2.うちのご飯は美味しい

 自室で着替えて髪を軽くまとめたわたしは食堂へ向かった。そこには既に両親と兄が席について待っていた。長テーブルにはキャンドルがいくつも灯されて、飾られた赤い花を照らしていた。


「ただいま。待たせちゃった?」

「いや、僕達も席についたばかりだから。お帰り、アリシア」

 

 にこやかに笑う兄が言葉を返してくれる。糸のように細い瞳の兄は、いつだって笑っているように見える。その瞳はわたしと同じ金色だけど、中々見る事が叶わない。


「さぁ食事にしよう。寒かっただろう? 今日はアリシアの好きな──」

「ビーフシチューでしょ? マルクが教えてくれたもの」

「くっ……やはり出迎えは私が行くべきだったか」

「あなたったら。外で待っていたらまた腰痛がぶり返しますよ」


 悔しがる父と、それを笑う母。穏やかな雰囲気の中で、夕食は始まった。


 今日のメニューはタコとトマトのマリネ、リエットが添えられたバゲット、ビーフシチューだった。デザートにはパンプキンプリン。順番に運ばれるものではなく全てがテーブルに並べられて、使用人は全員が食堂から下がる。それがいつもの夕食風景だ。



「そういえば……トストマン子爵家は随分と浪費を重ねているようだね」


 兄が口を開いたのは、とろりとお肉が溶けるビーフシチューをわたしが堪能している時だった。赤ワインの風味が鼻を抜けていく。今日もうちのごはんは美味しい。


「アリシアの持参金を当てにしているのだろうが……アリシア、お前は本当にトストマン家に嫁ぐのか?」

「本当にも何も、わたしはフェリクス様の婚約者だもの。何もなければこのまま嫁ぐでしょうね」


 心配そうな父に向かって、わたしは笑って見せる。リエットをたっぷり乗せたバゲットに噛りつきながら。


「婚約を結んだのは失敗だったかもしれん。どうにかして解消まで持っていけないものか」

「父さん、平民から貴族様へそんな事を申し出る事が出来るわけないでしょ」

「じゃあ申し出る事が出来るだけの不祥事を、相手が起こせばいいって事だよね」


 にこやかに笑いながら、兄が不穏な言葉を口にする。笑っているのに笑っていない。ぶるりと背筋が冷たくなる事を感じて、わたしはまたビーフシチューにスプーンを入れた。


「大体トストマン子爵家と縁戚になったからって、うちに利益はないんだから。向こうはうちから援助を受けられるからいいけどね。トストマン子爵家に後ろ楯になって貰わなくても、うちの商会はやっていける」


 兄の言う事はもっともだ。

 商会の経営に貴族の後ろ楯はあった方がいい。しかしうちは母が伯爵家の出身であるし、姉は子爵家に嫁いでいる。ならばなぜ婚約を結んだのかという話になるのだが……トストマン子爵家は隣国との境界に領地を持っている。隣国との取引を更に深めたいブルーム商会うちが、トストマン子爵領に支店を出したいと相談した際に、嫡男であるフェリクス様とわたしの婚約を勧められたのだ。


 父は断るつもりだったようだが、トストマン子爵にどうしてもと請われたらしい。その時には誠実そうに見えたフェリクス様も、わたしを妻にしたいとにこやかに願ったそうで……請われて嫁ぐのなら幸せになれるだろうと、父も了承したのである。

 もちろん婚約が結ばれる前にわたしにもちゃんと説明があった。全てを受け入れて婚約を決めたのはわたしだし、父を恨むつもりはない。貴族に嫁げばわたしが生活に苦労しないだろうという、そんな親心もあったのだろう。


 今までの事をぼんやりと思い返しながら、わたしはマリネ液にほどよく浸けられたタコを口に運んだ。ぷりぷりっとした食感に、染み出てくる旨味と酸味。口の中がさっぱりとして、これもまた美味しい。この口にやっぱりトマトも入れよう。皮を剥いてあるからか口当たりがよくて、甘酸っぱい味がする。うん、合わせて食べるともっと美味しい。

 白ワインで口を潤してから、わたしは兄へと目を向けた。


「そのフェリクス様だけど、最近とある男爵令嬢にご執心なのは知っているでしょう? ……兄さん、まさか仕込んでいないわよね?」

「仕込んでないよ。そこまで馬鹿な男だと思っていなかったからね」

「明日はフェリクス様とお会いするから、そのご令嬢の事を聞いてみようと思うの。噂が本当なら……これは婚約解消って事でいいのよね?」


 確かめるように父に問い掛けると、大きく頷いている。


「勿論だ。婚約、婚姻の条件にしっかりと明記されているからな」

「まさかこんなにも早く、その条件が覆される事になるとは思わなかったわねぇ」


 ほほほ、とにこやかに母が笑うが、その瞳は笑っていない。


 婚約を結ぶにあたって、互いの利益の為に幾つかの条件が設けられている──その中のひとつ。

『アリシアを無下にせず、生涯大切にする事。婚約者であり妻となるアリシアを唯一とし、尊重し誠実であること』


 この条件が破られれば婚約は解消となる。

 商会うちはトストマン子爵領に店を出すことはできなくなるが、その利益をトストマン子爵家も受けられなくなるのだから、損害はお互い様だろう。


 婚約を解消するという事は変な噂も経ってしまうかもしれないが、それも致し方ない事だ。


「明日は婚約解消の手続きをしながら待っているよ」

「兄さんったら、まだそうと決まったわけじゃないのよ」

「いーや、あの馬鹿なら絶対に何かやらかすね。うちの若いのを護衛に連れていった方がいいんじゃないか」

「みんな忙しいんだから、そんな事に人を使っちゃいけないわ」


 嗜めるけれど、きっと兄は本気だ。わたしの見えないところに、商会の人間を回すだろう。

 わたしはわざとらしく溜息をついて見せるけれど、内心では少し……いや、かなりほっとしていた。婚約を解消出来るかもしれないんだもの。


 わたしとしても、わたしに誠実であれない人の妻になるのはごめんだ。まぁそれも明日のフェリクス様次第になるけれど……。


「アリシア、まさかこんな事になるとは思っていなかった。すまないな」

「お父さんが謝る事じゃないわ。わたしだって最初は、仲良くやっていけると思っていたもの。それを裏切っているかもしれないのはフェリクス様だし、婚約の話が出た時にそんな兆候は無かったんだから」


 申し訳なさそうに表情を曇らせる父に、わたしは笑って見せる。父が悪いわけではない。

 それにこんな状況になった今では、『アリシアに誠実であること』という条件をつけてくれた父に感謝しかない。


 わたしは複雑な気持ちを抑えるように、デザートの皿を引き寄せた。パンプキンプリンには生クリームが乗せられて、その上にはチョコレートで出来たカボチャがちょこんと乗っている。可愛らしいそれを崩すのは勿体ないけれど、スプーンで生クリームとチョコレート、プリンを一気にすくったわたしは、大きな口でそれを食べた。

 ほどよい甘さに顔が綻ぶばかりだ。滑らかで舌触りのいいプリンがあまりにも美味しくて、これはまた作って貰わなければ。


 うん、美味しいものも食べたし、きっと明日は大丈夫。

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