騒々しい家

 六月になって最初の土曜日。

 私は杠葉ゆずりはさんを除いた冷光れいこう家の面々とスーパーにお買い物に来ていた。


 はー、眠たい……。

 夜行性な冥子めいこちゃんが毎晩隣の布団でアイパッドで面白そうなドラマを見ており、それをついつい一緒になって見てしまうせいで寝不足が続いていて、なんだか頭がぼんやりとする。

 というか、六月のお給料を杠葉さんから受け取った翌日になぜか冥子ちゃんにアイパッドプロを買うことになってしまい、お給料の半分以上(たしか13万円くらい)がなくなったんだよな……なんでそういう展開になったのかはいまいちわからないが、なんか気づいたら買ってあげないといけない感じになっていたのだ。洗脳はされていないと思うが、誘導はされたのだろうと思う。冥子ちゃんには口では絶対に敵わないから、今度何かをねだられた時にはもう一切反応せずに無視しよう。


 そんなこんなでかっこいいバレンシアゴのお洋服は未だ手に入らず、私は一昨年だかにママンにウニクロで買ってもらった黒い薄手のパーカーに黒いジーンズという恰好で食料品が山と積まれた重たい買い物カートを押しながら、六月の湿気のせいかなんとなく重たく感じるポニーテールを揺らしてアンコちゃんの後ろをついて歩く。

 前から歩いてきた買い物中のおばさんが、物珍しそうな顔をして私の目をじっと見つめる。両目の虹彩こうさいが緑色になってしまってからというものの、人とすれ違う際にこのようにじっと目を見つめられることがよくあるのだが、なんだか恥ずかしいし未だに慣れない。


 アンコちゃんのお買い物はとてものんびりとしていて、今日も三十秒立ち止まっては二秒歩いてまた三十秒立ち止まるといったことを、もうかれこれ一時間以上は繰り返している。

 ワンレンボブでメガネでモデル体型で美人なアンコちゃんは一見すると大人っぽくクールでデキる女に見えるが、実際のところは真逆で結構子どもっぽくて感情豊かでドジな女だ。ちなみに今日は気軽なお買い物だからか、いつもの縁なしメガネではなくて透明なプラスチックフレームのメガネをかけている。パーカーにジーンズという私と同じような恰好をしているが、相変わらず全身ハイブランドで固めており値段で言ったら十倍以上の差がありそうだ。というか、この両袖にカラフルなラインが入ったフィンディの白いパーカー、インターネットで高額で取引されているのを見たことあるぞ。

 お肉のコーナーを眺めていたアンコちゃんが振り返って、私にたずねてくる。


「ヤマコさんも今晩はうちで食べるんでしたよね? 鶏と豚と牛だとどれが食べたいですか?」


「えっとえっと、牛ヒレステーキか、霜降り肉ですき焼きがいいです」


「そうしたらお肉はここでは買わないでおいて、帰りにお肉屋さんに寄りましょうか。あっちの方が良いお肉を売っていますからね」


「おお……」


 どうして私がハイブランドのお洋服を見せびらかされつつ、重たいカートを一時間以上も押しながらアンコちゃんのお買い物に付き合っているのかというと、こういったご褒美があるからである。

 いやまあ、たとえ何もご褒美がなかったとしても私は杠葉さんの式神どれいなので、「行け」と命令されたら行くしかないのだが。


 しかし、冷光家ってほんとにお金持ちだよな。食料品に限らずとも、アンコちゃんがお買い物中に値段を確かめているシーンなんて一度も見たことがない。杠葉さんはあまりご褒美をくれないが、あれは多分私に対して意地悪なだけだろう。だって、お仕事中にアンコちゃんがお高いご飯屋さんを選んで入ることなんか日常茶飯事だが、そういう時には何も言わないしまったく嫌そうな顔をしていない。多分、お金自体はめちゃくちゃあるのだ。


「あのあの、冷光家ってお金持ちなイメージがありますけど、こないだの東根ひがしね先生の依頼みたいに何百万円とかもらえるお仕事が年に何度もあったりするんですか?」


「ええと、ある年はありますし、ない年はないですねー。ご依頼いただいた内容を鑑みて、危険性や難易度に応じて頂く報酬も変わりますので、平和な年だとああいった臨時報酬は少なくなります」


「ふむふむ、毎年何度もあるわけじゃないんですね。そう頻繁にブルドーザーしたくないんでよかったです。でも、じゃあなんで冷光家ってお金持ちなんですか?」


「その、えっとですね……あまり大きな声じゃ言えないんですけど、結構いけないこともしてますからね。ある意味、そこら辺の反社会勢力なんかよりもずっと性質たちが悪いですよ、うちは……何せ、のろいやあやかしを用いた悪事って、被害に遭ったという証明ができませんからね。なので仮に被害に気づいたところでうちを訴えることもできませんし、そもそも素人では被害に遭っていることに気づくことすらありませんし」


「えっ。アンコちゃん、そんなに悪いことをしてるんですか?」


「その、ですね……うちは没落した家ですし、さきほども言ったように比較的平和な年もありますから、悪いこともしないとはらなんてお仕事じゃ食べていけないので……」


 そう言ってアンコちゃんは私から目を逸らして、すぐ目の前に並べられていた商品を手に取ってじっと見る。子どもに人気のアニメキャラクターがパッケージに描かれた箱入りの魚肉ソーセージにアンコちゃんが興味を持つとも思えないので、単純に私から目を逸らしたかっただけだろう。

 しかしな……全身をハイブランドで固めた女が「悪いことをしないと食べていけないから」なんて言い訳をしても、説得力がまるでないな……冷光邸の裏庭には畑だってあるし、ブランド品を買わなければたとえ平和な年でも余裕で食べてはいけるんじゃないのか?


「ええ……ちょっと聞くのが怖くなってきたんですけど、具体的にはどういった悪事を働いているんですか?」


 私がそうくと、アンコちゃんは何だか追いつめられたような顔をして周囲をきょろきょろと見回してから、そっぽを向いた状態でぼそぼそと言う。


「う……あんまり具体的には言いにくいですよ。それにほら、外ですし。その、私が勝手に話していいのかもわかりませんから、どうしても知りたいんでしたら後で杠葉さんに聞いてみてください」


 ふむ、これは何というか……本当に悪いことをしていそうだな? 警察官に密着する系のドキュメンタリー番組とかで、こういう反応をする犯罪者を見たことがあるぞ。

 しつこく追及してこの黒い金で着飾った悪い女を困らせてやろうかと思ったところで、冷光家が誇る女児三人衆(あれ、そういえば一人は男の子なんだったか?)が内の二人――弓矢ゆみやちゃんとバッケちゃんがお菓子コーナーの方から手をつないで歩いてきた。

 弓矢ちゃんが髪をおさげにしているのはよくあることだが、なんと今日はバッケちゃんも弓矢ちゃんとお揃いのおさげスタイルだ。しかも、細部のデザインは異なるものの、二人とも白いワンピースを着ている。

 濡れたような黒髪で杠葉さん似の切れ長な目をした美人さんな弓矢ちゃんと、新雪のような白髪はくはつで赤くくりっとした目をしたバッケちゃんが手をつないでいる光景はかわいいだけでなくどこか幻想的である。弓矢ちゃんがほっそりとしているのに対して、バッケちゃんはまさに幼女といった感じのちょっとぽってりとした体型で背丈もさらに低いので、手をつないでいると弓矢ちゃんがいつもよりもお姉さんに見えた。


 ちなみになぜ二人が手をつないでいるのかというと、バッケちゃんは基本的にぼうっとしているしすぐにその辺に落ちているゴミとかに興味が移ってしまうので、手をつなぎでもしないと弓矢ちゃんとはぐれてしまい護衛として機能しないからである。そうした事情があって、弓矢ちゃんはバッケちゃんと行動する際には必ず手をつないでおくようにと杠葉さんから言い含められているのだ。


 ハリホーグミがたくさん入った巨大なバケツを腕に抱えているバッケちゃんの手を引いて、私が運搬を任されている買い物カートの脇までやって来た弓矢ちゃんがアンコちゃんに確認する。


「アンコさん、これ買ってもいい?」


「もちろん、いいですよ~」


 ふにゃりと微笑んで、アンコちゃんがやわらかい声で答える。ついさっきまで追いつめられた犯罪者みたいな態度だったのに凄い切り替えの速さだ。

 相変わらず表情は薄いが、自らの意思でもってバッケちゃんが抱えていたバケツを買い物カートの下の段のカゴにグイッと押し込み、弓矢ちゃんがにこっと笑う。

 バッケちゃんや弓矢ちゃんはかわいいし、アンコちゃんは悪い女だけど良いお肉をおいしくお料理して食べさせてくれるし、平和な世界だなあ……これで、数時間後にお仕事の予定が入ってさえいなければ最高なんだけどなあ。

 ただでさえ、こないだから六ツ尾むつお集落で溺れ死ぬ悪夢や、ゾンビの大群にき殺される悪夢を毎晩のように見続けている私である。きっと今晩また怖い思いをするんだろうなと思うと、どうしても気持ちが塞いでしまう。


「――モコでも食べるか~い♪」


 背後からご機嫌な歌声が聞こえてきて振り返ると、蜂蜜色の狐の耳をぴこぴこと動かしつつ、同じく蜂蜜色の狐の尻尾をふりふりと振りながら、両手にそれぞれ買い物カゴを持ってこちらへと歩いてくるハッチーの姿があった。今日は英字プリントの白い半袖のシャツにパステルイエローのふんわりとした短めのスカートという恰好だ。三か月前に初めて出会った時にはあごのラインで切りそろえられていた蜂蜜色のおかっぱ頭が、今は肩にかかるくらいにまで伸びている。

 高性能なヤマコアイでよく見てみると、どうやら二つのカゴいっぱいにお菓子を詰め込んできたようだが……そんなに沢山買ってもらえると本気で思っているのだろうか? しかも、今日の夜食にでもするつもりなのかお惣菜コーナーにあったロコモコまで入っている。


 私たちのすぐそばまでやって来たハッチーを牽制するように、慌てた様子でアンコちゃんが口を開く。


「あっ、あの! つい先日のことなんですけど、蜂蜜燈はちみつとうさんに甘くしすぎだと杠葉さんから叱られてしまいまして――」


「ふん、杠葉の犬め。じゃが、わちにはヤマコがおるからな。ヤマコ、うてくれ!」


「えっ、ちょ、買いませんよ!? 私今月はほんとに節約するつもりなんですから!」


 ハッチーは持ってきた買い物カゴを樹脂でできた床に置くと、両腕をクロスさせて×印を作り拒絶の意思を示す私に対して右手を振り上げる。


「出さなきゃ負けよ最初はぐー――」


「えっ!? えっ!!??」


「――じゃんけんほいっ!」


 とにかく不戦敗になるのは嫌だったので、慌てて私はを出す。本当はチョキを出したかったが、先日弓矢ちゃんから「もしもまたハッチーにじゃんけん勝負を挑まれることがあったら最初にパーを出してみて」と言われたのを思い出したのだ。

 その結果はというと……


「あっ!? や、やりました! ついに勝てました! 弓矢ちゃんの言う通り、パーを出したらどうしてか勝てました! 弓矢ちゃん、まさか予知能力があるんですか!?」


 驚きながらも私がそうたずねると、弓矢ちゃんが得意げな笑みを浮かべて答える。


「ふふ。まあね、ハッチーがグーを出すことは知ってたよ」


「凄いです! ほんとにありがとうございました! 私、ついに勝ちました! でも、あれ……? 私が勝ったら何を貰えるんですかね? 毎度負けていたので気づいていませんでしたけど、よくよく思い返してみますと、いつもハッチーとのじゃんけん勝負では私が勝った際のご褒美が設定されていなかったような気がします」


 そう言ってハッチーを見やるも、ハッチーはぽかんと口を開けて自分の小さなにぎりこぶしをじっと見つめいる。

 しばらく待っていると突然ハッチーの肩がぴくっと震えて、ハッチーが意識を取り戻す。


「あ……あー、そうじゃったそうじゃった。言い忘れていたかもしれんが、実は今回のじゃんけんは三本勝負じゃったのじゃった!」


「ええっ!? それも知らない話ですけど、そもそもですよ? 結局、私が勝った場合は何が貰えるんですか?」


「あー、えーとじゃな……うむ、今日はヤマコとのじゃんけん勝負はやめじゃ、やめ! 今聞かれて初めて気がついたのじゃが、ヤマコが勝った場合のことを考えていなかったしの、今回は勝負できん! そういうわけじゃから、これはアンコに買ってもらうとするかの」


「む、無理ですよ~。こっそりと買える量じゃありませんし、また叱られてしまいますもん」


 首を左右にぶんぶんと振って拒否するアンコちゃんをネコ科の猛獣のように細くすぼめた瞳孔で見やり、ハッチーが脅すように問いかける。


「なんじゃと? わちに逆らうとはの、生意気なアンコじゃ。そんなに地獄を見たいかのう?」


「見たくありませんけど、当主の命令ですから、駄、駄目です……」


「ほーう? ならば後悔するがいい、地獄を見せてくれるわ」


 そう言ってハッチーがおもむろに床に寝転がると、それを見たアンコちゃんが「ああっ!? それだけはやめてください!」と悲鳴を上げる。

 いったい何が始まるのだろうか?

 仰向けの姿勢で、ハッチーがスウゥゥゥウっと大きく息を吸う。


「買うてほしいのじゃ~!!! 一生のお願いなのじゃ~!!!」


「わあ!? あまり騒ぐとまた出禁になってしまいますから、ほんとにやめてください~!」


「わちだってこんなことやりとうない! アンコが買うてくれたらそれで済む話じゃというのに、どうして買うてくれぬのじゃ!?」


「だ、だって、杠葉さんから『当主ストップ』がかかってしまいましたし……」


「ぬう~……! ヤマコ、お主はどうなのじゃ? わちに買うてくれぬのか!?」


 ハッチーが寝転がったまま、潤んだ目で私の顔をじっと見上げてくる。私は何も悪いことなんてしていないはずだが、自分よりも小さい(見た目の)子に泣きそうな目で見つめられると正体不明の罪悪感が込み上げてくるな……。


「う……。だって、じゃんけんには私が勝ったじゃないですか?」


「お願いじゃ、ヤマコ。これ全部買うてくれたら、わち、なんでも一つ言うことを聞いてやるぞ? なんでもじゃぞ、なんでも」


「え、なんでもですか?」


 なんでも、なんでもか……いいかもしれないな。今後お仕事で行った先とかで、どうしても怖い場所とかがあったらハッチーにお願いして私の代わりに見てきてもらったりなんてこともできるかもしれない。


「ほんとになんでも言うことを聞いてくれるんでしたら……じゃあ、買います!」


 私がそう言うと、寝転がっていたハッチーががばりと立ち上がり、声を弾ませて喜ぶ。


「おおっ、本当か!? さすがヤマコじゃ、話がわかるやつじゃのう!」


「でも、約束ですからね? なんでも一つ、私の言うこと聞いてくださいよ?」


「もちろんじゃとも!」


 ハッチーは満面に笑みをたたえて、力強く頷いた。


 そんなこんなで、午後九時過ぎ。

 冷光家にてアンコちゃん手製のすき焼きをお腹いっぱい食べた私は、冷光のお屋敷から車で20分ほど行った近所にある民家にやって来ていた。

 アンコちゃんに貰った白地の着物を身にまとい、頭にバケツをかぶった私は古いが立派な造りの日本家屋の玄関口に杠葉さんと並んで、依頼人である黒ぶち眼鏡をかけた三十代半ばほどの男性――海野あまの泰人やすひと氏から改めて今回の依頼内容に関する説明を受けている。

 海野家は代々はらを営んできた家だということだったので身バレを防ぐために一応バケツをかぶってきたものの、どうやら泰人さんの曾祖父そうそふの代で廃業しているらしく、現在の海野家にはそういった知識や繋がりといったものはほとんど残っていないという話だった。なんでも、今回杠葉さんに依頼するのにもツテがなくて苦労したらしい。


「――先日祖父が亡くなり、父は私が生まれてすぐの頃にすでに他界していたものですから、私がこの家を継いだのですが……私も妻も田舎暮らしというものに憧れていたこともあって、思い切って住んでみようという話になったんです。先祖が祓い屋という仕事をしていたことは祖父から聞いていましたけど、私は幽霊やら妖怪やらといったものは一切信じていませんでしたし、特におかしな体験もしたことがなかったのでその辺りはまったく気にしていなかったんですが……」


 そう言って視線を伏せる海野さんに、杠葉さんがたずねる。


「電話では夜間に何者かの気配がすると仰っていましたが、具体的にはどのようなことがあったのでしょうか?」


「屋内ですと二階を走り回るような足音や不可解な物音が聞こえたりだとか、雪見障子ゆきみしょうじのガラス越しに赤い着物を着た人の足が見えたりだとか……あとは庭に面したガラス戸に何か丸いものを貼りつけたような跡が無数についていたこともありましたし、この玄関の戸の鍵がいつの間にか開いているといったこともよくありますね。屋外ですと……庭園の一部が迷路みたいになっているんですけど、竹の小舞こまい越しに人の気配を感じたり、誰の姿も見えないのに足音が追ってきたり」


「なぜ庭に迷路なんて物が?」


「私にもよくわからないんですが、修行だか瞑想だかをする目的で造られたみたいです。私と妻には必要のない物ですし撤去してしまいたいんですが、祖父から六道宮りくどうぐうと二階は下手にいじるとよくないことが起こるから触るなと言われていまして……」


「六道宮?」


「ああ、迷路の名前みたいです。曾祖父なんかは夕方から朝まで、一晩に六回、それぞれ決められた時間に決められた回り方で六道宮を歩くということを定期的にやっていたみたいです。祖父も子どもの頃は曾祖父に言われて無理やり歩かされていたとか」


「ふむ、なるほど。二階には何か気になるところはありますか?」


「そうですね……二階には和室が二部屋あるんですけど、それがなんというか、間取りといい家具の配置といい、何もかもが左右対称に――そう、鏡映しになっているんです。その上、私と妻がこの家に移り住んだ当初はどちらの部屋の中央にもまったく同じデザインの、かなり古そうな化粧台がぽつんと置かれていて、三面鏡が開かれていて……」


「……現在はどうなっているのですか?」


「それがですね、私も妻も霊的なことなんてまったく信じていなかったものですから、なんだか不気味でしたし化粧代はもちろんのこと、二階にあった家具の大半は業者にお願いして撤去してしまいまして……本当は六道宮も撤去するつもりだったんですけどね」


「実際におかしな体験をするようになってしまい、ためらいが生じたという感じでしょうか?」


「はい……」


「今日はこの後、海野さんはホテルに泊まるということですが……屋内だけでも一度案内していただくことは可能でしょうか?」


「あー、ええと……正直を言うと怖くて、自分の家だって言うのに上がりたくないんですよ。本当は鍵をポストにでも入れておいて、私は敷地内に入らずに済ませようかとも思っていたくらいで……妻にさすがに失礼すぎると嗜められて、こうして玄関まではやって来たのですが」


「では、普段はもうこの家には住んでいないということですか?」


「ええ。先週の水曜日から車で一時間ほど行ったところにある、妻の実家に寝泊まりしています。電話でもお話ししましたが、冷光さんに依頼する前に一月ほど警備会社に依頼して警備員を一人派遣してもらっていたんですけど……一番長くもった方でも一週間でした。一階の部屋を一つ空けて休める場所を用意して夜食やお菓子も置いておいたのですが、それでも皆さん一日目を終えると『もう明日は来たくない』と言い出すものですから……ああ、これは本当に何かあるんだなと私も確信してしまいまして」


「なるほど、わかりました。とりあえず様子を見ながらできる範囲で調べてみたいと思います」


 杠葉さんは特に渋るようなこともなく、あっさりと調査を請け負った。しかし家主ですら上がりたくないと言い、プロの警備員さんが早々に逃げ出してしまう家ってやばくないか?

 では後はよろしくお願いいたしますと言って海野さんが出て行ったので、私は頭にかぶっていたバケツを脱いで靴箱の上に置く。そして髪をポニーテールに結わえていると、膝丈の巫女装束を身に纏ったハッチーが外から玄関の二枚引き戸を開けて屋内に入ってきた。


「のう、ヤマコ。さっきわちのほかに誰か外に出ておったか?」


「ほんのちょっと前に依頼主の海野さんが出て行きましたけど、何かあったんですか?」


「いやの、庭に迷路みたいな物を見つけたから入ってみたのじゃがな? 竹垣たけがきに細く隙間があいておって、そこから誰かに見られているような感じがしたのじゃ。迷路を出てから一応外側を回ってみたんじゃが、その時にはもう誰もおらんかった」


「うわあ……」


 さっき海野さんが話していた、迷路の壁越しに何かの気配がするっていう体験談と合致するな。

 とてもそうは見えないとはいえ、長い時を生きてきた凄い妖狐ようこであるらしいハッチーをしても簡単には正体をつかめないようなやつが、この海野邸に潜んでいるということだ。

 杠葉さんが腕を組んで言う。


「あまり長居したくもないからな、とにかく見て回るとするか。ヤマコ、先に行け。蜂蜜燈はちみつとうは俺の後ろだ」


「また私が先頭……」


「わかったのじゃー」


 下駄げたを脱いで未使用の足袋たびに履き替え、三和土たたきから式台に上り、板張りの廊下を歩く。知らない場所とはいえ、玄関も廊下もちゃんとあかりがいているので廃墟やらと比べたらずいぶんと気が楽だ。

 廊下の正面には曇りガラスがはめられた格子こうし入りの扉があったが、とりあえず玄関から近い部屋から順番に見て行こうと思い、左手のふすまを開けてみる。

 ヤマコアイは暗いところでもよく見えるが、だからといって暗闇がまったく怖くなくなるわけではないし、何よりも緑色に光っている目を見られるのが恥ずかしかったので急いで電気のスイッチを探して灯りを点けた。


「ん……?」


 最初は何の変哲もない六畳間の座敷だと思ったが、なんだか違和感がある。

 うーん、なんだろうな……窓かな? 底が床にくっつくくらいのめちゃくちゃ低い位置に外側に鉄格子がついた小さな窓があるのだが、あれはなんだろうな?

 私が首をひねっていると、杠葉さんが「ここは茶室のようだな」と呟いた。私は茶道なんてまったく知らないのでよくわからないが、茶室にはこういった窓がある物なのだろうか?

 ともかく茶室を出て廊下に戻り、二階へと上がる階段はひとまず無視して、右手にあった二枚の板戸のうちの片方を開けてみるとトイレだった。もう片方の板戸も開けてみるとそちらは洗面所になっている。洗面所の中には木製のがっしりとした造りの横開き戸があり、その奥には浴室があった。灯りを点けて五右衛門風呂の中まで覗いて確認したが、特に変わった物は見当たらない。

 また廊下へと戻り、今度は突き当たりの曇りガラスがはめられた扉を開けて、電気を点ける。フローリングのリビングルームだ。基本的には洋風の造りなのだが、奥の壁には襖がある。


「んん……?」


 少なくとも壁の一方は庭に面しているはずだが、どうしてか窓が一つもない。

 掃き出し窓くらいあっても良さそうなものだが……そんな風に思いつつも、とりあえず奥の襖も開けてみる。


「んんん……?」


 現れたのは八畳間の座敷だった。

 やはり窓がない上に、なぜかこちらにも二階へと続く階段がある。

 他にもなんだか違和感があるが……ああ、そっか、たたみの敷き方だ。普通は畳って縦向きに敷かれている物があったり横向きに敷かれている物があったりして、なんだか複雑な並べ方になっているものだが、この部屋に敷かれた八枚の畳はすべて横向きになっている。こんな畳の敷き方は見たことがない。

 誰にともなく、杠葉さんがたずねる。


「なぜ階段が二本ある?」


「わかりませんけど……もしかして『おふだの家』の時みたいに、片方が偽物なんでしょうか?」


「いや、そういう感じはしない。というか、お前もそのくらいわかるだろう?」


「杠葉はほんとに冗談が通じないやつじゃのう、今のはヤマコなりの冗談じゃろ? あやかしジョークじゃ、あやかしジョーク」


「……冗談ならばそうとわかるように言え、ヤマコは演技が自然だからわかりにくい」


「えっ、あ、すみません」


 実際には冗談を言ったつもりなんてなかったのだが、つい反射的に謝ってしまった。お札の家ではバッケちゃんもすぐに偽物の階段に気がついていたし、妖怪であれば多分当たり前に判別できるんだろうな。

 ハッチーが「かっかっか」と笑って言う。


「確かに杠葉に拳骨されたときとか、ほんとに痛がってるように見えるからのう。その辺にいたよくわからんしょうもないあやかしに怯えてみせたり、いくら人間社会に溶け込むためとはいえ演技があまりに徹底しすぎている感じがして、ちょっと怖いくらいじゃな。さすがヤマコじゃ」


「あ、あはは……」


 なんと言っていいかわからなかったのでとりあえず曖昧に笑って誤魔化しつつ、階段が本物ならば当然上がって上の階も確かめなければならないので、先頭に立って再び歩き始める。

 踏むたびに「ぎしぃ」と嫌な音が鳴る、とてもすれ違うことなんてできそうもない細い階段を上っていくと、左右の壁が全面鏡張りになっている短い廊下に出た。しかも見上げてみても電球の一つすら見当たらず、窓もないのでかなり暗い。多分、ヤマコアイが緑色に光ってしまっているだろう。


「うえぇ……なんですか、これ?」


 廊下全体が合わせ鏡になっているなんて、さすがに気持ち悪いぞ。海野さんだったか? あの人、よくこんな家に住もうと思ったな……見た感じはそんなヤバそうな人には見えなかったが、人は見かけによらないとはよく聞く話だし、やっぱりヤバい人だったのかもしれない。


「祓い屋ならば、このような内装にする危険性は当然わかっていたのだろうが……そうなると余計にたちが悪いな」


「そういえば海野さんが、二階には二部屋あるって言ってましたよね? でも、見た感じ一枚しかドアがありませんけど……」


 鏡張りの廊下の右手にぽつんと佇む木製のシンプルなドアを眺めて首を傾げていると、杠葉さんが事もなげに言う。


「さあな、二間続きになっているのかもしれないし、とにかく部屋に入ってみればわかることだ」


「いやあの、そもそも部屋に入りたくないんですけど……」


「早く行け」


「うう、はい……」


 私はかわいそうな式神どれいなので、主である杠葉さんに命令されたら従わざるをえない。

 凄く嫌だったが、しぶしぶとドアノブをひねる。

 うう、なんで私がこんなに怖い思いをしなくちゃならないんだろう? 確かに約束通りお給料はもらっているけど、スイちゃんと冥子ちゃんの厄介姉妹やハッチーにほとんど使われちゃって全然私の手元に残らないし……これじゃただ怖い思いをしているだけじゃないか。


 ガチャリ、ギイィィィ……


 軋んだ音を立ててドアが開く。

 廊下がめちゃくちゃ不気味だったので、きっと部屋の中にはもっと怖い光景が広がっているのだろうなと覚悟してドアを開けた私だったが、ドアの向こうはがらんとしたただの四畳半の和室だった。

 家具が何も置かれておらず相変わらず窓が見当たらないものの、一階にあった和室と違って畳の敷き方にも違和感はない。

 ただ、強いて言うならば二階にあるらしいもう一つの部屋への出入口が見当たらないのが気になるところだ。

 とりあえず電気を点けようと思ったもののスイッチが見当たらず、部屋の中心まで歩いていって電灯から垂れたひもを引っ張る。

 室内が明るく照らし出されると、杠葉さんがぽつりと呟く。


「右巴ではなく、左巴になっているな。この部屋もやはり不祝儀敷ぶしゅうぎじきか……」


「ブシューギジキ、ってなんですか?」


「普通畳は合わせ目に四辻よつつじ――十字ができないように敷くが、不祝儀敷きはあえて十字ができるように敷く。凶事置きとも言うが……葬式の際など、何か不幸があった時の敷き方だ」


「なるほど、十字ができちゃいけないから畳ってなんだか複雑な並べ方になってたんですね、初めて知りました。ですけど、この部屋の畳は見た感じ十字にはなっていなくないですか?」


「四畳半の不祝儀敷きは少し特殊だ。中心に半畳を置き、その周りに左回りに畳を置く。昔、切腹するための部屋にこういう風に畳が敷かれていたらしい」


「そうなんですか……お祖父さんが亡くなったからこの家を継いだみたいな話でしたけど、だからブシューギジキにしているんですかね?」


「いや、もしも葬式の際に不祝儀敷きに変えたのならばずっとそのままにはしておかないだろう。おそらく、海野泰人がこの家を継いだ時にはすでにこうなっていたのだと思う。彼自身は祓い屋ではないしそういった知識なども持っていないようだったから、特に気にしなかったのだろう」


 確かにそうかもしれないな。この家を継いだのが私だったとしても、わざわざ畳を敷き直すなんてことはしなかったんじゃないかなと思う。

 畳の状態がとても悪かったりすれば新しい畳と交換したり、いっそのことリフォームを試みたりするかもはしれないが、畳を持ち上げて綺麗に拭いて敷き直すのって結構な手間だろうしな。

 室内をうろちょろと歩き回っていたハッチーが、部屋の奥の壁を見つめて言う。


「欠陥住宅じゃな、この家。しょぼい祓い屋が建てたのじゃろうなー」


「窓はないですし廊下は鏡張りですし、まあ欠陥住宅といえば欠陥住宅ですよね」


「それだけではないぞ。ほれ、ここの壁の真ん中に縦に亀裂が入っておる」


 なるほど。言われてよく見てみれば天井から床にかけて、幅1センチほどの隙間がある。

 ハッチーが壁に額をくっつける。


「む……さすがに暗すぎて何も見えんのう、この隙間からもしかしたら何か見えるかと思ったのじゃが」


 そう言って壁から離れていくハッチーと入れ替わるようにして、私も壁に開いた隙間を覗いてみる。

 どうやら壁の向こうにも部屋があるらしい。何か、大人の男の人くらいの高さの物が部屋の中心あたりに置かれているように見えた。しかし真っ暗闇でもしっかりと見通せるヤマコアイがあると言っても、壁に空いた隙間の幅よりも広い範囲はどうしたところで見えないのでそれ以上のことは何もわからない。

 私は隙間を覗くのをやめて、振り返って杠葉さんに言う。


「向こうにも部屋みたいな空間があって、なんか大きな物が置かれてるみたいです」


「ふむ、二階の二部屋は直接行き来できない設計なのだろうな。おそらく階段が二本あったのもそのためだろう……なぜそのような造りにしたのかという部分は想像もつかないがな」


「じゃあ、一回一階に下りて、もう一つの階段を上がってみますか?」


「ああ……ところで、今の一回一階に下りてという発言も冗談なのか?」


「えっ!? ち、違います! やめてくださいよ、私がダジャレを言って滑ったみたいな雰囲気になっちゃうじゃないですか!?」


「かっかっか! 杠葉はほんとにわからんやつじゃのう!」


 杠葉さんが「む……」と呟いて、眉間に深いしわを刻む。自分のコミュニケーション能力の低さを悟って、拗ねてしまったようだ。駄目な人だな、まったく。

 合わせ鏡の廊下に出て階段を下りて、襖が開けっ放しになっていた八畳間からリビングルームに戻り、ガラス戸が開けっ放しになっていたリビングルームから一階の廊下に出る。茶室の襖も開けっ放しだったし、玄関の横開き戸もちゃんと最後まで閉まっておらず20センチほどの隙間が空いていた。

 まあ、点けたら消さない、開けたら閉めないのハッチーに最後尾を任せているので仕方がないと言えば仕方がない。それにどこの部屋に入ったかがぱっと見ただけですぐにわかるし、こういう時限定だが一応利点もある。

 先に見つけた方の階段を上っていくと、やはり先ほどと同じような左右の壁が全面鏡張りになった短い廊下に出た。唯一異なっているのはドアのある方向だ、先ほどは廊下の右手にドアがあったが、今度は廊下の左手にドアがある。あと、細かいところだがドアノブの位置も多分逆だ。先ほどのドアは右に開いたが、こちらのドアは左に開くようになっている。


「なるほど、ドアの付け方からして完全に鏡映しになっているのか」


 杠葉さんのそんな呟きを背中で聞きながら、今度はそんなに緊張することもなくドアノブをひねる。


 ガチャリ、ギイィィィ……


 やはり軋んだ音を立てて、ドアが開いた。


「えっ……?」


 家具が何も置かれていない、がらんとした四畳半の和室が目の前にある。

 畳の敷き方が左巴ではなく右巴になっていて、多分この家では唯一ブシュウギジキになっておらず、中央の半畳に謎の濡れたような染みが広がっている。

 だけど、そんなことよりも気になるのは、だ。

 私が壁の隙間から覗いた時に見た、大きな物体……それが部屋のどこにも見当たらないということである。


 私は困惑しながらも、とりあえずまずは灯りを点けないとと思い、部屋の中心辺りまで歩いていって、濡れたような染みを踏まないように気をつけつつ電灯から垂れた紐を引っ張る。

 しかし、うんともすんとも言わない。


「……あの、なんか電気が点かないです」


 私がそう言うと、杠葉さんが着物の帯に挟んでいた懐中電灯を取り出して点灯させた。

 室内を見回しながら杠葉さんが言う。


「畳も鏡映しか……ヤマコが見たと言っていた、大きな物とやらが見当たらないな。死霊やあやかしといったものの気配は感じないが、祓い屋が住んでいた家ともなるとそこはあまり当てにならないか」


「えっと、どうしてですか?」


「家にどういった術が施されているかわからないからだ。気配を感じないからと言っておかしなものが存在しないとも限らないし、気配を感じるからと言っておかしなものが存在するとも限らない」


 なんだかややこしい言い方をするな、頭がこんがらがってしまうぞ。

 とはいえ、簡単に言うとだ。私が壁の隙間から見た大きな何かは妖怪だったかもしれないってことか?


「うーん……あれが妖怪だったとしたら、私たちがここの階段を上ってくる前に階段を下りて一階のどこかか、家の外に移動したってことでしょうか?」


「さてのう? もしかしたら壁をすり抜けられるのかもしれんし、あの細い隙間を通れるのかもしれんし、なんとも言えんの」


「うえ……あの隙間を通れちゃうって、まるでゴキブリみたいですね」


「かっかっか! こそこそと逃げ回ったりしおって、まさしくゴキブリじゃなゴキブリ! 食器用洗剤で祓えるかもしれんのう!」


 ハッチーが豪快に笑って、大きな声でさっきまでここに居たかもしれない妖怪?を挑発するようなことを言う。もしもそいつが怒って襲ってきたら怖いし、もうちょっと声を抑えてほしい。

 ともあれ、ほかにも気になることがある。


「ところでですけど畳のその染み、いったいなんでしょうね?」


「んん~?」


 ハッチーが部屋の真ん中あたりまで歩いてきて、濡れたような謎の染みがついた半畳を何度か踏みつけて首をかしげる。


「なんじゃか変な感触じゃな?」


「何? 蜂蜜燈、めくってみろ」


「なんか凄いばっちぃもんとか出てきたらヤなんじゃけど……ていっ!」


 杠葉さんの命令を受けて、ハッチーが半畳の畳にブスっと指を突き刺してそのまま強引に持ち上げた。

 畳の下には囲炉裏いろりのような四角いくぼみがあり、その中にふたがされた高さ20センチほどの白く丸い形のつぼが置かれていた。

 廃墟の畳ならばまだしも、依頼人の家の畳を故意に傷つけたハッチーを見て杠葉さんは眉根を寄せたが、とりあえずハッチーへの叱責は後回しにすることにしたらしい。


「明るい場所で中身を確認したい、一階に下りるぞ」


「はーい」


「わかったのじゃー」


 三人で縦に一列になってぞろぞろと歩いていると何だかRPGゲームみたいだなと思いながら、合わせ鏡の廊下に出て狭い階段を下りる。

 一階の廊下に戻ると、杠葉さんはスイッチをオフにした懐中電灯を着物の帯の間に挟み直して、リビングルームの片隅に積まれていた古い新聞紙を何枚か持ってきて玄関の三和土に敷いた。

 そして壺の蓋を開けると、三和土に敷いた新聞紙の上で壺を逆さまにして振る。


 壺の中からザバーッと、干からびた人間の指が一、二、三、四、五――全部で十一本も出てきた。


「ひえっ!!?」


呪物じゅぶつだな」


「は、えっ? で、でも、えっ……? 人間? 人間の指ですよね、これ?」


「ああ。木乃伊みいらみたいに干からびてはいるが、おそらく人の指だろう」


「じゅ……十一本って、少なくとも二人分ってことですかね? だって指って十本ですよね、足の指がこんなに長いわけもないでしょうし……」


「いや……一つはおそらく……」


 と杠葉さんが言いかけて、途中で言葉を濁した。なんというか、杠葉さんにしては珍しい態度だ。


「な、なんですか? はっきり言ってくださいよ、そんな怖い物なんですか……?」

「……多分、一人分だ」


 それだけ言って、杠葉さんは敷いてあった新聞紙で壺から出てきた十一本の呪物を包み、靴箱の上に置いてあった私のバケツの中に入れた。


「ちょっ!? 私のバケツに変な物を入れないでくださいよ!?」


「ああ、駄目だったか? 取っ手があるからこの中に入れた方が持ち帰りやすいかと思ったのだが」


「絶対駄目です! 早く出してください! そのバケツ、また祓い屋さんの会合とかがある時にはかぶっていかないといけないんですから! 変な物を入れないでください!」


「すまない、ヤマコのような大妖おおあやかしがこの程度の呪物を気にするとは思わなった……いや、これも人間社会に溶け込むための演技か? まあいいが……」


 そんなことを言いながら、杠葉さんが私のバケツから新聞紙に包んだ呪物を取り出して、隣に――靴箱の上に置き直す。


「さて、一応家の中はすべて見終わったが、二階の二部屋は鏡映しのようになっていたからな。呪物が片方の部屋だけにあったとは限らないし、先に見た方の部屋の畳の下も確認しておきたい」


「確かにのう」


「一度確認した部屋ではあるが、念のためにまたヤマコが先頭を歩いてくれ」


「あ、はい。わかりました……」


 そう答えて私は板張りの廊下を歩き出し、リビングルームを通って八畳間の和室に入り、ぎしぎしと音を立てる狭い階段を上って、鏡張りの短い廊下にたどり着く。

 戸を閉める習慣を持たないハッチーがずっと最後尾を歩いていたはずだが、木製のシンプルなドアはきちんと閉ざされていた。


「ハッチー偉いじゃないですか、ちゃんとドアを閉めたんですね」


「おお本当じゃ、閉まっておるな。さすがじゃな、わち!」


 というか、ドアの周りの隙間から灯りが漏れていないし、ちゃんと電気も消したんだな。

 普段冷光のお屋敷ではいつも電気を消せ戸を閉めろと口やかましい杠葉さんとて、こうして仕事で現場の状況を確認して回るような際にはあえて灯りを点けっぱなしにしたり戸を開けっ放しにしたりもするし、今回だってハッチーに電気を消せだの戸を閉めろだのとは一度も言わなかった。

 だと言うにもかかわらず、これまでお屋敷でどれだけ注意を受けても一向に改善する気配のなかったハッチーが、まさか自主的に電気を消して戸を閉めるなんてな……年寄り妖狐も成長することがあるんだな。

 なんだか感慨深く思いながらドアノブをひねる。

 ガチャリ、ギイィィィ……とドアが開き、私は室内に入って電灯から垂れた紐を引っ張った。


 カチッ――カチッ……カチ……


「あれ? さっきは点いたのに、なんか電気が点かなくなっちゃいました」


「ん、なんじゃろうな? まあわちらは夜目が利くし、杠葉には懐中電灯があるし、何も問題なかろ」


「いや、懐中電灯も点かない……スマホも駄目みたいだな、電源が入らない。ヤマコの目が光るから暗すぎて身動きが取れないというほどではないが、近くに何か居るのかもしれないな」


「え? もしてかして霊障れいしょうとか、そういう感じのやつですかこれ……?」


「ふむ、なるほどのう。実を言うとわち、ドアを閉めた記憶も電気を消した記憶もまったくないんじゃけど、それももしかしたらわちら以外の何者かの仕業かもしれん」


「それ、部屋に入る前に言ってくださいよ!?」


「蜂蜜燈、半畳の畳をはがせ」


 杠葉さんに指示されて、「しょうがないのう」と言いながらハッチーがまたもや畳に指を突き刺して、強引に引っぺがす。

 二階のもう一つの部屋と同様に、やはり半畳の畳の下には囲炉裏のような窪みがあり、そこに高さ20センチほどの丸い壺が置いてあった。デザインなどはほとんど変わらないように見えるが、色が違う。さっきの部屋で見つけた壺が白かったが、こちらの部屋の壺は黒かった。

 ハッチーが壺を手に取って立ち上がり、杠葉さんが「下りて中身を確認するぞ」と言う。


 また先頭に立って両面鏡張りの廊下に出ると、さっきよりも暗いように感じた。

 気のせいだろうかとも思ったが、一階の八畳間は灯りが点いていたはずなのに、どうしてか階段の下が真っ暗になっていることに気がつく。

 私は振り返って、すぐ後ろにいた杠葉さんにたずねる。


「あの、どういうことですかね、これ……?」


「偶然に停電した可能性もないとは言い切れないが、おそらく何か居るのだろう」


「うむ、ヤマコが見たと言っていたやつかもしれんのう」


「私は真っ暗な場所でも見えますけど……杠葉さんは見えませんよね? 大丈夫ですか?」


「ヤマコの目の光で薄っすらとは見えるし、問題ない。何か変化があるかもしれないし、階段を下りたらもう一度一階を回るぞ」


「ええ……?」


 私やハッチーとは違い、杠葉さんには家の中の様子なんてほとんど何も見えていないんじゃないかと思うのだが……しかも何らかの怪異がこの家の中に潜んでいるっぽいのに、仕事とはいえよく落ち着いていられるな。

 怖いので私としてはすぐにでも車に戻りたかったが、何にせよ主である杠葉さんがまだ探索を続けるつもりでいるようなので従うほかない。

 慎重に階段を下りながら、前を向いたまま後ろにいる杠葉さんに聞いてみる。


「杠葉さんはその、怖くないんですか? 普通、こんな場所で、急に電気が消えて、懐中電灯もスマホもつかなくなったら怖いと思うんですけど……」


「仕事柄ある程度の慣れはあるが、正直に言えば怖い」


「え? 怖いんですか?」


「両親はあやかしに、妹は呪術師じゅじゅつしに殺された。経験がある分、最悪の場合にどういったことが起こるか知っているし、俺が死ねば弓矢ゆみや杏子あんずも生きられないだろうから怖い」


「えっと、意外です。本当は怖いのに、冷静さを保ってるんですか……凄いですね」


「取り乱さずにいられるのは、そういう風に作られたからだと思う」


「作られた?」


「幼い頃、当たり前だが俺はあやかしが怖くてたまらなかった。そんな俺の背に、祖父が毎日魔除まよけの呪言じゅごんを書いてくれた。だが、それでもひっきりなしにあやかしに襲われた。当時は祖父を疑わなかったが、なんてことはない。祖父が毎日俺の背に書いていたものは、本当は魔除けの言葉ではなく、あやかしを寄せ集めるための言葉だった。幼い頃からあやかしに襲われる経験を積ませれば優秀な術師が育つかもしれないから、冷光に生まれた人間は皆そうやって鍛えられたようだ。その過程で実際にあやかしに喰われた子供も多くいたはずだが、簡単にあやかしに喰われてしまうような子供はそもそもいらないということなのだろう」


「えっと、それはなんと言いますか、ええと……えぐいですね。私、冷光家に生まれなくてよかったです」


「当時、蜂蜜燈が俺の背中に書かれた魔除けの呪言を無理やりに拭きとってくる事がよくあった。俺は蜂蜜燈のことを意地悪なやつだと思って嫌っていた。魔除けの呪言があってすら頻繁にあやかしに襲われているだから、消されてしまったらそれこそ死んでしまうのではないかと本気で思っていた。だが、当時は祖父の式神であった蜂蜜燈は俺に真実を伝えられなかっただけで、できる範囲で俺を守ろうとしてくれていたのだと後になって気づいた」


「ち、違うわたわけ! わちは杠葉なんてどうでもよかったんじゃ、うぬぼれるでないわうつけ! わちはのう、あのクソ生意気なクソじじいに嫌がらせしてやりたかっただけじゃからな阿呆め!」


「なんと言いますか、わざとやってるのかなと思ってしまうくらいのお手本みたいなツンデレですね」


「むきいいッ!!!」


 いきなりハッチーが奇声を上げて、階段の途中でバゴンバゴンバゴンバゴンッと地団駄じだんだを踏み始める。

 それにしても、意外とって言ったら失礼かもしれないけど、良いところもあるんだなハッチー。ちょっと見直したぞ。


 階段を下りきって八畳間の座敷に戻った私は、首をかしげる。


「あれ……? 襖が閉まってるんですけど、閉めましたっけ?」


「ふん。少なくとも閉めた記憶はないのう」


「うぅ……開けるの怖いんですけど」


「そうじゃのう、襖の向こうに怖~い顔をした何者かが立っておるかもしれんしのう?」


「ひっ!? い、いじわる言わないでくださいよ!?」


「ん~? じゃって事実じゃろうが、わちら以外に襖を閉めたやつがおるとすれば、そいつが襖の向こうに立っていても別におかしくなかろ? 別にツンデレ扱いされた腹いせをしとるわけじゃないぞ? わち、そんなこと気にしとらんもん」


「めちゃくちゃ気にしてるじゃないですか! あ、謝りますからハッチーが襖を開けてみてください!」


「え~? わちじゃって、襖開けた瞬間目の前に怖い顔したやつがおったら嫌じゃしな~? どうしようかの~?」


「あっ、あっ!? そうだ、そうでした! さっきスーパーで約束したじゃないですか! ほら、何でも一つ私の言うことを聞いてくれるってやつです! あの権利を使います! 私の代わりにこの襖を開けてください!」


「しょうがないのー……そい!」


 スパァンッと音を鳴らしてハッチーが勢いよく襖を開け放つも、灯りの消えたリビングルームには何の姿もなかった。


「かっかっか! せっかくの権利を無駄にしてしもうたのう、ヤマコ?」


「う……。で、でも別にいいです、開けるのが怖かったのは事実ですもん」


「まあのう。さっき杠葉も言っておったが、元祓い屋の家ともなると妖力やらが感じ取れんように細工されていたりもするからのう。実際、わちはヤマコが壁の隙間から見たというやつの気配を感じんかったし……はてさて、何があるやら」


「リビングも真っ暗になってますし、やっぱりスイッチを押しても電気がつきませんね……」


「そんなことよりもじゃ、よく見よヤマコ。またドアが閉まっておるぞ?」


「うっ……で、でも、リビングから廊下に出るドアはほら、すりガラスがはめ込まれていますからね。開ける前にドアの向こうに何かいないかどうかは確認することができますから、別に問題ありませんよ」


「じゃけど、廊下の電気も消えとるっぽいし、もしもドアの前に立っとるやつがおったとして、そいつが黒っぽい色をしとったとしたらじゃ……すりガラス越しではおるのかおらんのか、よくわからない可能性もあるんじゃないかのう?」


「えっ……?」


「せっかく持っとったわちへの命令権はもうつこうてしもうたからの~? ここから先の扉はぜ~んぶ、杠葉に先頭を任されとるヤマコが開けるしかないじゃろうな~」


「うっ、うえぇ~……!」


「おーおー、泣いても許さぬぞ? わちをツンデレ扱いした罪は重いからのう?」


「ううっ、やっぱりめちゃくちゃ気にしてるじゃないですか!」


 ガチャリ、ギイィィィ……


「ひゃいっ!? い、今の音って……」


「多分だが、二階のドアの音だ。蜂蜜燈、一応確認するが……」


「閉めた記憶はないのう。どちらの部屋のドアもこんな音がしとったが、今の音は前から聞こえた気がするのう?」


「開けっ放しになっていたドアを閉めたのだとすれば、軋むような音が先にして、最後にガチャリという音が鳴るはずだ。今聞こえた音はドアを閉めた音ではなく、開けた音だと思う……もしも二階の部屋から何者かが出てきて階段を下りてくるとすれば、この先の廊下で鉢合わせる可能性があるな」


「そうじゃのう。ヤマコ、おふざけはおしまいじゃ。どの程度の妖力を持った相手なのかもわからんというか、そもそもあやかしなのかそうでないのかさえわからん状況じゃからな。一応真面目に行くぞ」


「えう……わ、私、なんにもふざけていませんでしたけど……」


「ああもう、なんでもいいから泣き真似をやめてしゃんとせんか。実際ヤマコは最強の大妖おおあやかしじゃからな、敵の正体がわからないくらいでいちいち慌てたりせんのじゃろうが、祓い屋じゃろうがなんじゃろうが杠葉はただの人間じゃ。わちらが気を引き締めておかんと、わちらはともかく杠葉が死んでしまうじゃろうが」


「……やっぱりハッチー、杠葉さんのこと大好きですよね?」


「ぬあああああああッ!!! じゃーかーらー!!! おふざけはやめにせいと言うたじゃろうが!!?」


「ぴえっ――!!?」


 背後から呪物だという例の壺が飛んできて私の後頭部にヒットした。

 妖力が込められた攻撃だったのでスイちゃんオートガードが発動して無傷で済んだが、これを投げてきたのが杠葉さんだったら私は死んでいたかもしれない。

 ハッチーが床に転がった壺を拾い上げて、私に言う。


「ほれ、はよう行かんか。もう一つの壺は靴箱の上に置きっぱなしじゃからな、急がんと奪われるかもしれん」


「あ、あう……」


 どうしよう、めちゃくちゃ怖い。

 正体不明のよくわからないやつがちょうど階段を下りてきて、廊下なんて狭い場所で鉢合わせてしまうかもしれない。

 でも、杠葉さんに先頭を任されてしまったし、行くしかない……。


 ――あっ、いいことを思いついた。


 私は廊下へと続く扉の前に立ち、ドアノブにそっと手をかけた。

 リビングから玄関まで、廊下はずっと一直線だ。ならば多分、目をつむっていても何とか歩けるはず。

 意を決して扉を開けると、私は前に向かってぶんぶんと両腕を振り回しながら、目をつむってまっすぐ歩き始める。


「私はブルドーザー私はブルドーザー私はブルドーザー……」


 ブルドーザーしながら進んでいくと、突然床が一段低くなった。

 おそらく玄関の三和土に下りたのだろうが、焦って転びそうになってしまい、玄関の戸にブルドーザーパンチを当ててしまう。

 バゴオオオオンッと爆発したような轟音が鳴り響いた。


 おそるおそる目を開けると、戸が二枚とも吹っ飛んで粉々になっている。

 ハッチーが靴箱の上に置かれた白い壺の横に、手に持っていた黒い壺を並べて置きつつ言う。


「おお、さすがにこれは報酬から修理費を差し引かれそうな気がするのう」


「う、うええっ……お金、ないのにぃ……!」


 私が泣きべそをかいていると、階段をダダダダダダダダダダダダッと物凄い勢いで駆け下りてくるような物音が屋内から聞こえてくる。

 何か来る――!


「ほう? 隠れておればよかったものを、このわちに勝てると思うたのか? 誰じゃか知らんが生意気じゃッ!」


 急に怒り出したハッチーが廊下を駆け戻っていく。

 上半身が白っぽくて下半身が黒っぽい、着物のような服を着た背の高い人型が階段から姿を現す。顔には目や口といったパーツが存在せず、ただ白くてツルツルとしているだけだ。


「どらあッ!」


 ハッチーが掛け声とともにいわゆるヤクザキック――前蹴りを放ち、謎の人型の下腹部を思い切り蹴りつける。

 仰向けに倒れた謎の人型が、しゃがれた声で言う。


「ぁ……ぁ……いだい……痛い……」


「知るか死ね! おらあッ!」


 ハッチーが謎の人型の股間を踏みつける。


「ごっ……いだ……やめで……」


「やめるか死ね! おらあッ!」


 ハッチーが謎の人型の股間を二度ふたたび踏みつける。


「おっ……い…………夜は明るいからとても――」


「急にわけわからんこと言うな死ね! おらあッ!」


 ハッチーが謎の人型の股間を三度みたび踏みつける。


「虫が鳴く……海は……」


「おらあッ!」


 ハッチーが謎の人型の股間を四度しど踏みつける。


「ヒに……」


「おらあッ!」


 ハッチーが五度目の踏みつけを放つとドゴオンッと音が鳴って、海野邸の廊下の床に穴が開いた。

 謎の人型は四度目の踏みつけで消滅してしまったようだ。


「ふう、ふう……わちの勝ちじゃ、かっかっか! わちに楯突たてつくからこうなったのじゃぞ? 雑魚は雑魚らしくおとなしく逃げ隠れしておればよかったのじゃ! かっかっかっかっか!」


「あの、その床の穴も修理にお金がかかりそうですけど……?」


「うっ……払うのは杠葉じゃろ? わちは困らん!」


「めちゃくちゃ怒られると思いますけど」


「ぬぐぐっ……!」


 怒られるのを警戒してか、ハッチーが引きつった顔で杠葉さんを見やるが、当の杠葉さんはというとまったく別のことを考えているようだった。


「四発……」


「杠葉さん、どうしたんですか?」


「……大抵のあやかしは蜂蜜燈に蹴られたら、一発で消滅してしまう。だが、今のやつは随分とかかった」


「えっと、つまり今のやつって結構強かったんですか?」


「何もしてこなかったようだし、強いのかどうかはわからないがな。だが、何か特殊な力を持っていたのかもしれない。この家の状況からしても、どうも人工的に造られたのではないかという感じがする」


「ふむ……でも、消えちゃいましたし確かめようもなさそうです」


「そうだな」


 私の言葉に頷いて、杠葉さんは電気のスイッチをパチパチといじる。すると、玄関の電灯が点いた。今のやつのせいで電気がつかなくなっていたのだろうか?


「スマホの電源も入った。とりあえず黒い壺の中身も確認してみるか」


 そう言って杠葉さんが先ほどと同様に玄関の三和土に新聞紙を広げて、蓋を外した壺を逆さまにした振り、中身を出す。

 どうやら怒られないようだと判断してか、ハッチーもやって来て様子を眺めていた。

 また壺の中から干からびた人間の指のような物が十一本出てきて、杠葉さんがぼそりと言う。


「こっちは女か……」


「えっ、指だけ見て性別が分かるんですか?」


「いや……」


 と、杠葉さんがまたもや言葉を詰まらせた。

 そして、かぶりを振って言う。


「大体の状況は確認できたし、対処法もいくつかは思いついた。とりあえず最後に庭と六道宮とやらを見て、今日は一度帰って明日の明るい時間にまた来るとしよう」


「は、はい……わかりました」


 なんだかあからさまに話題を逸らされたが、きっとそれだけ壺の中身がヤバい物だということなのだろう。

 杠葉さんが新聞紙に包んだ呪物をそれぞれ壺の中に戻して、ハッチーに持たせる。私も忘れないようにバケツを手に取り海野邸を出た。


 実際に見てみると六道宮とやらは大したものではなかった。高い竹垣に囲われた、子供だましな小規模の迷路という感じである。出入口が六つもあるため、どこがスタートでどこがゴールなのかがわからないのが何となく気持ちが悪いという程度だ。

 杠葉さんから「一応中を見てこい」と言われて一人で歩き回ったが、特に何事も起こらなかった。

 両脇に壺を抱えたハッチーと一緒に六道宮の外で待っていた杠葉さんがたずねてくる。


「何か感じたか?」


「いえ、特には……昔お母さんと行った温泉宿の大浴場で、露天風呂に行く間の道がこういう竹の壁で目隠しされてたっけなあと思い出したくらいで、何も変なことはなかったですね」


「山田春子の母親と……? いや、お前の本当の母親とか? そういえば妹もいたしな、母親がいてもおかしくはないのか……?」


「え? あ、いや、えーっと、んー」


「……まあ、いい。話は後だ、車に戻るぞ」


「あ、はい! 結局この迷路は放っておいても大丈夫なんですか?」


「例えば壁をどけて地面を掘り起こせば、また別の呪物などが出てくるかもしれないが……それはそれで、何か出てきた時にまた依頼してもらえばいいだろう」


 和風な造りの庭園を歩きながら、私は杠葉さんに聞いてみる。


「あのー、冷光家の普段のお仕事ってどんな感じなんです?」


「先祖の代から繋がりのある家々を定期的に訪ねて、結界を維持したり、家の守り神とされているあやかしの様子を見たりといったことをしている。名家、旧家などと呼ばれるような家はあやかしとのかかわりがある場合が多く、守り神として変な物を祀っていたり、先祖が大妖と厄介な契約を交わしていたり、そうした契約を反故にして恨まれていたりと家ごとに事情は様々だ」


「へー。実はアンコちゃんから結構あくどいことをしているとかって聞いたんですけど、なんか普通な感じですね」


「ああ、あえてあやかしを祓わないことはよくあるな」


「え、なんでですか?」


「本当に問題を解決してしまったら仕事がなくなってしまうからな。依頼人には自分を狙っているのがとても強力な大妖で、祓い屋として名の知れた冷光うちでも一時的に追い払うのが精いっぱいだと思わせておけばいい。うちに見放されたらお終いだと思い込めば、うちとの繋がりを最優先で維持しようとする」


「杠葉は客の家にそこらの木っ端こっぱ妖怪が集まってくるように細工をしておいて、集まってきたやつらを定期的に祓いに行ったりもしておるぞ!」


「なるほど、それがアンコちゃんの洋服代になってるわけですか……」


「昔はそうじゃったかもしれんけど、アンコはアンコで結構金持ちなんじゃぞ」


「え? 杠葉さんの弟子って儲かるんですか?」


「杠葉の弟子はたぶんぜんぜん儲からんけど、アンコは……なんじゃっけ、ぶいちゅーば? しとるからな。いつもヤマコが帰った後に部屋で何時間か仕事をしておるが、結構儲かっとるみたいじゃぞ?」


「え、そんなことしてたんですか? よく知りませんけど、なんか動画を配信するやつですよね」


 動画配信って難しそうだし、そんなことができるアンコちゃんはやっぱり眼鏡をかけているだけあって凄いんだなと感心しつつ、海野邸の玄関の前まで戻ってくる。

 飛び石に濡れたような足跡がついていた。


「んん……? これ、さっきまでありませんでしたよね?」


 びしょ濡れの人が家の中から外に向かって裸足で歩いて行ったように見える。足のサイズはそれほど大きくなさそうなので、この足跡をつけた者が人間であれば女かもしれない。

 特に緊張した様子もなく、杠葉さんが当たり前のように言う。


「部屋も呪物も二つずつあったからな、さっきのやつ以外にもまだ何か居たのだろう」


「え、どうするんですか?」


「外へ出て行ったのならば戻ってこられないようにすればいいだけだ、それならそれで特に問題はない」


「そうじゃな。わちらについてくるなら叩きのめせばいいだけじゃし、そもそも冷光れいこうの屋敷には結界が張ってあるから入れんじゃろうしな。よその家に行ったなら行ったで、後でそこの住人からも依頼が入るかもしれん。そうなれば倍儲かるわけじゃな。まあ、倍儲かってもわちには報酬なんてないわけじゃが……」


 そう言って肩を落とすハッチーだが、何だかんだと杠葉さんやアンコちゃんに色々と買ってもらっているような気がしなくもない。

 ただハッチーが欲しがる物が食べ物ばかりなので、形として後に残らないだけなのではないだろうか?


「とりあえずあとは明日だ、一旦戻るぞ」


 そう言って車に向かって歩きだした杠葉さんの背を、私は両脇に壺を抱えたハッチーと一緒に追いかけるのだった。

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