第54話 シャイニングを待ちわびて⑨「クイント」

△△△


 静かだった。

 到着した四人が息をのむほど、港の様子は凄惨を極めていた。倒壊した建物。船の残骸。首なし地蔵のように列んだ死体。サメたちが陸に上がって来てはらわたを貪っている。

 血溜まりのひとつに、黒っぽいかたまりが倒れている。ジミーだった。青白い顔はまばたきさえしない。

 静かになっていた。


 月の下に、ただひとつだけ影が立っている。


 岸壁へ向かって地面に深い亀裂が走っていた。海にまでつながっているらしく、亀裂からは波の満ち引きに合わせて、海水が噴き出していた。

 影は、その亀裂の上に立っていた。

 たくましい影だった。


「んん~?」


 影が振り返った。

 いや、大柄な影に隠れていたもう一つの影が姿を現したのだ。大柄な影は、もう一つの影の動きに合わせてぶらりと揺れた。

 枯れ木のような痩せたシルエット。老人の声だった。白髪が潮風に揺れている。

 その細い影が巨漢をぶら下げているのだ。

 老人が手を離すと巨漢は抵抗もなく崩れ落ちた。シャイニングである。

 そしてただ一人立っているのが、学会員、フカ雅。着流しの胸が大きく裂けていた。しかし肉体に傷はないようだった。

 パクリと開いた口が影よりも暗い。


「最後にとんでもない足蹴りを放ちおったわ。マッチョよのう


 三人の男たちは同時に飛び出した。

 遅れてスターライトが銃を構えたが、彼女が引き金を引き、ゴム弾が海へ消えるまでのあいだに、勝負は終わった。


 オウルが立て続けの銃撃をしかける。

 フカ雅の姿が消える。血だまりに足音がはねてオウルに迫る。

 先を読んでいたマイクルが、サメをフルスイングする。

 フカ雅がサメを受け止める。

 サメでできた死角には、すでにトミカが潜り込んでいる。

 サメに拳を当てる。SHARK神流の発勁はっけい。衝撃がサメを透過してフカ雅だけへ走る。

 フカ雅の体が振動する。みずから体を震わせたのである。発剄返はっけいがえし。周波数を合わせ、増幅したうえでけいを跳ね返した。

 肉体が吹き飛ばされるより先に、トミカの意識は頭からはじき出されていた。サメは全くの無傷である。

 サメを残してフカ雅の神速の踏み込み。マイクルの体が宙を舞った。一瞬のうちに叩き込まれた連打の衝撃が、彼を上空へ運んでいく。

 マイクルの悲鳴が届くより速く、フカ雅の姿はオウルの前にあった。死の予感。脳がフル回転し、オウルにはすべてスローモーションで見えた。

 船虫がゆっくり破裂する。

 フカ雅の掌底が心臓めがけて迫ってくる。拳力が空気の層を歪ませているのまではっきり見えた。自分の体はもどかしいほど動かない。

 左手の銃で防御。銃身がたわむ。部品が飛んで分解されていく。拳は止まらない。

 首から提げたペンダントが破壊されるのは嫌だな、と彼はそんなことを思った。

 拳の圧力だけでチェーンはほどけるように壊れていく。ペンダントが宙を泳いで離れていく。

 すべては、ペンダントの行く先を見届けようとしたための、偶然だった。

 フカ雅の足下にボンベが転がっていた。ホースが切断されている。

 先の戦闘で使われた火炎放射器のボンベである。

 可燃液が残っているかは、オウルには分からない。だが彼はそれに賭けた。

 右手の銃の引き金を引いた。弾丸が回転しながら飛ぶ。ボンベに穴が空き、内側から破裂する。


「――地獄でサメ共にも言っとけ。私の部下を傷つけるとこうなる」


 可燃性の液体が燃えながら吹き出しフカ雅を包んだ。

 スターライトの放った弾丸が海面に着弾して、小さな音を立てた。


 凄まじい声が上がった。


 フカ雅は火だるまになりながらも港じゅうを飛びまわった。だがその程度で消える火勢ではない。まるで小さな太陽のように眩しい。


「やった……のですか」


 受け身を取ったのだろう。マイクルがよろめきながら立ち上がった。彼が引き起こすとトミカもどうにか目を覚ました。とっさには何が起こったのか分からない様子だった。


「偶然だが何とかな――海へは逃がさん」


 オウルは落ちていたワイヤーを投げて、フカ雅の足に巻き付けた。さらに船用のクレーンを利用して彼を宙吊りにする。

 吊されたままフカ雅は激しく体を振っている。


「……まあ、残酷だが他に方法はなかった」


 オウルは拳銃をビキニへしまった。そしてペンダントを拾うため身をかがめ、密かにペンダントへ口づけした。

 自分の影が急にぐるりと回り、それから暗くなった。顔を上げたところで彼は愕然とする。

 フカ雅を包んでいた炎が、まるで花火のように炸裂して消えてしまったのだ。

 学会員が手刀でワイヤーを断ち切り地面へ降り立つ。


「何だと……」

「あり得ない」


 オウルたちには理解できないことだが、フカ雅がやったことはシンプルだった。

 彼はただただ体を振っただけである。

 筋肉の隆起と弛緩を高速で行い、体表を波打たせる。

 例えば犬が毛皮をブルブル振るような動作を、一〇〇倍も素早く、筋肉だけでおこなったと言えばいいだろうか。

 それにより発生させた強力な遠心力で燃える可燃液すべてを吹き飛ばしたのだった。決して真似をしてはいけない。

 頭髪が焼けてちぢれているほかは、まったくの無傷だった。キモノも原形をとどめている。


「ぼはっ」


 フカ雅は口から黒煙を吐き出した。そして一同の周りをゆっくり歩いて巡った。

 全員、指先ひとつ動かせなかった。呼吸さえ止めた。

 もはや打つ手がみつからなかったのだ。動いた者から殺される。

 だが、フカ雅は一同の顔を順番に見渡したあとは、立ち止まって、着物の前を開き、フンドシを緩めると、唐突な放尿を始めた。驚くほど長い、大量の放尿だった。もうもうと湯気が立ちのぼる。

 やがてそれが終わると、老人はしばらく風に吹かれた。そして、これも唐突に、


ぬるわ」


 岸壁から飛びおりると、サメの背に乗って沖へと遠ざかって行った。オウルがようやく口をきけたのは、その姿が見えなくなってからだった。


「逃げた――いや、見逃してもらえたのか?」


 全員が崩れ落ちて、止めていた呼吸を再開した。


「何だったんだ……」

「あれが伝説のフカ雅翁おうか……」


 マイクルとスターライトも脂汗を流している。

 トミカが這いずってシャイニングのところへ駆けつけようとした。


「師匠……師匠」


 うめき声がした。シャイニングではなかった。ジミーの方だった。トミカが彼の方へ這い進んだのは、ジミーがシャイニングの名前を口走ったからだ。彼はジミーを仰向けにさせた。血は、冷え始めていた。


「シャイニング……シャイニングは生きているか?」

「……言いたいことが……あるのかよ?」

「……誰だ」


 もはや目も見えていないようだった。


「誰でもいい。礼はする。シャイニングを――」

「師匠を……?」

「――殺せ。さもなくばヤツの手で私を、殺させろ」

「……なんだよ、それ」

「手を汚さないまま死ぬことは許さん。ヤツは私だ。アイツは私と同じクズとして死ぬべきなのだ。は。例え九度生まれ変わろうと……私は同じ人生を歩むぞ……シャイニング……!」

「やめろ」


 マイクルが叫んだ。トミカが拳を振り上げるのを見たからである。

 トミカは涙を流していた。


「情けねえ。他に何もないのかよ……マックスへ対してでもいい……人間らしい言葉はないのかよ……」

「やめろ、市長は混乱しているんだ」

「こいつは俺が殺してやらなきゃ駄目なんだ!」


 打ち下ろした拳を、大きな手が止めた。

 立っていたのはシャイニングだった。彼は優しく首を横に振った。


「師匠! し――」


 シャイニングの腹から、ゼリー状の血ともつかない何かがこぼれた。

 彼は残った腕でジミーを抱え上げると、岸壁へ向かって歩き始めた。


「師匠……? シャイニング師匠……」


 皆の見ている前で、シャイニングは最後に振り返った。弟子へ向かって、トンと自分の心臓を叩くような仕草をして見せると、彼は満足げに笑った。

 そしてジミーもろとも暗い海へ落ちていった。

 

「――シャイニング師匠!」


 しばらくサメの騒ぐ音がしたが、やがて静かになった。


△△△


 遅れてハンサムと一緒に、アリシアの運転する車が到着した。やはり気になってついてきていたのである。クイントとマツリが下りてきた。彼女は即座に雰囲気を察したようだった。


「お父さん?」


 スターライトが何か言おうとするのを止めて、トミカが彼女に話した。だが、彼から何度説明されても、彼女は事実を呑みこめない様子だった。

 痛ましいやりとりの横で、オウルが声を張り上げた。彼はハンサムがやって来たのを見て、事情を理解したのだ。


「聞いてくれ。薄情なようだが、すぐにここを離れなくてはならない。フカ雅がくる。市長の暗殺は企業共の依頼だろうが、そもそも学会員を呼び寄せたのはシャクティ博士のはず。今回はしのげたが、サメ人間を手に入れるまでヤツは何度でも襲ってくるだろう。作戦を立てる必要がある」


 みな、なんと返事をしていいか分からなかった。

 ただ、マツリだけがずっと同じ言葉をクイントへ向かって繰り返していた。クイント。もはや彼女に残された最後の家族。


「クイント……お父さんを探して……お願い……お願いだから……クイント」

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