39.撃ち抜くのは

 鴨を食べ終えて他にも追加注文を……と思ったけれど、その一皿で充分満足してしまったわたしは塩煎りされたナッツをつまむ事にした。

 くるみ、アーモンド、ピスタチオ。形も色も違う木の実が小皿に盛られているのは、なんだか可愛らしい。


 おかわりした白ワインを飲みながら、ピスタチオを食べる。濃厚な味と香ばしさに、先日食べたケーキが思い浮かんだ。あのロールケーキはとても美味しかったから、提供されている間にまた食べに行かなければ。



「元婚約者は領地に戻ったんだってな」


 わたしと一緒の小皿から、アーモンドをつまみながらノアが口にする。

 社交界では有名な話らしいし、ノアが知っていてもおかしくはないだろう。そういうところはやっぱり貴族だというべきなのか、それとも別の情報源があるのだろうか。


「よく知っているわね」

「またお前に、何かちょっかいをかけてくるかもしんねぇだろ。そう思って気にかけてただけだよ」

「気にしてくれていたのね、ありがとう。……領地に戻る前に謝罪にいらしたんだけどね、今までにないくらいにすっきりした顔をされていたわ」

「直接会ったのか? いつ?」

「あんたとカフェに行った日の午前中」


 わたしの言葉にノアは天を仰いでから深く溜息をついた。顔を上げると前髪が揺れて黒縁眼鏡がよく見える。

 ぽりぽりとアーモンドを齧りながら、わたしはそんなノアの様子を眺めていた。


「来客ってそういう事か。道理でお前の家族が厳しい顔をしているわけだ」

「していたかもしれないわね」


 顔を戻したノアはワイングラスを軽く揺らしてから口元に寄せる。揺れる水面に明かりが煌めいてとても綺麗。


「それにしてもはよく引き下がったもんだな。あの様子からして、お前の事を手にいれようと形振なりふり構わねえ感じもしたんだが」

「わたしとあんたが一緒に居る姿を見て、諦めがついたそうよ」

「そんな事ならもっと早くに見せ付けておけば良かったか」


 くく、と低く笑うノアの姿に、わたしは呆れたような溜息をついた。

 塩のついてしまった口元をハンカチで拭きながら、わざとらしく睨んで見せるけれどノアは気にした様子もなく笑っている。


「そんなの無理だったでしょ。あんたはわたしに、顔を見せてもいなかったんだから」

「確かにな。でも俺が顔を晒していなかったのも、色々理由があったんだって」

「まぁ顔を隠したくなる理由は分かるから、その理由は聞かないけれど」

「いや、そこは聞いてくれよ」

「聞かせたいのね。じゃあ、どうして?」


 口元に笑みを浮かべたまま、ノアはわたしに手を伸ばす。下ろしているわたしの髪先に指をゆっくりと絡ませる。それだけで、わたしの胸はおかしくなってしまうようだ。

 触れられている髪さえ熱を持っているように錯覚してしまうほどに。


「お前の事は図書館で働き始めた頃から知ってる。俺の姿を見ても、他の客と同じように接してくれるあたり、さすがは図書館に勤められるだけあるなと思ってた。お前の同僚も上司も、態度を変えたりしねぇもんな」

「来館される方は皆等しく、学びや娯楽を求める人達だもの。そこに貴賤も優劣もない。それが働く前に聞かされた、図書館の在り方よ」

「でもその通りに動けるってのは凄い事だろ。平等を口にしながら、そうでなかった事なんて幾度もある」


 この美貌、王都の女性陣が憧れる夕星の騎士ならそれもあるだろう。そしてそれはきっと、ノアが望んでいない事で。

 わたしが想像する以上に大変な日々を過ごしていたのかもしれない。


「だから俺は元々、図書館勤めの面々に対する好感度は高いんだが。この店でお前に会ったのは偶然で、素性を隠してもお前は踏み込んでこなくて、それが凄く居心地が良くて」


 柔らかな声色はノア・・特有のもの。丸まった背中も、頬杖をつく姿も、騎士の時にはきっと見られないものだ。

 わたしの髪に触れる手が落ちる。その温もりが既に恋しい。


「それを壊したくなかった。臆病で狡いって、前にも言っただろ」


 そんなのわたしだって同じだ。

 一緒に居ると気持ちが楽なのに、壊れるくらいに胸が苦しい。その矛盾をわたしに与えられるのはノアしかいなくて。


 小さく頷きながら、わたしはノアの言葉に聞き入っていた。エマさんとマスターの笑い声も遠ざかっていくように耳に入らない。


「だから晒せなかった。でも……俺とお前が一緒に居る事で虫払いになるなら、さっさと素性を明かしておくべきだったかもしれねぇな」

「虫って。言い方をもう少し選んで頂戴」

「いいんだよ、別に。……ああ、お前が俺の傍に居れば、俺に向けられる熱視線も減るかもしれねぇ。やっぱり早く結婚しとくか」

「そうね。減るかは分からないけれど」


 いつもの軽口に、いつもと違って同意・・をする。

 グラスに口を寄せてワインを楽しむけれど、少し温くなってしまったそれは花の香りが飛んでしまっていた。


「……アリシア?」


 掠れた声にノアの方へ顔を向けると、その指先にピスタチオをつまんだまま固まってしまっていた。顔は見えないのに、きっとあの優しい紫瞳は丸くなっているんだろうなと伝わってくる。


 わたしが同意する事が、そんなにおかしい事なんだろうか。

 そう自問して、おかしい事だと自答した。今までちゃんと気持ちを伝えていないのに、いきなり同意されたら驚くのも無理はないかもしれない。


 わたしだって本当は、ちゃんと気持ちを伝えるつもりだったのだ。

 でもいつものように軽口を向けられて、きっとノアはそれをわたしの逃げ道にしてくれていると気付いてしまったから。そんな逃げ道、わたし以外の誰に潰せるというのか。


「何よ。今までに散々そんな事を言っていて、冗談だったなんて今更言わないでよ?」

「言わねぇけど、待て待て、あー……本気にしていいんだな? 俺と、結婚するんだな?」

「ええ、結婚するわ」

「それはその、つまり……」


 珍しくノアが狼狽えている。

 つまんだばかりのピスタチオを指先で回しながら、挙動不審に視線を彷徨わせているようだ。

 それが何だか可笑しいのと、それをさせているのがわたしだという事に、少しの優越感を抱いてしまうのも致し方ないだろう。


 だから口から想いが溢れ出るのも、当然の事だったのかもしれない。


「あんたと結婚する。ノアの事が好きで、添い遂げたいと思ったからよ」


 ピスタチオがテーブルに落ちた。

 その手がわたしの手を捕まえる。長くて綺麗な指が、わたしの手を離さないとばかりにきつく握りしめてくる。


「もう離してやれねぇけど、いいんだな」

「それはこっちが言いたいわ。でも……もう少しロマンチックなプロポーズをして貰いたかったっていうのは贅沢かしら」

「分かった。騎士服姿でひざまずいてやる」

「ごめん、それは遠慮させて」


 軽口の応酬に、思わず二人で吹き出していた。

 

 だって跪かせるなんて、考えただけで倒れてしまうかもしれない。まるでお伽噺の王子さまのようだもの。


「すぐにお前の家に婚約の了承を求める手紙を書く。家を訪ねる了承が得られたら、すぐに向かうから心構えだけはしておけよ」

「分かった。……ねぇ、ノア。わたしを選んでくれてありがとう」


 気持ちを言葉に昇華させるのは、少し恥ずかしい。だけど言わないと伝わらない事もあるし、伝わらないなんて悲しい事はしたくないから。

 そう思って言葉を紡いだのに、ノアはテーブルに突っ伏してしまう。


「お前なぁ……急に素直になるのやめろよ。こっちの心臓がもたない」

「なによそれ。変なノア」


 悪態も照れ隠しだと分かっている。その証拠に耳が赤い。

 茶化してみたけれど、わたしにも余裕があるわけでもなかった。


 ゆっくりと顔を上げたノアが、眼鏡のつるを持ち上げる。前髪が浮いて、露になるのは煌めく夕星。いつもよりも色を濃くしたその瞳が、わたしを真っ直ぐに捉えている。


「好きだよ、アリシア。愛してる」


 熱を孕んだ言葉と瞳に撃ち抜かれたわたしには、テーブルに伏せる以外にできる事はなかった。

 

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