第171話雪中の逃亡
あり得ない状況になった。
優の今いる座敷のすぐ横の座敷には、優の前世の春陽がいる。
そして優は、正座して春頼を待った。春頼を……優の前世の弟を信じて待った。
そして…
そのすぐ横の座敷、春陽の眠っている座敷には、縁の下から出てきた定吉がいた。定吉は、異能の力で気配を消し、布団の中で目を閉じている春陽の側に来て、灯りのない中でも視力が効きくので立ったまま春陽の顔をじっと見詰めていた。
「こんなに……やつれちまって…」
定吉は、忍んで潜入しているのに、春陽の様子に思わず小さな声で呟いてしまっていた。
実は定吉は、優の潜伏先だけでなく春陽の座敷の屋根裏や縁の下にも以前から頻繁に潜り込み、春陽の様子も常に伺っていた。
そして…
春陽が、頭に双角口に双牙を生やした淫魔だととうの昔に知っていた。
(俺は、どうかしちまってる…)
今こうしている定吉は、春陽の事を気にしつつ、横の座敷にいる春陽そっくりの優の事も気にしている事に心の中で自嘲した。定吉のその心の中では、春陽と春陽に似た男にこれ以上踏み込むのは危険だという警鐘は常に、今も鳴っているのに。
そして以前の定吉なら、金目当てにあっさり淫魔の首を刀ではねて、京の貴族かどこかの国の大名に高く売り飛ばしてその金で遊び回っただろうに、今は淫魔の春陽を前にしても、そんな気一つすら湧かないのだ。
そうしている内に、定吉が見詰める春陽の顔に、誰かの顔が重なり出す。しかし、それは、以前の御仏の尊顔ではなかった。
それは…
定吉の実の母だった。
やがて定吉は、イヤでも過去を思い出す。
あれは、定吉がまだ7歳の頃だった。
定吉は、忍びの這蛇(はいだ)一族の掟や生活に苦しんだ母と共に小雪の舞う真夜中、二人とも薄い小袖姿で僅かな所持品を持ち這蛇の里を逃亡した。
時折吹き付ける強い北風が、人の悲鳴のような音を立てる。
(俺とかか様はあんな所に産まれたけど、あんな所じゃ無い、きっとどこかに幸せに暮らせる場所がある!かか様と一緒にそこに行く!)
定吉は必死だった。母の手を引いて、まだ雪は積ってはいなかったし這蛇一族は夜目が効くとはいえ危険な夜山を夢中で走った。
しかし、いくら忍びとは言え、子供と虚弱な母親。
幼い定吉と母の妙(たえ)は、すぐに頭巾から装束までクレ染めの同族の多数の忍び者達に周りを囲まれ、捕まり逃亡は失敗した。
そして…
定吉の母は、その場に遅れて現れた、小袖に袴の這蛇一族の頭領であり夫であり定吉の父に、弁解の一言も聞いてもらえぬまま、即その場で刀で斬り付けられ即死した。
父の刃は、一刀虚無。
一切りで相手を確実に絶命させる。
「アアアアアアアアっー!」
地面にうつ伏せで体を他の忍び二人に押さえられていた定吉は、子供とは思えない声で絶叫し足をバタつかせ暴れた。そして次に、定吉の近くに歩ききた、自分の父でもある頭領を泣きながら睨み上げ叫んだ。
「あんたは……人じゃ無い!嫌がる自分の嫁に、かか様に他のくそじじいの所に行けと言っただけじゃなく……かか様を……かか様を…こっ、殺すなんて!…」
父が右手に下ろし持つ刀から、母の鮮血が地面に一滴滴る。
だが更に父は、妻を斬り殺しても顔色一つ変えず、そんな息子に言った。
「我が妻を一国一城の主に側室にと所望され献上奉る(たてまつる)などとは又と無い我が誉れと一族の利益よ。そして……足抜けは忍びのご法度。命をもって我が一族に詫びるがこれ必定。それが例え頭領の妻であろうとな。それに…我等這蛇一族は、人であって人にあらずよ…」
定吉は唇を噛み締め、更に父を睨んだ。そしてまだ子供なのに、次は自分の番だと覚悟した。
だが、しかし…
父は持っていた刃を下で一振して付着していた血を払うとそれを腰の鞘に戻し、息子にさも何でもない事のように言い放った。
「勝吾……貴様の命だけは助けてやる。儂には、今の所貴様しか跡取りがおらんからな…今より心を入れ替えよ。さもなくば、今、侍女の松が儂の子を孕んでいるが、お前の他にこの父に息子が出来れば貴様などすぐ用無しになるからな」
頭領は、それだけ言って息子に背を向け、多数の配下を従え静かにサッと一瞬で雪の夜闇に消えた。
「アアアアアアアっー!かか様ぁー!かか様ー!離せ!離せ!かか様ぁぁぁー!」
泣き叫び暴れる顔を土だらけにした定吉は、忍びの一人に肩から担がれ、無理矢理這蛇の里に連れ戻された。
そして母の死体は、這蛇の里とは逆の方向に、別の忍びの者が担いで消えた。
子供の頃の回想を終えた定吉だったが、まだ目の前の春陽の寝顔に母の顔が重なり見える。
定吉は、大人になった今も母の亡き骸がどこに行ったのかすら……知らない。
そして定吉は、自分が以前から感じていて、深く考えないようにしていた事をもう認める事にした。春陽と春陽そっくりの男を見ると、定吉の心の奥がひどくザワザワザワザワとざわつく理由を。それは、春陽と春陽そっくりの男の美しく儚い雰囲気が、どことなくだが母の妙に似てるのだ。
定吉は子供の頃に涙は枯れ果てて、そして、過去は、過去は……全て忘れたはずなのに…
(かか様に似てるから放っておけねえんだ。それしか理由は思いあたらん。それしか……それしか…)
定吉は、心の中で納得しようとしたが…
(でも……本当にそれだけか?俺が、春陽や春陽そっくりの男を放っておけない理由は…)
定吉は、無意識に自問自答していた。
(馬鹿な…かか様と似てる以外に他に何の理由がある?)
定吉は、その場で春陽の顔を見詰めたまま体が固まった。
だが…
聴力を増幅していた定吉は、遠くから春頼がこちらに向かい帰ってくる足音を聞いた。
春頼が戻る前に、ここから出なけばならない。
「春陽……もう少しの辛抱だ、必ず、お前を楽にしてやるから…」
定吉は深く自分の心を詮索するのを止めた。そして、謎の言葉を静かに眠る春陽に向けて小声で呟くと、再び座敷を出て縁の下、優のいる座敷の畳の下に戻った。
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