番外編 輝きが溢れるのは《ウェンディ》

 憧れだった。

 お日様のような輝かしいその姿。穏和な瞳も朗らかな笑みも。


 遠くから見ているだけで満たされる、その気持ちは間違いなく──憧れ。

 それが恋に変わった瞬間、世界が光に溢れたのを覚えている。



 自分の隣でカウンター業務をしていた同僚であり親友のアリシアが、子爵令息に連れ出されたのは少し前の事。彼女の元婚約者であるあの子爵令息は、アリシアを手酷く裏切って社交界で爪弾きにされている。そんな男がアリシアに話だなんて、ろくでもない事に決まっている。

 ウェンディはそんな事を考えながら、上司に頼まれた書類作業をカウンターの中で行っていた。


 アリシアの事も気になるけれど、自分もこのカウンターを離れるわけにはいかない。

 そんなやきもきとした気持ちで溜息をついた時だった。カウンターが翳り、笑い声が聞こえる。

 書類から顔を上げたウェンディは、そこで笑っている人物を見て、驚きに息を飲むしかなかった。


「悩みごと? すごい顔をしていたけれど」

「……ラジーネ団長。すみません、お見苦しいものを……」


 可笑しそうに笑う度に、肩にかかる艶やかな金髪が揺れている。口元に拳をあてて笑うその様子にウェンディを嘲る色はなく、ただただ楽しそうなだけ。

 騎士団を纏める長の地位にあるシリウス・ラジーネ。剣の才、統率力に秀で、史上最年少で団長に就任した傑物である。


「何かあった? 私で助けになれる事があるかい?」

「あ、あの……ラジーネ団長にお願いするのも申し訳ないのですが。ブルームがトストマン子爵令息に呼び出されて、裏の広場へ行っていまして。その……」

「分かった。様子を見てこよう」


 ウェンディが全てを言うまでもなく、ラジーネはにこやかに了承した。預かっていてと、持っていた本をカウンターに載せると、足早に図書館を後にした。

 その頼もしい背を、ウェンディは見送る事しか出来なかった。



 ラジーネが戻ってきたのは、それから程無くしての事だった。騎士団長を務めるほどの手練れであるラジーネに何かあるとは思えないが、無事な様子にウェンディは胸を撫で下ろした。


「お待たせ」

「すみません、ラジーネ団長を使うような事をしてしまって」

「いや、構わないよ。王宮敷地内の警備も仕事のひとつだからね。ブルーム嬢ももう戻ってくるんじゃないかな」

「ありがとうございます。アリシアは大丈夫でしょうか」

「大丈夫だと思う。それにしても気丈な子だな。元婚約者と相対あいたいするなんて嫌だったろうに、全く気後れする様子もないんだから」

「ふふ、アリシアはそういう真っ直ぐなところがあるんです。素敵でしょう」


 親友を褒められて気分が良くなったウェンディは、嬉しそうに笑みを零した。待っている間に貸し出し処理を済ませていた本をまとめてカウンターの上に載せると、ラジーネは呆けたように目を丸くしている。

 その珍しい様子に、どうかしたかとウェンディが首を傾げて、ようやくといつものような穏和な笑みが戻る。何かおかしなところがあっただろうかとウェンディは気になりはしたものの、それに踏み込むつもりもない。


 ラジーネはまとめられた本を抱えると、薄茶の瞳を細めてウェンディを見つめた。その真っ直ぐな視線にウェンディは囚われたように、目を逸らす事も出来なかった。


「君のそういうところも素敵だと思うよ。それではまた、ウェンディ・・・・・嬢」


 ふふ、とラジーネが笑みを深めた。

 ただそれだけだったのに、光が溢れたのかとウェンディは錯覚した。


 手を振って去っていくその姿から目を離せない。その姿が輝いているようにさえ見えるのは、自分の目がどうにかしてしまったのかと思う程だった。


 顔が熱い。

 胸が早鐘を打ち、手が震える。

 あの声を、あの笑みを思い出すだけでどうにかなってしまいそう。


 恋に落ちるなんてよく言ったものだ。

 まさにそう。この一瞬だけで、心を奪われるのには充分だった。


 * * *


「ウェンディ」


 名を呼ばれたウェンディは、開いていた本から顔を上げた。

 陽のあたるカフェの端の席。ウェンディの前の席に座ったラジーネは走ってきたのか、少し呼吸が乱れている。


「待たせてすまないね」

「そんなに急がずとも宜しかったですのに。お疲れでしょう」

「急がせて欲しいな。私が君に早く会いたかったから」


 さらりと紡がれる言葉にも、甘い響きが潜んでいる。

 それに頬が熱くなる事を自覚しながら、ウェンディは本に栞を挟んでからそっと閉じた。


「前に観た歌劇の原作だね。それも面白い?」


 テーブルにつく前に注文を済ませていたのか、店員がラジーネの前にコーヒーを置いた。早速それを楽しむラジーネに問われるも、ウェンディは濁すような曖昧な笑みを浮かべるしか出来なかった。


「……物思いに耽っていたみたいで、ちゃんと読めていなかったみたいです」

「珍しいね。何を考えていたか聞いても?」


 この人は、まさか全てを分かっていて聞いているんだろうか。

 ウェンディがそう思ってしまうほど、考えていたのはラジーネの事だけだ。


「……図書館で、シリウス様とお会いした時の事を」

「私の事? 思い出されるような事なんてあっただろうか」

「アリシアを助けて下さった時の事です。覚えておいでですか?」


 本をバッグにしまったウェンディは紅茶のカップを手にした。温くなってしまったそれは香りが飛んでしまったようだ。一口飲むと蜂蜜の優しい甘さが広がった。


「覚えているよ。君の事を可愛いなって思った時だ」


 唐突な言葉に、ウェンディは吹き出しそうになるのを何とか堪えた。カップをソーサーに戻す時に少し音を立ててしまったけれど、噎せてしまうよりはましだろう。


「友達の事が大好きなんだなって思った。それくらい誇らしげで、それがまた可愛くて」


 紡がれる睦言にウェンディの頬が上気していく。その頬に手を伸ばしたラジーネは指先でそっと撫で擽った。


「だからあの日は、私にとっても忘れられない日になっているよ。君はどんな風にあの日を覚えている?」

「……憧れが、恋に変わった日です」


 羞恥に誤魔化す事をきっとこの人は許してくれない。それを知っているウェンディは素直に想いを口にする事にした。

 伝えるのが嫌なわけではないのだから。言わなければ伝わらない事もある。


 ウェンディの言葉に瞬きを繰り返したラジーネは、嬉しそうにその美貌を綻ばせた。その顔を見られるのは自分だけであって欲しいと、ウェンディは願っている。


「ずっと恋をして貰えるように努力しないといけないな。君の友達に負けているんじゃないかと、嫉妬しそうになる時もあるくらいだ」

「まぁ、嫉妬だなんて。私がシリウス様をお慕いしているのは、ご存知でしょう?」

「もちろん。恋に溺れた男の戯れ言だと笑ってくれ」


 低く笑ったシリウスはテーブルの上にあるウェンディの手を握った。ウェンディもそれに応えるように指先を絡めるように握り返した。


「さて、婚約の話を進めようか。アインハルトに先を越されてしまったのは、何とも言えない気持ちでもあるんだが」

「私は嬉しいです。アリシアが幸せになるんですもの」

「やっぱり私はブルーム嬢に負けているんじゃないかな」


 冗談めかして肩を竦める様子に、ウェンディも可笑しそうに笑った。



 雪解けも進む暖かな日だった。

 屋根から落ちる滴が石畳を濡らしていく。水鏡に映る空はどこまでも優しい色をしていた。

 

 目の前に広がる世界は今日も輝いている。

 恋に落ちた時よりも、ずっと。繋ぐ手の温もりが同化していく幸せを噛み締めながら、そう思った。


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