幽体離脱
初老の男が怪しげな紫色の天幕を潜り抜けると、一人の青年がテーブルの奥に座っていた。
テーブルには天幕と同じ色をした、地面につきそうなほどに長いクロスが引かれている。そのほか青年の体の向こう側には、大きな姿見が置かれているのが見える。
男は青年を注視する。年は二十を過ぎたあたりだろうか。まだどこか垢抜けなさが残る顔をした、それでも均整の取れた顔立ちをした青年だった。
「ようこそお待ちしておりました。さあ、こちらへどうぞ」
そういってテーブルの手前にある椅子を手で示す。
「すでにお手紙でもご了承いただけたかと思いますが、いま一度ご確認を。幽体離脱体験を始めさせていただきたいと思いますが、よろしいですね?」
初老の男は警察官だった。彼の専門はこういった超能力などを騙って、相手から詐欺や脅迫を行う人間を捕まえることだ。そのため彼はこの男の怪しげな手紙に返事をして、ここまでやってきたわけである。
その仕事の特性上、捕まえられる件数は多くない。実際、閑職といってよかった。自然所内の待遇もよいものではない。もう定年が近づいているというのに、自分より若い上司から小言を言われ、新人からも反面教師にされる。そんな状況に男は内心うんざりしていたが、そこは仕事と割り切っていた。
「本当に幽体離脱なんかできるんですか」怪しまれないよう、さも不安と期待が入り混じったような声色を出す。こういった芝居も慣れたものだった。
「ええ、ご心配には及びません。いいですか。まず目を閉じてください」
素直に目を閉じる。隠しカメラと盗聴器は作動済みだった。
「深呼吸をしてください……そう。そうしていると、だんだん全身から力が抜けていきます」
心なしか体が軽くなるような感覚があった。いや、どうせこういうのは気分によるものか、または天幕内に気分を軽くする気体でも充満させているのだろう。男はそう思った。
「さあ、目を開けてください」
青年に言われるままに目を開けて、驚く。男の視点は、確かに宙に浮いていたのである。
下を見ると、先ほど座っていた椅子に男の体がもたれかかっているのを確認できた。これには男も「おお」と声を出さずにはいられなかった。いったいどんなトリックを使っているのか、いや、これは本当に幽体離脱をしているのではないか、と混乱するほどに。
息ををついて落ち着きを取り戻す。ともかく信じられない光景だった。その後、心の中に一抹の不安が残った。このまま戻れないのではないか、という不安に。青年にそのことを伝えると、彼は朗らかな微笑を浮かべた。
「心配には及びません。幽体離脱を行った時と同じようにすれば、体に戻っていくことができますよ。もう戻られますか?」
もう少し味わってみたいとも思ったが、そういうわけにもいかない。そうして男がうなずくと、青年は目をつぶるように促した。いわれるままにしていると、ストンという感覚とともに、体が実態をまとったような感触があった。
ただ何となく様子がおかしい。どうも元の自分の体ではないような気がした。
目を開くと、正面に自分が立っていた。正確には自分の体が、立って自分を見下ろしている。そうして自分の周りを見てみると、ここに訪れた時と様子が違う。自分の手は、警察官には似つかわしくない、すらっとした手になっていた。どうやら自分の魂はそっくりそのまま青年の体に入り込んでいるらしい。
「それでは」という声とともに、自分の体を身にまとった青年は天幕からあっという間に姿を消してしまった。男は驚き、追いかけようとしたものの、右足が何かに引っかかって椅子から離れることができない。テーブルクロスをまくると、自分の足とテーブルの脚が手錠のようなものでつながれていた。
今更手錠をとって追いかけたところでもう追いつけはしないだろう。警察手帳と少なくない金額が入った財布、そのほか雑多な持ち物ごとすべて奪われてしまったのである。
本署にはなんと連絡すればいいだろうか。警察手帳を盗まれるなど、クビを覚悟しないといけない……。男はぐったりとして、改めて自分の体を後ろの姿見に映した。
瞬間、男はハッとなった。自分の体は青年のそれなのである。つまり警察官である自分の体も青年のものなのだから、自分とは関係ない。今更警察に未練などはなかったし、もう一度この若々しい体で人生をやり直すというのも悪くない。男にはこの先の未来が輝かしいものになると感じていた。
――天幕が勢いよく開かれた。
お世辞にも整っているとは言えない顔立ち。中肉中背を逸脱したでっぷりとした腹。そんな様子の男が、額から汗を垂れ流し、血相を変えた目つきで天幕の外から現れた。
呆然としていると、首根っこを思い切り掴まれる。
「やっと見つけたぞインチキ詐欺師め! さあ早く俺の体を元のと交換しろ!」
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