三分半終末思想

灯沢庵

アキレスと亀

 目を開いたとき、自分がまだ4階の窓を見ていることに気が付いた。

"なぜだ、自分はもうとっくに死んだと思っていたのに"

 男はビルを真っ逆さまに落ちながら、そんなことを考えていた。

 男は先ほどまで、自分が勤めているビルの屋上にいた。そこから靴と形ばかりの遺書を残し、地上へと真っ逆さまへと転落した……はずだった。

 自由落下によって落ちる自分の肢体。そうして強烈な衝撃とともに訪れる『死』の感覚――。それを感じることができずに、男はこの状況に戸惑っているばかりだった。

「そんなに目を丸くして、いったいどうしたというんだい」

 およそこの状況に似つかわしくない、軽々しい声のもとを探ってみると、少しやせぎすの、小柄な男――それも口元を邪悪に歪ませ、まるで男が連絡誌をすることがおかしくてたまらないといった目を携えた――が空中で浮遊しているのを目でとらえることができた。

”誰だお前は。いったい、私に何をしたというんだ”

 ろくに開かない口を必死で動かそうと努めつつ目で訴えると、その声の主はまたしてもひょうひょうとした声で言った。

「私はまあ、君たちが言う悪魔、とでもといったところかな。人の死に目にやってきてその魂を食らう――。うん、やっぱりその言い方のほうがしっくりくるだろうね。君が今感じている、時間がゆっくりになっている現象は――まあ、人が本当に死ぬときの走馬灯みたいなものだと思ってくれていい」

”だったならちょうどいい。私を早く殺してくれ”

 男はそうやって鋭い目を悪魔へと向けた。

「なんだって、そう簡単に死を選ぶんだい」

”そんなもの、お前には関係ないだろう”

 そう悪魔へと悪態をつきながら、男は今まで過ごした日々を回顧していた。

 増えていく責任。高まる上司の期待。そうした他人の感情とかみ合わなくなっていった、自分自身の能力。他人との競争に打ち負け、努力とは無関係に変動しない自分の給料を鑑みて、男はついに自殺という決断に迫られたのだった。

 目をやると、もう目線は3階の窓へとたどり着くところだった。

「どれ」

 悪魔が言った。

「この空虚な時間は少し退屈だし、面白い話でもしようか。『アキレスと亀の命題』っていうんだが、君は知っているかな」

 そう言って、悪魔はアキレスと亀の命題を、少し冗長に、男に説き伏せるように言い聞かせた。

『アキレスと亀』というのは、思考実験の一つである。

 アキレスという男と亀がかけっこをしたとする。亀はアキレスよりも少し前からスタートする。アキレスが亀がスタートした地点についたとき、亀はスタート地点よりも先にいる。その位置にアキレスがたどり着いた時、その間にやはり亀は少し先へと進んでいる。普通に考えればアキレスはあっという間に亀を追い抜けられるはずだが、亀が先を進む分をアキレスは進まなければならず、永遠に追いつけないことになる。

 おおよそそんな話を、悪魔は何が面白いのか、少しおどけながら男に話していた。

 話を聞いている途中、いや最初からだったかもしれないが、男は少しいらだっていた。

 ――いつになれば、この悪魔は俺を地獄へ連れていってくれるのだろうか。地獄へさえ行きさえすれば、今のがんじがらめになった状況よりは救いはあるだろうに。

 悪魔の何回目になるかわからないたとえ話をし始めたところで、

”その話なら俺も知っている”

 そういって、男は話を遮った。

”もういいだろう。君の顔はもう見たくないんだ。”

 その言葉を聞くと、悪魔は目を見開いたと思ったら、笑みを含んだ顔で男に近づいて行った。

「いわれなくても、僕はきっと、君の前からいなくなるさ。だけど、今の話はよく覚えていたほうがいい」

”アキレスと亀の話がか”

 悪魔はついに笑いをこらえきれない、といった形で宙で笑い転げた。

「そう。アキレスは亀にどれだけ時間を費やしても追いつけっこない」

 不気味に思い、男が話しかけようとすると、さえぎる形で悪魔が言葉を重ねていく。

「今の君がそうなのさ。君がこれからどれだけ時間を費やそうとしても、自らの死には到底追いつきっこない。限りある人生の中で自殺を選んだ人間っていうのは、そういう決まりなのさ。君の体はどうしたって地上にまでたどり着かない。たどり着く前に、おそらく何十年、いや何百年もかかることになるだろうね」

”何十年……”

 男が何かを言いたげに、悪魔に手を伸ばそうとすると、急に踵を返してこう言い残した。

「ああ、そうそう。転落死の場合、地面に設置して痛みを感じ始めた後でも、数秒は意識を保っているんだったっけ。まあ、それが君にとっては何時間、いや何千年になるのかは知らないけどね」

 悪魔はあっという間に男の前から姿を消してしまった。

 男の目の前には、まだ3階のベランダが見えていた。

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