恋愛とか?」

「うーん……まぁ大体そんな感じ」

「……いいなぁ。相談できる相手がいるなんて」

「でしょー?」

 自分の好きな人を誉められるのはいい気分がするもので、麗奈は少し嬉しくなる。

 橋の前まで来た所で、弥生は家が反対方向のため、また明日ね、と手を振って別れた。


 ◇


 麗奈と弥生が佐藤と出くわしていた頃。

 その数百メートル後方で、一人きりで歩いている人影があった。

 放課後、未だにうろつく上級生の所為で教室から出るのを躊躇ってしまい、結局下校が遅れてしまった萩である。

「はぁ……」

 緊張の連続で疲れきった萩は、背後から近付く足音に気が付いて何気無く振り返った。

 次の瞬間、

――ばこん。

「ぎゃっ」

 勢いよく向かってきた堅い何かが顔にぶち当たり、そのまま萩は後ろにすっ転んだ。ぼんやりしていたので振り返るのが遅れたのだ。

「あっ! 悪ぃ」

 慌てて駆け寄ってきた人物の顔を見て、萩は顔をしかめる。

萩にぶつけた学校カバンを右手にぶら下げて、裕が萩を上から覗き込んだ。

「いったいなー、何すんだよバカ犬!」

「悪かったって、でも振り返ったお前も悪い。俺は後頭部を狙ったのに」

「そうやって何でも他人の所為にするー」

「はいはい、じゃあ全部俺ですよ俺が悪かったですよ。ところで今日の午後の授業何だった? こっちは数学と現文だけ」

 投げ遣りに謝って話を逸らした裕を、萩は軽く睨みながらも答えてやる。

「……僕等は古文と化学」

「へぇ。どんな感じ? 教師誰だった?」

「先生の名前忘れた」

「そんくらい覚えとけよ」

「内容は、古文は簡単すぎて拍子抜け。化学が全然解んない」

「ふーん」

「うん」

「……」

「……」

 そして暫しの沈黙。話が続かない。

 黙りこくって二人で歩いていると、前方から誰かが全速力で駆けてきたと思ったら、

「おっ、一年生くん発見! 今日は楽しかったかな!? 因みに私は副会長の佐藤ですのでお見知りおきをー!」

 と言いつつ止まることなく駆け抜けて行った。

「……誰?」

「今名乗ってただろ」

「副会長? 生徒会の?」

「そう」

「何で僕等が一年って判ったんだろ」

「制服とか鞄のシワ見たら一目瞭然らしい」

「何で戻ってったんだろ」

「さぁ。忘れ物でもしたんじゃねえの」

「……」

「……」

 そして、再び沈黙。

 萩は地面を見つめながら歩き、横目でチラリと裕の顔を窺った。裕は川を眺めながら歩いている。

「ねえ」

「んー?」

「学校楽しかった?」

「……まあな。誰かと弁当食べたの久しぶりだったし。あれはちょっとふざけてたけど」

「あぁ……お弁当可愛かったね」

「あれは幼稚園児の弁当だ」

「でも可愛かったよ」

「子供は喜ぶかもな。で、そういうお前は? 確か学校初めてなんだろ」

「うーん……」

 そう言ったきり黙り込んだ萩の顔を、不思議そうに裕が覗き込む。意を決して、萩は唐突に顔を上げた。

「ねえ、僕ってどこか変かな?」

「変? ……そんなこと訊くお前が変だ」

「そうじゃなくて、見た目とか……もしかして人間に化けきれてなかったりしない?」

「はぁー? どうしたのお前」

「……なんか、皆に見られてるような気がする……」

 萩が俯いてそう言うと、裕はきょとんとして萩を見つめ、それからいきなり笑い出した。

「あっははは、お前それ気にしてんのか!」

「な、何で笑うんだよ」

「いや、はは……そっかお前学校初めてだもんな、気になるわな……あははは」

「笑うなっ」

 ひとしきり笑った後、裕は萩の背中をバシバシ叩いた。

「心配すんな、お前は見た目普通に人間だよ」

「本当?」

「見てる奴らの会話聞こえなかったのか?」

「周りがうるさくて」

「お前自覚ないだろうけどな。ていうか俺は全く、そうは思わないけどな。多分、お前はごく一部……特に上級生の女子には気に入られそうな顔してんだよ、多分」

 やたら「全く」と「多分」と「ごく一部」を強調して裕が言う。認めたくはないらしい。

「……そうなの?」

「そう。で、あれが鈴代の伝統なんだって。だから相手にしない方がいい。来週、部活動体験の期間になったら勧誘が凄いぞ」

「……さっき出てくる時、部活決めたかって訊かれて、決めてないって答えちゃったけど」

「アウトだな。一週間頑張れ」

「そっちはどうしてんの?」

「俺は全部シカトしてるから多分あんまり来ない。素直に受け答えしてた正樹はピンチらしいけど、彼奴は最初から野球部に決めてるんだって。ただ、女子の先輩に沢山勧誘されたくて黙ってるんだと」

「何だそれ……でもまぁ、それならいいんだけど」

 少し安心した萩を見て、裕はつまらなさそうな表情を浮かべる。

「……いいよなお前は。俺は金髪だから不良扱いだぞ」

「染めるとか……狐なら化けたり出来るだろ?」

「出来ないこともないけど、なんか癪だろ。負けた気がする」

「何だそれ、ただの意地じゃん」

「ま、そうとも言う」

 萩が吹き出し、裕も釣られてまた笑う。


「なんだ、あんた達それなりに仲良いんじゃない」

 不意に割り込んで来た声に前を向くと、麗奈が橋の前で立ち止まってこちらを向いていた。

「あ。麗奈」

「待っててくれたの?」

「ちょっとだけね」

 裕と萩が土手を上がり、三人並んで橋を渡り出す。

「そういや萩、あんた先輩にモテてるらしいじゃない」

 麗奈が切り出すと、萩は苦笑した。

「みたい……知らなかった」

「こいつ、自分がどっか変だから見られてるんじゃないかって勘違いしてたんだぞ」

 裕がくすくす笑いながら萩を指差す。

「うっそ、無自覚なのあんた!」

「……だって」

 口を尖らせる萩の背中をつついて、麗奈はニヤニヤしながら尋ねる。

「嬉しい?」

「全然。……人がいっぱいいる所は緊張するから嫌」

「何それ」

「だって僕今まで萩山村から出たことないし」

「あー……まぁあの過疎地帯に長くいればねぇ」

 老人ばかりの小さな村で何年も過ごしていたのなら、若い女の子にきゃあきゃあ言われた事も無い筈だ。

「まぁどうせただの野次馬みたいなもんだから、あんま気にすることないと思うよ」

「……うん」

「嫌ならシカトすればいいし。……ていうかあの先輩達の目的は部活に勧誘することだからね。勧誘期間が始まるから来週は気を付けて」

 そう言う麗奈の顔を上目使いに見て、萩は溜め息を吐く。

「麗奈面白がってる」

「もちろん。そうよねー、上級生のお姉サマ方から見れば萩はかっこいいというよりは可愛い系だしねー」

「それ初めて言われた……」

 困ったような笑みを浮かべる萩の背中を叩いて、麗奈は

「誉め言葉だからね」

 と付け足した。


 ◇


「……嘘吐き」

 悔しげに手を握り締めた彼女の背後に、突然黒い影が音もなく伸び上がった。

「……憎イか?」

「……!」

 振り返った目と鼻の先に、その影の巨大な瞳がぎょろりと見開かれている。

「だ……誰」

「奴が憎いカ?」

 再び影は問う。

 幾重にも重なった、聞き取りにくい声だ。

 墨をぶちまけたような黒。

 近すぎて全体が見えないが、“それ”がヒトの形をしていないのは確かだった。

 子供が粘土を適当に丸めて立て、目を埋め込んだような。

 口はただの割れ目のようにしか見えない。

 その巨大な、真っ赤な瞳を、彼女はぼんやりと見つめ返した。

「奴……?」

 なんだかふわふわしていて気持ちが良い。

 こいつは何だろうという疑問とか恐怖は、どこかに消え去ってしまっていた。

「やつが……?」

 やつってだれだろう。

「貴様ニは無い物を持っていル。奴は持ってイる」

 ああ、あいつか。

「……に、くい」

「憎イカ。でハ、契約をしよウ。貴様は奴を殺セ。それガ無理なラ、そのまま連れて来イ――そして我等に、捧げヨ」

「……はい」

 なんだか何もかもがどうでも良くなって、彼女は成り行きに身を任せた。

 影はニタリと口らしき部分を歪め――恐らく笑ったのだろう――[[rb:歪 > いびつ]]な腕を伸ばして、彼女の額に触れた。

「契約成立ダ。もし契約を破ったラ、貴様のその身を代わリニ貰って行クぞ」

 そう言い残して、影は消えた。


 彼女は暫くぼんやりとして、やがてはっと我に還った。

「……え?」

 今は何をしていたのだっけ。

 気が付けば家の前にいて、ここ数分の記憶が抜けている。友人と別れてからの記憶が無い。

「……寝惚けてたのかな」

 一人無理矢理納得して、彼女は自宅の玄関を開けた。

「……ただいま」

 そう言った彼女の額に、まるで墨で書かれたように奇妙な紋様が浮かびあがり、すぅっ、と消えた。

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