第31話 ドゥーンとノエルと卵の中身


 》


 滞留するように漂う濃霧の中、俺とノエルとレイチェルは慎重に広場の中央を目指して進んだ。


 周囲の視界は悪く、湿度は高い。肌に付着してくる水滴は体温を奪う冷たさで、いつの間にか額に張り付いていた前髪を、俺は指で弾くようにして払いのける。


 遠くから響いてくる遠雷のような音は、トワイやガトーが奏でる戦闘音だろう。

 時折、地面を揺らすような衝撃波が抜けていくのを感じるが、この場所が受ける被害は、霧を吹き飛ばせないほど軽微なものに過ぎなかった。


 進む中、レイチェルが宙でくるりと身を返しながら言う。


「翼に水が溜まるのう。あまり長くはいたくない場所じゃ」


 そう言いながらもゆるく翼を動かし飛んでいくレイチェルは、俺とノエルよりも少し先行して霧の向こうを注視している。


「気ィつけろ。何があるかわかんねぇぞ」


「は。平気じゃ平気じゃ、別に何かに足を取られるわけでも」


 低い音がこだました。

 レイチェルの頭が飛び出していた枝にぶつかった音だった。

 

 地面にぼとりと落ちたレイチェルの横を通り過ぎながら、俺は言う。


「気ィつけろノエル。何があるかわかんねェぞ」


「平気平気。別に何かに頭をぶつけるわけでもなし」


「あー喧嘩じゃな? 喧嘩じゃな貴様ら?」


 ──よゆう?──


 ──よゆうある?──


 ──いいからいそげ──


 そうは言われてもこの濃霧じゃなあ。

 目の前から魔獣が現れてガブリ、なんてまっぴらごめんだ。


「急げって言うならよォ、精霊さま。この霧なンとかしてくんねェか? 見えなくてかなわん」


 ──なんとか──


 ──なんとか──


 ──……なんとか?──


「吹き飛ばすとか」


 ──どぅーん?──


 ──のえる?──


 ──れいちぇる?──


「羽女で」


「わらわ以外なら誰でもよい」


「三択か? 本当にこれ三択か? もう一択ないか? なァ?」


 言い聞かせるより黙って進んだ方が早い気がしたので俺はそうした。


 やがて、俺たちは広場の中央であるらしき小高い丘の上へとたどり着く。


「……一応は『空白地帯』の、この辺りが中央か。何か……」


 なかば手探りのような要領で、俺はあたりに何かないか探っていく。


 と、その時、俺の足先が何かにぶつかった。


 それは、粉々に砕かれた巨大な卵の殻だった。


 》


 慎重にあたりの地面を見回すと、その卵の殻は、周囲数メートルほどの範囲に散乱しているのがわかった。


 加え、霧のおかげでわかりづらいがどうやらその辺りの草花は、まるでバケツをひっくり返したかのように濡れていることにも俺たちは気がつく。


 俺は膝を落とし、殻の破片のひとつ、三十センチ四方くらいの大きさのものを手に取ってみた。


「やけに分厚いが、まァ想像通りの『卵』って感じの『卵』だな。元の大きさは……直径で一メートルから二メートルくらい、か? どうだ精霊」


 ──まちがいない──


 ──まちがいない──


 ──まちがいない──


 ──たまご──


 ──まーけろんのたまご──


 ──でも──


 ノエルが言った。


「……中身は?」


「そりゃお主、あれよ。卵と一緒に粉々に」


 言い終える前にレイチェルの体が空間の歪みに飲まれて消えた。


 原初精霊が言う。


 ──こわれてない──


 ──こわれてない──


 ──いる──


 ──こども、どこかにいる──


 ──でも、どこに?──


「アンタにもわかんねェか」


 ──けはい、ある──


 ──たぶん、ある──


 ──でも、どこに?──


 ──さがす──


 ──さがして──


 ──さがせ──


「……まァ、引き受けたからには探すけどよォ」


 言って、俺は周囲、濃霧に包まれた森の広場を見渡した。


「……そもそもさ、ダイアーマーケロンの子供、ってどンなだ?」


「森の中で見たヤツの小さい版かな?」


「いやァ、『あれ』が『ああ』なるんだから、そうとも限ンねェだろ」


 森を徘徊していた毛むくじゃらの100メートルサイズは、「回帰」によって天を突くような巨体になった。

 それを考えるなら、サイズこそ元の卵を大きく上回ったりはしないだろうが、姿形はちょっと想像がしづらい。


「そこんとこ、どうなんだ精霊」


 ──わからない──


 わからない、とな。


 ──まじゅう、いろいろ──


 ──ほんとうに、いろいろ──


 ──いせかい、いろいろ──


 ──ひと、いる──


 ──まじゅう、いる──


 ──せいれい、いる──


 ──でも、うまれはいっしょ──


 ……ほう?


 興味深い話だな。

 俺は黙ることで精霊の話の続きを促す。


 ──たまご、うまれる──


 ──つがいによって、うまれる──


 ──うまれてくるもの、ははおやとおなじ──


 ──うまれてくるもの、ははおやとおなじではない──


「……どっち?」


 ──どっちも──


 精霊は言う。


 ──うまれてくるもの、ははおやとおなじこともある──


 ──うまれてくるもの、ちちおやとおなじこともある──


 ──うまれてくるもの、ははおやとおなじでないこともある──


 ──うまれてくるもの、ちちおやとおなじでないこともある──


 ──それきめるもの、かんきょう──


 ──みず──


 ──くうき──


 ──たいきょう──


「突然俗っぽい言葉が……」


 それはそうだが、結局は卵の「中身」がどのようなものか、ってのは、殻を破って出てくるまでわからないってことなんだろう。


 人も魔獣も精霊も、全ては同じスタートラインから始まり、それ以降の姿は周囲の環境によって決定づけられる。

 こちらの世界からすればなんとも異様な話だが、これが「異世界」とやらの常識なのだというのだから仕方がない。

 だが思うのは、


「でもよォ、だとしたら困らねェか? 自分の子供としてゲル状のスライムなんかがうまれてきたら、愛情もてるか自信ねェぞ俺」


 ──たいていは、ははおやとおなじ──


 ──たいていは、ちちおやとおなじ──


 でも、と精霊は言う。


 ──いま、とくしゅなじょうたい──


 ──もりのえいきょう──


 ──「わたしたち」のえいきょう──


 ──つよくうけてる──


「つまりは、どうなってるかわからない、ってことか」


 ──さいしょからそういってるだろ──


 だから当たりが。


 と、その時だった。


「いやあ、ひどい目にあったのう」


「うおっ」


 俺は唐突に、自分の肩に人の手が置かれたのを自覚した。

 背後側の霧中からいきなりレイチェルが現れ、こちらの肩を叩いてきたのだ。


 しかし、どうしたことかレイチェルの頭や肩には草や枝などのゴミが無数にまとわりついており、その様はまるで道なき獣道を探索してきたかのようだった。


「わらわとしたことがマジビビりしたぞ。何せ目ぇ開けたらいきなり空じゃったからな。唐突すぎて翼も動かせなかったがゆえ、そのままそこらの大樹に頭から突っ込んでしもうた」


 言いながらレイチェルは葉や枝を振るい落としていくが、それよりも俺は気になっているものがあった。


「おい、レイチェル」


「ぬ。スリーサイズか……? 今か……?」


 どうしてここらの連中は呼びかけるとスリーサイズを聞いていると思うんだマジで。

 いやそうではなく、


「お前ェ、いつ子供産んだんだ」


 そう言って俺が指さした先、レイチェルの背中には、七、八歳くらいと思しき人間の女の子がしがみついていた。


 》


 俺の指先を追い、レイチェルが視線を巡らせ、背後へと振り返った。

 しかし当然、レイチェルの背中にしがみついた子供は、その視界には入らない。


「何もおらんが」


「マジで言ってんのかテメェ」


 不思議そうな顔をしながらこちらを向いたレイチェルの動きに伴い、子供の視線もまた俺の方を向いた。


 それはどうにも希薄な存在感を放つ、不思議な雰囲気の子供だった。

 髪は緑で、その長さは立ったならば地面を擦ってしまうだろうというくらいの超ロング。

 レイチェルの体に隠されてよく見えないが、体にまとうのはシンプルな白のロングワンピースのようだった。

 まつ毛が長く、目鼻立ちはかなりスッキリとしている方ではあると思うのだが、正直に言うとよくわからない。

 なぜなら、さながら満腹のまま横になった犬猫の子供のように、その両目は半分しか開かれていないとても眠そうなものだったからだ。


 俺は言う。


「精霊、もしかしてあれが卵の……」


 ──わからない──


 お前そればっかじゃない?


「なんでわからねェんだ。さっきは気配感じるって言ってただろう。『そう』か『そうでない』かくらい……」


 ──わからない──


 ──わからない──


 ──わからない──


 ──なぜなら──


 なぜなら、


 ──そのこども、けはい、ない──


「……うん?」


 その言葉を俺の脳内が処理したとき、すでに子供は俺の視界から消え失せていた。


 》


 俺は生きることが得意だ。

 それはざっくり言うと危機察知能力、ということであり、これに関しては右に出るものなしと自負している。


 その俺が、その子供の動きをまったく感知できなかった。

 この対象がもしもそこらの魔獣であったなら、それこそ致命的な隙である。

 これは正直、不覚、なんてもので片付けられるレベルを超えている。


 遅まきながら危機感を覚えた俺は、少女の姿を探そうと視線を巡らせた。

 だが、俺がレイチェルの肩口から視線を外すよりもなお早いタイミングで、こちらの右手側から、鉄を叩くような衝撃音が響いてきたのだ。


 一瞬遅れて、俺はそちらの方向へと目をやる。

 そこにいたのは、


「ノエル……!?」


「あっぶねえ……!」


 そう言ってこちらへと背中を向けて立っていたのは、目の前に大剣を掲げた状態のノエルだった。

 そして、ノエルの体を挟んだ、そのさらに向こう側に見えていたのは、右拳を大剣「老骨白亜」の腹に叩き込んだ状態で固まっている、先程の少女の姿だったのだ。


 ノエルが言う。


「いきなり突風みたいなのが起こったからガード入ったらドンピシャだよ! しかもこれ……」


 ぎり、とノエルの食いしばられた歯が軋み、


「素の力でこれは人間技じゃないでしょ!」


 そう苦しそうにうめき声を作ったノエルの足が、ず、と土を削って後ろへとずれる。

 そこで初めて気がついたのは、少女の拳を受け止めたノエルの足元が、すでに深く陥没してしまっていたと言う事実だった。

 今その状態でさらに力づくで後退させられているのだから、ノエルの焦燥もひとしおだろう。


「アニキ! どうするこれ! 斬っちゃっていいの!?」


「どうだろうなァ」


 ──いいわけあるか──


「これわらわの背中にくっついてたの? 怖ぁ……」


 さらにはそのタイミングで、大魔獣との戦いが繰り広げられているであろう方向から今までで一番の大音が響いてきた。


 俺は言う。


「ちょっと今色々と同時に起こっててわかんねェなァ……時間くれる?」


「じ、時間あったらこれ丸く収まる!? どうかなあ!?」


 それは俺にもわからんが。


 と、その時、


「!」


 莫大な力で押し込まれていたノエルの大剣が唐突に、ふ、と前方へと倒れた。

 否。それは倒れたのではない。大剣を支えていた質量が突然に失われ、攻撃を避けられた際のように剣身が空をスカったのだ。


 無論それは、少女の体がノエルの大剣から離れたことによるものだった。


 それは同時に、少女の姿がまた俺たちの視界から掻き消えたことを意味しており、


「──」


 息を飲む音がした。


 それはノエルの口から漏れた音だった。


 見れば、大剣を引き戻して臨戦体制へと戻ろうとするノエルの、その懐、つまりは剣を持った腕と胸の間に、例の緑髪の少女がするりと潜り込んでいた。


 俺は、ノエルの体が一瞬ののちに拳によってしたたかに打ち付けれる様を幻視した。


 同じものは当然、息を飲んだノエルにも見えているだろう。


 少女が腕を伸ばした。


 少女がもう片方の腕も伸ばした。


 その両腕が、ノエルの胴体を拘束するようにホールドした。


 少女が言った。


「ママ……!」


 俺は言った。


「ヤったなノエル……!」


 ヤってねぇーーーー、と言う悲嘆な叫びが、霧の満ちる空にこだました。

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