ゴルゴダの龍

大塚

篠田

 定時より少し早めに出勤したら、事務所の扉の前に人間がしゃがみ込んでいた。嫌な予感がした。こういう登場の仕方をする者は、ろくな案件を持ち込まない。

「おはようございます。当事務所に何か御用ですか?」

 鍵を取り出しながら尋ねると、男はばね仕掛けの人形か何かのように勢い良く立ち上がり、

「あの、ここに、霊感がある弁護士さんがいるって聞いたんすけど……!!」

「……」

 ほらやっぱりだ、と市岡稟市いちおかりんいちはちいさくため息を吐いた。クリスマスイブの朝からこの展開、本当についてない。


 脱色を繰り返しすぎて白に近いブロンドヘアの青年は、自らを篠田しのだと名乗った。いったいいつから事務所の前にいたのだろう。すっかり冷え切った体を両手で摩りながら、篠田は来客用のソファに腰を下ろす。事務員のユキムラが持ってきたあたたかい緑茶をひと息に飲み干し、最中をふた口で食い終えた彼は、

「あんたっすか!?」

 と、尋ねた。お茶もういっぱい用意しましょうねえ、とユキムラが部屋を出て行く。市岡は大きく嘆息する。

「おそらく、あなたが探しているのは私でしょうね。市岡稟市と申します。弁護士です」

 差し出した名刺を両手で受け取った篠田は、い、ち、お、か、と目の前に並ぶ文字を丁寧に読み上げる。

「弁護士なんですが……一応……でも、何かそういうお話ではないんですよね?」

「あ、はい。弁護士はあの、もう、いるんで、国選弁護人が……」

「いる?」

 この篠田と名乗る男は何らかの犯罪に関わっているのか。その上裁判中の身でここを訪ねてきたというのか? 反射的に身構えた市岡に、ああ違うんです、と篠田は大きく声を上げる。

「裁判を受けてるのは俺じゃないです。俺の、その、アニキが……」

「アニキ? おにいさん?」

「ていうか……あの……俺……やくざで……」

 篠田が言い淀むタイミングを見計らっていた様子で、ユキムラが急須と山盛りの茶菓子が乗ったお盆を手に部屋に入ってきた。飲み物は自分でどうにかしろということだろう。市岡はふたり分の湯呑に茶を注ぎ、それから煙草に火を点ける。

「俺も吸っていいすか」

「どうぞ。……未成年じゃないよね?」

「22です」

「じゃあどうぞ」

 暫しの沈黙があった。煙を吸って吐くことで幾らか落ち着いたらしい篠田が、先ほどまでよりだいぶ穏やかな声を発した。

「市岡さん、龍って見たことありますか?」

「……龍?」

 穏やかさはともかくとして、藪から棒に何を言うのか。眉根を寄せた市岡はテーブルの上に置いていたスマートフォンを手に取り、検索サイトで『龍』の文字を打ち込む。各種情報サイトが出てくるが取り敢えずスルーし、画像検索に切り替える。小さな画面の上に並ぶ『龍』の意匠を篠田に差し出し、

「こういうの?」

「俺も見たことないんすけど……市岡さんもないんすね」

「ないですね。そもそも現実に存在するかも分からないでしょ、龍なんて」

「いや、いるんす」

 ようやく体が温まってきたらしい篠田が、吸っていた煙草を灰皿に押し込み、強い口調で言った。市岡は黙って左の眉を跳ね上げる。

「いる?」

「います。……そうじゃなきゃおかしいんす」

「良く分かりませんね。できれば詳しく説明していただきたいんですが」

「俺……自分……やくざなんですけど」

 湯呑で両手の指を温めてながら、篠田は語り始めた。

「龍神会っていうんですけど」

「そのまんまだね」

「俺も知らなかったんす。俺、18の時に高校辞めてスカウトされてそのままやくざになりました。それでその……色々悪いことして」

「うんまあそれはいいよ。それを裁くのは今の俺の仕事じゃあないからね。続けてください」

 新しい煙草に火を点けながら促すと、篠田もつられたように煙草を咥える。あどけなさと太々しさが同居する面構えを、市岡はぼんやりと眺める。

「うちの組、毎年正月に会合をやるんです。1月1日に。組の人間全部が集まるんで、結構な人数になります」

「新年会ってこと?」

「いや……その、龍に、挨拶をする日なんです、元旦は」

 こうやって、と煙草を持っていない方の篠田の左手が大きく半円を描く。

「真ん中に祭壇があって、偉い人から順に座って、みんな手元にお猪口持って、手酌で酒注いで」

 組長の音頭で『龍』に挨拶をするのだという。旧年中の守りに感謝を、新年もどうぞよろしく頼むという旨の長々とした文章を、組長、或いはそれに近しい人間が読み上げる。

「去年と今年は若頭の藤野とうのさんが読んだす。組長、ちょっと体調悪くしてて……」

「まあ、なんというか、ある話なんじゃないですか? 龍っていうのがちょっと珍しいけど、ご先祖に挨拶するって意味では」

「違うんす! おかしいのはこの先で」

 挨拶を終えて暫くすると、その場にいる数百人の人間のうちのひとりのお猪口に血が滴るのだという。たった今裂けた傷口から溢れた色の血が。

「龍が……選ぶ、らしんです。組員をひとり選んで、そいつがその年の龍のお守り係になる」

「なると、どうなるんです?」

「龍はお守り係の前にだけは姿を見せるらしいんです。そんで、色々教えてくれる、悪いことが起きる時とか……」

 篠田の言葉は途切れ途切れで、市岡にはいまいち理解ができない。ただ、篠田本人は『お守り係』に選ばれたことがないのだろう。他人から伝え聞いた話を更に他者に語るには、厄介が過ぎる内容だ。

「悪いこと、具体的には」

「あ……誰にも言わないでくれますか?」

「守秘義務がありますから」

「……カチコミ。俺が組に入ってから10回ぐらい先回りしました。あとケーサツ。拳銃も、クスリも、いっこも挙げられたことないです」

「それがほんとだとしたら、結構な話だね。そんなことして龍の側は何か得をしてるのかな?」

「……」

 篠田が、目に見えて迷った。市岡は紫煙を吐き出して指先でテーブルを叩く。

「言ってください」

「……食べられ、ちゃいます」

「あ?」

 篠田の顔色はひどく悪かった。もう寒くはないだろうに血の気が引きすぎて真っ白になっている。その真っ白な顔の中で、目だけがギラギラと血走っていた。

「俺が組に入った時にはもうアニキがお守り係だったから、実際には見たことないです。でもアニキに決まるまでは、毎年お守り係が変わって、毎年年末になったら食われてたって聞きました。死んじゃうんです。体がバラバラになって、血を吐いて、ぐちゃぐちゃに……」

「待って、落ち着いて」

 篠田の湯呑にお茶を注いでやりながら市岡は言った。話を整理したい。

「ここ何年かはずっと篠田さんのアニキがお守り係なんですね?」

「はい……」

「で、死んでない? 生き延びてる?」

「はい、そうです……」

「ちなみにアニキさんはお幾つなんですか? お守り係を何年?」

「53歳です……歴は、20年、ぐらいかな……」

「53歳……」

 話に突拍子がなさすぎる。それに20年間死者が出ていないなら、もういいんじゃないかと思ってしまった。不覚にも。

「それで篠田さんは、私に何をしてほしいんですか」

「裁判に来てほしいんです。それで、龍が、ほんとにいるのか見てほしい」

「見て、いるとして、その後は何がどうなるんです?」

「……上の方は、もうアニキにお守り係をさせたくないんす」

「? なんで?」

 純粋な疑問だった。くちびるを噛んだ篠田は、

「アニキ、もう何年も組長と折り合いが悪いらしくて。龍の預言も伝えたり伝えなかったり、全部アニキの気分ひとつで決まっちゃうから、だから、組長と藤野さんが相談して、兄貴をムショに入れて龍の係はほかの人間にって……」

「はあ……」

 要するにやくざの内輪揉めという訳だ。仮に存在するとして、龍もいい迷惑だろう。

「龍に、篠田さんのアニキさんから外れるよう言えばいいんですか、俺が」

「言ってもらえたら嬉しいけど、……いると思います? 正直」

 問いに、市岡は肩を竦めて応じた。

「さあ。どうなんでしょうね。でもまあちょっと興味があるから傍聴には伺いますよ」

「引き受けてもらえるんですか!?」

「篠田さんは、龍のこと信じてるんですか?」

 手元のお茶をゆっくりと飲み干した篠田は、ゆるゆると首を横に振った。

「俺そうゆうオカルトみたいの、信じてないんすよね」

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