その名は、リリス
いぬがみクロ
前編
遥か昔の話かもしれないし、ずっと未来の話かもしれない。
あなたの近所での話かもしれないし、どこか遠い場所での話かもしれない。
――地中深くくり抜かれた穴の中に、その少年はいた。
伸ばしっぱなしの黒髪に、服と呼べるのか……体にボロ布を巻きつけただけのような格好の少年だった。
なによりも目を引くのは、頭部に生えた左右二つの大きな角。そして、臀部から垂れ下がった太い尾だ。
背はまだ低く、痩せている。目つきは悪いが、鋭く光る彼の瞳には、紛れもない知性が宿っていた。
顔の作りは整っていて、品もある。地面を掘っただけという劣悪な環境に、こうしてたった一人で暮らしているなんて、この少年には不似合いだった。
少年の前には、とろ火にかけられた大鍋がある。
鍋の中の不気味な色の液体を、折れかけた柄杓で混ぜ、奇妙な呪文をつぶやきながら、練る。それが、少年の毎日だった。
大鍋で煮られているドロドロの液体は、「呪い」である。暗く、重く、強いそれが完成した暁には、世界という器に盛られた生きものたち全てに、大いなる苦しみと惨めな死が、降り注ぐはずだった。
革新的な、最大にして最凶の呪法。善悪は別として、このような技を作り上げた術師は、さぞ鼻を高くしているだろうと、人は思うはずだ。――が。
開発者たる少年の、その心中に巣食うのは、虚しさだけである。
滅びの呪い。しかし少年は、それを行使する相手のことを、あまりよく知らないのだ。
――ニンゲン。父と母、そして一族全てを嬲り殺した、下等種ども……。
どれくらい前の話だったろうか。まだずっと幼かった少年を、やっとのことでこの穴ぐらに避難させた直後、彼の両親は息絶えた。
『人間たちに報いを』
それが両親の遺言だった。今、彼らは、少年の寝起きするこの穴の隅で骨となり、我が子を見守っている。
――だから、だから、滅びてしまえ。
そうだ。少年自身に記憶はなくとも、彼を現在の境遇に追い込んだのは、「ニンゲン」である。それは事実だ。
快適とは真逆の、日の差さぬ、じめじめした穴の中で、なんの喜びも楽しみも見出だせない生活を送り――。
そのような状況に自分を堕とした「ニンゲン」は、万死に値する、と。少年は何度目かの決意を固めるのだった。
さて、少年の恨み骨髄に徹する「ニンゲン」とは、もちろんあなたがたのよく知る「人間」である。
――二足歩行の、霊長類の、貧弱な肉体の、それでいて小賢しく、「万物の長」気取りの。
対して少年は、人間よりも高位の存在である。なにしろ神が手ずから作りたもうた、少年たちこそが地上の王だったのだ。
しかし今や少年はその地位を奪われ、哀れな隠遁者に成り果てている。
――でも、だーれもいなくなった世界で、俺はなにをするんだろう? なにをしたらいいんだろう?
少年の年齢は――見た目は十歳。実際は二十かもしれないし、意外と三十かもしれないし、もしかしたら百歳を越えているのかもしれない。
少年は非常に長生きで、心のありようがそのまま外見に表れる種族だった。その特徴から、見た目と年齢は、必ずしも一致しない。
そしてこの少年は、今の巣に引きこもってから、時を数えるのをやめてしまった。だから自分がいくつで、もうどれくらいひとりきりでいるのか、彼自身、分からないのだ。
――俺も死ぬか。みんな殺して、なにもかも壊して、そんで俺も死ぬ。塵一片も残さない。
無に還る……。少年にとって、その考えは魅力的に思えた。
――そうだ、そうしよう。もう疲れた……。
視界がぼやけて、見えていたものが霞む。少年の体から、徐々に力が抜けていった。
――親や一族に背負わされた悲願など忘れてしまって、このまま空気に溶けてしまえたら楽だろうに。
怠惰とも悲痛ともとれる想いに浸った少年の耳に、その声は唐突に届いた。
「あらあ、本当にいらっしゃったのねえ!」
人間。唐突に登場したその女は、少年が久しぶりに見る、人間だった。
地上と少年の住処、そしてその他の生きものが巣にしている複数の穴は、螺旋状に掘られた空洞で繋がっている。その地上からの道を通って、女はやって来たのだろう。
「……?」
女は、少年より背が高い。しかも、若かった。
少年の目は、女の肉感的な外見に吸い寄せられた。
女は急所を覆うだけの簡素な鎧を着けており、凹凸に富んだ体型をより目立たせていた。太っているわけではない。平たく言えば、むちむちぷりん。地下の穴ぐらという不健康な場にそぐわぬ、けしからん体つきであった。
「まったく、ここに来るまで大変だったんですよお。覚悟はして来たけどお。ヘビとか毒虫とか、まあ、その手の危険生物はいいんですう。でも、オークとかゴブリンとか、ドラゴンとかキマイラとか……。この地下迷宮は、モンスターの宝石箱でしたわぁ。一大戦記が書けそお」
間延びした口調で、矢継ぎ早に文句を垂れ流しながら、女は自身の体を叩き、埃や泥を落とした。そのたびに、少年にとっては懐かしい、「外」の匂いが漂ってくる。
見れば女の体のあちこちには、擦り傷やアザができていた。彼女がモンスターと戦ってここまで来たのは、本当のようだ。
「……………」
少年は、虚をつかれていた。
彼の住まいを人間が訪れるのは、実は初めてではない。だがそのような者たちは、皆、襲来直後から挨拶もなく、敵対心を剥き出しに襲いかかってきたのだ。
少なくとも、こんな風にのんびりと話しかけてきたことなどない。この度のような、妙に親しみやすい人間との邂逅は、少年にとって初めての経験かもしれなかった。
そして――久しぶりに聞いた、「言葉」。ぽってりとした女の唇が紡ぎ出すそれは、少年たちの祖先が作り出し、のちに人間たちに伝わったコミュニケーションツールだ。
鼓膜を震わせるその響きは、この穴へ逃げてくる前の、良き時代を思い出させる。少年は絆されかけたが――。
――いや、ダメだ。油断するな。人間は敵だ……!
少年は気を引き締めて、女を注視した。
しかし女は、予想外の反応を返してくる。
「うふっ、そんなに見詰めて……。恥ずかしいです……」
「なっ……!?」
「あっ、ごめんなさい。いいんですよお。お好きなだけ、ご覧になってください。私のこと、お気に召していただければ、とっても嬉しいんですが」
若く美しい女は語尾をわずかに上げて、そんなことを言う。女の媚態に、少年はますます混乱し、心をかき乱された。
――冷静にならなければ……!
改めて考えてみれば――。
少年の住処は、全体では蟻の巣のような構造になっており、地上からの道中、繋がったほかの穴を通ってこなければ、少年のもとへは辿り着けないはずだ。
別の穴に住む、いわば少年のご近所さんは、凶暴凶悪な魔獣揃いである。
つまり少年が身を潜めているのは、女が先ほど言ったとおり、危険がいっぱいの、ちょっとした地下迷宮なのだ。
――それをここまで踏破したこの女は、相当の手練ということになる……。
とてもそうは見えないが。
冒険者や戦士というよりは、金持ちの男の横で愛想を振り撒いているほうが似合いの、そんな女を、少年は不躾にジロジロ眺めた。
「それにしても……思ったより可愛い方でしたのね」
「馬鹿にしているのか……!?」
「いいええ。思ったことを口に出してしまうのが、私の悪い癖でして。ごめんなさいねえ」
今度は少年が、女の熟視に耐える番である。
女の視線はねっとりと絡みつくように、少年の身を苛んだ。
ただ見られているだけなのに、少年はなんだか全身を撫でられているような錯覚に陥った。勝手に顔が、熱く赤くなる。
「うふっ、これならたっぷり楽しめそう。嬉しいです」
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