隠れ星は心を繋いで~婚約を解消した後の、美味しいご飯と恋のお話~

花散ここ

1.その予感は確定じみて

「婚約を解消する事になりそうなの」


 職場である王立図書館の職員控え室。

 夕と夜の間をさ迷うような紫と金の混ざった空が窓向こうに広がっている。


 帰り支度をしながら、わたしは同僚のウェンディにそう告げた。彼女が桃色の瞳を丸くしたのも一瞬の事で、すぐに眉を下げたものだから、彼女の耳にも色々と届いているのだろうと苦笑いが漏れた。



 わたし──アリシア・ブルームには婚約者がいる。

 トストマン子爵家のご令息であるフェリクス様。チョコレートのような焦げ茶の髪に青い瞳が映える、優しい人。商人の娘である平民のわたしにも目線を合わせてくれる人──だと思っていた。


「ウェンディも貴族だもの、色々聞いているでしょう?」


 同僚で友人でもあるウェンディ・クランベラーは子爵家の出身だ。家督は弟さんが継ぐ予定で、侍女として王城に出仕する予定だったところを、人手不足だったこの図書館に勤める事になったのだという。

 ミルクティー色の髪をうなじでひとつに束ねながら、ウェンディは苦笑気味に頷いた。


「まぁ、それなりに。でも貴族っていっても名ばかりの弱小子爵家だって知っているでしょう。だからこうして外で自由にさせて貰っているんだけれど」

「弱小だなんて。クレンベラー家は誠実だし、領地の特産である絹だって上質でしょ」


 商人であるわたしの父はクレンベラー家の絹に惚れ込んでいると言ってもいい。王族御用達のメゾンだってクレンベラー領の絹を使っている程だ。


「それはありがたい事だけど、ってそれはいいのよ。それよりも婚約解消って事は……」

「フェリクス様が、とある令嬢と仲睦まじくしているそうでしょう? もしかして夜会で見た事がある?」

「わたしは夜会に出ないから見ていないんだけれど。……弟が、ね」

「ふふ、やっぱりフェリクス様は隠すつもりもないのね」


 気遣わしげにウェンディが眉を下げる。わたしよりも心を痛めているその様子に、笑みを浮かべながら首を横に振った。

 わたしは鏡の前で若菜色の髪にブラシを入れる。柔らかな髪は絡まりやすい。束ねていたことで少し癖の残った髪をごまかすように、耳あてのついた毛糸の帽子をかぶった。


「利益があって結ばれた婚約だもの。フェリクス様をお慕いしてるかというとまた別だし、きっとあちらもそうでしょうね。それでも婚約を結んだ時は、それなりに絆を育んでいけると思ったんだけれど。……なんて殊勝な言葉は置いておいて、勿論腹立たしいと思っているわ。そこに恋愛感情なんてなくたって、婚約を結んだのだからお互いを尊重するべきだと思わない?」


 鏡の中のわたしは金瞳を吊り上げている。怒っているのだからそれも致し方ないだろう。だって浮気をするだなんて、いくら身分の違いがあるとはいえ、わたしを蔑ろにしすぎではないだろうか。


「アリシア……」


 ウェンディがわたしの名前を口にする。その声があまりにも柔らかくて、わたしの表情も和らいでいく。振り返るとウェンディはにっこりと笑っていた。


「良かった。仕方がないからって受け入れて、みすみすあなたが不幸になっていくのは嫌だもの。怒っていてちょっと安心したわ。私の大事な友人には、想われて大切にされての結婚をして欲しいと思うのよ」

「ありがとう、ウェンディ。明日のお休みはフェリクス様とお会いするから、まぁ何かしらの進展はあると思うわ。主に婚約解消に向けての話し合いになるかもしれないけれどね」


 身分違いでも、この婚約は対等・・な契約だ。

 トストマン子爵領に、うちの実家である商会が支店を出す事から始まった婚約は、幾つかの条件の元に結ばれている。

 明日はフェリクス様とお会いする約束の日だが、もしかしたら最後の日になるかもしれない。


「婚約が継続でも解消でも、アリシアが望む通りになったらいいわね」

「ありがとう、ウェンディ」


 友人の優しい言葉が有り難くて笑みが零れた。

 さて帰り支度、とコートを着込んでボタンをしっかり留める。手袋を──しようとしたところで、外で大きな歓声が聞こえた。歓声というよりも、むしろ黄色い声というか。


「アリシア、騎士団の方々が帰ってきたわ」


 窓から外を見下ろしたウェンディは、合点がいったとばかりに頷いている。手招かれるままにわたしも窓に近付くと、図書館前の道を鎧姿の一団が整然と歩いていた。

 控え室は三階にある事もあって、騎士団の面々が歩いているところも、道の両脇に女性陣が並んで手を振っているのもしっかりと見える。


 ああ、今日は騎士団の都外みやこがいでの訓練日だったか。道理で来館される方達が、閉館まで粘っているわけだ。


「キャー! アインハルト様ー!」

「ラジーネ団長ー!」


 黄色い声がここ三階まで響く。

 女性陣にはそれぞれお目当てがいるのだろうけど、一番名前を叫ばれているのはアインハルトという騎士だった。


 騎士団の面々は訓練帰りにも関わらず、疲れた様子を一切見せない。綺麗な隊列で足並みまで揃っているが、その中でも一際目を引く長身がいる。前髪を後ろに流すように整えられた黒い髪。この高さからその顔まではよく見えないが、アーモンドのような切れ長の瞳をしている美丈夫だという事はわたしもよく知っている。

 というよりも若い女性の憧れの的であるアインハルト様の顔を知らない人など、この王都にはいないのではないだろうか。


「アインハルト様が一番人気ね」

「格好いいわね、やっぱり。でも私は団長の方がいいと思うんだけど。アリシアは?」

「そうねぇ……どの方も素敵だと思うけれど」

「それも分かるわ。鎧姿って、それだけで格好良く見えるわよね」


 ミルクティー色の髪を指でいじりながらウェンディが明るく笑う。わたしも笑いながら見ていると、騎士団詰め所へ続く門扉を最後の一列が通っていった。二人の門番によって重厚な扉が閉められて、それを合図としたかのように集まっていた女性陣が散っていく。



 身支度を終えたわたし達は図書館を出た。上司はまだ仕事が残っているようで、疲れた様子ながらも笑顔で見送ってくれる。



 見上げた空はすっかりと夜の帳の中。薄い色で浮かぶ細い月は何だか頼りなく、傍らに輝く星の方が明るく見えた。


「ねぇ、やっぱり結婚相手は騎士の方がいいと思わない?」

「ウェンディは、こないだまで文官がいいって言っていたじゃない」

「そうなんだけど、筋肉美は譲れないって思い直したのよ」

「筋肉美……?」

「逞しいって素敵でしょ」


 ウェンディの桃色の瞳が悪戯に輝いた。

 彼女は素敵な結婚相手を探しているのだ。貴族平民関わらず大恋愛をして結婚をしたいと思っていて、彼女の両親をそれを認めているらしい。


 楽しいお喋りのおかげで、沈んでしまいそうだった気持ちも上向いていく。

 あまりにも話が盛り上がりすぎて、家に帰る為の分かれ道を通り過ぎてしまったほどだった。



 わたしの家は平民地区でも富裕層が暮らす一角にある。

 背の高い生け垣に囲われた先、優美な曲線を描く鉄製の門に近付くと、触れるまでもなくそれが開いた。


「お帰りなさいませ、アリシアお嬢様」

「ただいま。今日も寒かったわね」

「ええ、きっと体が冷えていると思いまして、今日の夕食はお嬢様の好きなビーフシチューですよ」

「嬉しい。着替えたらすぐに食堂へ行くわ」


 出迎えてくれたのは、家で雇っている家令のマルクだ。わたしが帰る時間が分かるのか、いつもこうして門を開けてくれる。待っていて貰うのも申し訳ないから自分で門くらい開けられると言っても、どうやら外で待っているわけではないらしい。ではどうやって……と思うのだけど、それは教えてくれるつもりはないようだ。


 美しく整えられた前庭を進み、マルクが開けてくれた屋敷の扉から中に入る。

 一般家庭と比べても豪勢な屋敷。貴族のものとは比べ物にはならないけれど、それでも見るからに裕福なのは伝わるだろう。

 王都を拠点に近隣諸国とも貿易取引があり、王家御用達の商品も取り扱っている【ブルーム商会】──それがわたしの実家である。


 わたしは上着と手袋、それから帽子をマルクに渡すと、着替えるべく自室へと向かった。

 

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