迷霧

【 杠葉ゆずりは <●> ― <●> 視点 】



 日が昇り、廃屋はいおくの二階で出発の準備を整えた一同を前にして宣言する。


あらかじめ断っておきますが、こちらの指示に従わない方や、勝手な行動を取る方までを守る余裕は正直ありません。ただでさえ人数が多く事故などが発生しやすい状況ですから、慌てずにしっかりと一列になって歩いてください。できるだけけますが、トンネルや建物の中などといった暗い場所を歩くことになった際には、必ず前の人のリュックサックか肩に片手を置いて歩いてください。それと私語は謹んで、報告すべき情報があればすぐに報告してください。基本的に死霊しりょうなどは私か私の式神が対処しますが……これは一度だけ死霊やあやかしから身を守ってくれる護符ごふです。人数分きちんと用意してきております。皆さんに一枚ずつお貸しいたしますから、緊急の際も落ち着いてパニックを起こさないように徹してください。必ず我々が守ります」


 俺が東根ひがしね終日ひねもす以外の人たちに配っていると、ニヤニヤと口元を歪めた東根が「私はわかっているぞ」というような視線を向けてくる。

 だが、俺ができれば全員を生還させたいと思っていることも理解しているのだろう。さすがにこの場で口を挟んでくるようなことはなかった。

 実際、使わずに済めばいいが。


「……では、先ほど決めた順番通りに列になってください。小山田おやまださん、大丈夫でしたら出発してください」


 そう声をかけると、東根のファン集団のリーダーである小山田が「は、はい」と緊張した様子でうなずく。

 小山田が先頭で、その後ろに俺、東根、人形、その他の東根のファンたち14名、終日、ヤマコという順に並ぶ。万一東根のファンたちを切り捨てる決断をせざるを得なくなった際にも、この並びであれば人形以外は東根のファンにつかまれたりもしにくい。先ほど東根のファンたちに渡したもあることだし、とりあえず俺と東根と終日とヤマコは無事に列を離れることができるだろう。人形はわからないが、まあ他人の式神なんてどうでもいい。

 なお、小山田に先頭を頼んだのは道案内をしてもらうためだ。一応事前に地図を書いてもらったりしてルートを確認してはいるが、念のために彼に案内を任せることにした。


「で、では、行きます……」


 小山田がそう言って、ゆっくりと歩き出す。二階の大広間を出て靴を履き(大広間の中でだけ靴を脱いで過ごしていた。)、階段を下りて、玄関の引き戸を静かに開けて外に出る。

 実際のところ、17人も守りながらの帰還ともなると、うまくいくかは非常に怪しいところだ。この廃村をさまよっている死霊の一体一体は大した脅威ではないが、小山田たちから聞いた話によるとかなり数が多いようである。

 ヤマコは強力な大妖おおあやかしだし、人形も東根が太鼓判を押すだけあって死霊を封じる性能については申し分ないようではあるが、きっとどちらも俺の思った通りには動いてくれないだろう。勿論もちろんヤマコとて命令には従うが、一々指示を出していたのでは17人も守り切れないかもしれない。

 東根の式神である人形は仕方がないにしても、自分の式神であるヤマコを思うように動かせないというのはプロのはらい屋としては何とも情けなく感じるが、単にあれの頭が悪いだけなのかそれとも故意に俺をからかっているのかすらもわからないくらいである。今の俺にはどうすることもできない。思えば白髪毛しらばっけも思った通りに動いてはくれないし、仕事中に命令をしないでも必要な動きをしてくれるのは今のところ蜂蜜燈はちみつとうくらいのものだ。その蜂蜜燈も最近はヤマコが一緒だとヤマコに任せきりで仕事中もやる気がないし、普段はわがままばかりでむしろ一番手が掛かるのだが……白髪毛はまだ誕生して間もないし、ヤマコも式神としては歴が浅いから仕方がないと言えば仕方がないのかもしれないが、俺は式神を調教するのが下手なのかもしれないな。だからと言って、やめるわけにもいかないのだが。


 小山田が門を閉ざしていた針金を外し終えたので、一度列を離れて手鏡を使い門の左右に何も居ないか確認する。何も言わずに列を離れたが、俺の後ろは東根なので別に慌てたりもしないだろう。そういった意味でも都合がいい並び順だ。

 確認を終えて俺が列に戻ると、小山田が再び歩き始める。

 いくつもの廃屋はいおくの脇を通り過ぎて集落の奥へ奥へと進んでいくと、いつの間にか辺りは薄っすらとした霧に包まれていた。歩いて行くにつれて、周囲を覆う霧がどんどん濃く、深くなっていく。これでは死霊の接近を目で確認することも難しいかもしれないし、それぞれはぐれてしまう危険もある。

 俺は小山田の肩に手をかけて振り返り、「視界が悪いので、前の人の肩か何かをつかんでください」と列の後ろに指示を出す。

 すると、東根が俺のトンビコートのえりの後ろをむんずとつかんできた。呼吸が止まるほどではないものの、首がまって非常に不快だ。なぜこの邪悪な女は一々こうした意味のない嫌がらせをしてくるのだろうか? あくだからか。

 コートの首元を手前に引っ張って(左手は小山田の肩に置いているため、これで両手が塞がってしまった。悪のせいだ。)隙間を空けてから、小山田に小声でたずねる。


「前に来た時にも霧は出ていましたか?」


「は、はい……すみません、たまたまかと思って言わなかったんですが。でも、ここまで濃くはありませんでしたよ。こんなに濃い霧だったら怖くなって引き返していたと思いますし……」


 小山田が元気のない声でそう言うと、俺の背後で東根が誰にともなく問う。


「ふむ。ミストほど濃くはないが、スリーピー・ホロウくらいの濃さはあるか?」


「まさしく」

「ここがスリーピー・ホロウ村でござったか、フヒッ」

「あっ! たんぽぽの綿毛わたげだ!」

「式神を除いて、今ここには人間が18人……映画スリーピー・ホロウで首を斬られた人数も、確か全部で18人だったような……」


 などと、列の後方にいる東根のファンたち(+人形)が口々に言った。しかし、この集落が現世うつしよに実在していた頃にはそのような映画はなかったはずなので、最後のやつの考察はまったく意味がないように思う。

 その後もゆっくりとした歩調で進み続けたが、歩けば歩いただけ霧が深まっていった。

 そのうちに小山田が小さな声で言ってくる。


「前に進むのが怖くなってきましたよ、急に目の前にゾンビが出てきそうで……」


「確かに視界が悪すぎますし、ここからは私が先頭を歩きます。東根さん、小山田さんと先頭を交代するので一度手を離してください」


 そう言った途端とたんに襟を後ろに思い切り引っ張られて、「グェッ」と思わず声を上げてしまう。なぜ手を離す前に引っ張る必要があったのかと振り返って怒りに任せて問いただしたい衝動に駆られたが、しかし心の中で仕事中だし油断できない状況なのだからと自分に言い聞かせてどうにか衝動を抑え込む。

 すると列の一番後ろから、「グェッて、今のゲップみたいなのもしかして杠葉ゆずりはさんでした? なんにもないところでいきなりゲップするなんて、おじさんみたいですね」というヤマコの声と、「パパ上うえもよくゲップをするでござるよ」と答える終日ひねもすの声がかすかに聞こえてくる。

 東根にもヤマコにも腹が立つが、しかし、こいつらに対して怒ったところで仕方がない。東根はきっと余計に面白がるだけだろうし、ヤマコは大げさに泣いて謝ってみせるもののまたすぐに同じようなことをする。証拠がないためそうと決めつけて怒ることもできないが、まるでわざとやっているみたいにだ。俺のことを馬鹿にしているとしか思えないし、実際そうなのだろう。なぜならば邪悪だからだ。

 ともあれ、実際のところこうも霧が濃くなってしまってはもう案内も何もなさそうだったので、とりあえず小山田と列の先頭を交代する。視界がかない以上、霊力れいりょくやら妖力ようりょくといったものを感知できる俺が一番前を歩いた方が安全なことも確かである。

 後ろの方で誰かが、「あの、霧が晴れるのを待ちませんか?」と控えめに声を上げた。

 だが、待っていれば霧が晴れる保証もなければ俺たちには時間の余裕もない。どっちみちあまり長く待つことはできないし、すぐに霧が晴れるとも思えなかったのでこのままもう少しだけ歩いてみることにした。どうしても無理なようであれば諦めるが、多少の無茶はせざるを得ない状況だし、せめてくだん石段いしだんとやらをこの目で確認したい。

 東根がくつくつと笑って言う。


「霧が晴れた時には我々全員、サルナスの民のように水蜥蜴とかげになっていたりしてな」


「ちょ、冗談でもやめてくださいよ」

「あながちなくもないですよ、だって六ツ尾むつお集落は現実には水没しているんですから……サルナスを滅亡に追い込んだあの霧って、確か湖から発生していましたよね?」

「あっ! ダンゴムシがいる!」

「この霧って、神ボクラグの仕業なんですか?」


 などと東根のファンたち(+人形)がそれぞれに反応して(というか、この状況でよくダンゴムシなんて見つけたな)、最後に誰かが、


「千年後に発動する呪いなんて、我々人類からしたら遅すぎますよね。長生きと噂の大妖さんはどうお思いですか?」


 と、ヤマコに話を振った。

 ヤマコが困惑した風に言う。


「猿、茄子? 僕らグー? なんですかそれ?」


「ボクラグは大地の神とされていますが――」


 俺は後ろを振り返り、ヤマコに向けられた神やら何やらといった分野では一応の専門家である俺も知らない謎の神の説明をさえぎって言う。


「静かに」


 前方に大量の死霊の気配を感じる。

 立ち止まってまぶたを閉ざし、集中して周囲の気配を探る。

 列の一番後ろから、「喋るなって言っておきながら、なんだかんだ杠葉さん自身がちょいちょい喋っていますよね」と言うヤマコの声と、「シーでござるよ」と言う終日の声が聞こえてきて今すぐにこの場で暴れてやりたい衝動に駆られたが、苛立ちをぐっと抑えて気配を探ることだけに専念した。


「………………」


 小山田たちから聞いていた通り、やはり大量の死霊が集まっているようだ。

 以前と同じ場所に集まっているのであれば、もう少し歩けば例の石段とやらに辿たどり着くのだろう。霧は深いものの、きちんと向かおうとしていた方向に進めていたらしい。こちらを迷わせるための霧、もしくはまた別の亜空間へと通じる霧かもしれないと警戒していたが、どうやら違ったようだ……だからと言って、俺たちを水蜥蜴とやらに変身させる霧でもないだろうが。

 それにしても、先ほどからヤマコは俺に声が聞こえていないと思っているのか、それとも聞こえよがしに言っているのか、果たしてどちらなのだろうか。いずれにせよ、落ち着ける場所があればとりあえず一発殴っておいた方がいいかもしれないな。最近気がついたのだが、拳骨げんこつを食らわすとその後数時間くらいは割と大人しくなる気がする。だが、ヤマコほどの大妖ともなれば人間の拳骨なんてまったく痛くもないだろうに、なぜ効果があるのだろうか? もしかしたら、殴りつけでもしないと俺が怒っていることが伝わらないのかもしれないな。ヤマコを見ているとその見た目や言動からどうしても人間ぽく感じてしまうが、実際はまったく違う存在なのだし、人間の感情がまるでわからないということは十分にありえそうだ。いつもどこかズレているしな……と、思考がれてしまった。ヤマコのことは後ほど殴れるタイミングがあれば殴るとして、ここでぼんやりとしているような暇はない。


「やはり、大量の死霊が集まっているようです。もう少し、できれば見えるところまで近づいて様子を見てみましょう。ここからは今まで以上に慎重に、大きな音などを立てないように気をつけて歩いてください」


 振り返って後ろの面々にそう言い聞かせて、俺は再び前を向いて歩き出す。

 死霊どもの気配が溜まっている場所を目指して、慎重に、ゆっくりと歩を進めていると、先ほどよりも若干霧が薄くなってきたような気がした。何となく石段とやらへ近づけば近づくほど霧が濃くなるのかと思っていたが、そういうことでもないらしい。こういう時、霧が薄れた代わりに今度は別のもっと悪い現象が起きなければいいが、なんてことを思ってしまうのは俺が暗い人間だからだろうか? しかし、死霊やあやかしといった怪異や、よその祓い屋なんて連中を相手に仕事をしていると、事実として悪いことばかりが起こるのだから仕方がない。悪い予感はよく当たるし、良い予感はそもそも生じなくなる。犬も食事のたびに殴られたらそういうものだと学習する。

 そういえば、母親がまだ生きていた頃には実際に犬のような生活をさせられていたな。あの女はしょっちゅう俺を外に閉め出して放置したし、俺の分の食事はいつも床に撒かれた。俺が涙をこぼすと、それも舌で舐めるように強要してきた。泣きながら床を舐め続ける俺を見て、蜂蜜燈はちみつとうが「おぬしは飯がもらえるだけまだマシじゃろう。わちなんて外で虫とか喰っとるし、こないだなんてこっそりと台所の生ごみを漁っとったらバレて舌を引き抜かれて再生するのに丸三日かかったわ」などと言ってきて、下には下がいるものだなと思ったものだ。

 何にせよ今でも不思議なのが、あの女が最後に俺を庇って死んだことだ。そのせいで、未だに俺はあの女に対して何を思えばいいのかもわからない。憎めばいいのか、それとも感謝すればいいのか……東根と居ると、見た目が少し似ているせいかどうしてもあの女のことを考えてしまう。そもそも東根は性悪な上に悪趣味だが、しかし俺が東根のことを苦手に思う最大の要因はやはり、こうして母を思い出してしまうからだろう。

 もしもまだ母が生きていたとしたら、俺と母の関係はどうなっていたのだろうと時々考えてしまう。あのまま時を重ねて悪化していたのか、それとも何か違っていたのか……。


「ぐっ……」


 風に乗り、鼻をく悪臭が前方から流れてきた。毎回ではないが、死霊が現れた際にたまにぐことがある臭いだ。髪の毛が焼けたようなげ臭さに、アンモニアのような刺激臭を加えたような……ただでさえ嫌な臭いだと言うにもかかわらず、いかんせん死霊の数が多いせいかとにかく強烈だ。

 皆できるだけ音を出さないように気をつけているのだろうが、それでも後ろの方から誰かが咳き込む音がした。

 悪臭に耐えながらも前へ前へと進んでいくと、少し霧が晴れてきたこともあってか、前方にゾンビのような姿をした死霊が群がっているのが薄っすらと見えた。しかも都合が良いことに、そのすぐそばにぼろぼろだが二階建ての廃屋はいおくがある。多分、あそこの二階からであれば石段や死霊の様子をもっと詳しく確認することができるだろう。俺たちが廃屋に入った後で、死霊どもが押しかけてきたら最悪だが……幸いなことに奴らは足が遅いようなので、気をつけていれば逃げられなくなるようなことはないはずだ。

 死霊どもを目の前にして、後ろに何も伝えることなく黙って廃屋へと向かう。多少は皆困惑したかもしれないが、そもそもそのまま死霊の大群の中に歩いて突っ込んで行くのではないかと焦っていた様子もあったので、むしろホッとした者の方が多かったかもしれない。

 幸いなことに廃屋の玄関戸には鍵がかかっておらず、ただ引くだけで簡単に開いた。東根の話によるとこの集落がなくなったのは昭和初期ということだったので、その時代の地方の村などに玄関の鍵をかける風習なんてなかったはずだし、特に運が良いというわけではなく施錠されていないのが当たり前なのだが。

 土足のまま廊下に上がり、全員が揃っているのを確認してから抑えた声で「ヤマコ」と呼びかけると、「あ、はい」と答えて一番後ろに突っ立っていたヤマコがもたもたと歩いて来る。音を立てないように気をつけているというよりは、単に面倒くさがっているような感じに見えた。


「なんですか?」


「まずはこの廃屋の安全を確かめて回る、ついて来い」


「二人だけでですか?」


「大して広くもない屋内を大人数で歩き回るのは危険だ……そういうわけですので、申し訳ございませんが安全を確認できるまで皆さんはここでお待ちください。急いで済ませますので」


 他の面々にそう断って、ヤマコを連れてまずは一階の各部屋を見て回る。土間床のくりやを確認して、板張りの居間を確認していると歩きながらヤマコが言う。


「そういえば今朝、ニシキリアンの人に『お二方ふたかたともずいぶんと着古したスウェットを着ていますけど、人間のかたはともかく、式神のかたは服を買ってもらえないんですか?』って聞かれちゃいました……恥ずかしかったです」


「服が欲しいのならば買えばいい、金は渡しているだろう」


「それがですね、なぜか全然お金が残らないんですよね。なんとなく計算してみた感じですと、まず結構な額がお菓子に消えていそうでしたけど、そもそも私よりも冥子めいこちゃんが使っている額のほうがずっと多いような気がして……どうしてこんなことになっちゃってるんでしょうか?」


「俺が知るわけないだろう」


「冥子ちゃんって、急に『出っさなっきゃ負っけよ~じゃんけんぽ~ん!』ってじゃんけん勝負を仕掛けてきたりするんですけど、なんでかわかりませんけどいつも私が負けて、その度に千円取られるんですよね……あんまり疑いたくないですけど、やっぱり冥子ちゃんが何かズルをしているんですかね?」


「知らん」


 と反射的に言葉を返したものの、何日か前に蜂蜜燈が戦利品と言って杏子あんずに菓子を見せびらかしていた際の様子を思い出す。

 確か、『ヤマコは最初にいつもチョキを出して、そのあとはパー、グーという順番でループしていくからのう、馬鹿じゃよな。ヤマコを相手にじゃんけん勝負で勝つのはほんと、赤子の手をひねるよりもたやすいのう。じゃって、赤子の手を捻るのはちと罪悪感というか、そういうのが邪魔してやりにくいじゃろ? その点、ヤマコが相手なら心とか痛まないしの! かっかっか!』とか言っていた。

 まあ、思い出したからと言ってわざわざ教えてやろうとも思わない。そもそもヤマコのことだ、どこまでが本気でどこからが演技なのかもわかったものではない。故意に負け続けているという可能性だって十分にありえる。きっと蜂蜜燈がここだけは絶対に負けたくないと心底思っているような場面で、不意に最初からパーを出すに違いない。いかにも邪悪なヤマコがやりそうなことだ。


 一階をすべて確認し終わり、今度は手すりも付いていない急勾配こうばいの階段を、痛んだ踏板ふみいたを踏み抜かないように気をつけながら慎重に上がる。築年数が百年を越えるような古い建造物の階段というのは大抵そうだが、踏面ふみづらがやけに浅い上に蹴上けあげがやけに高くて使いにくい。怪異などとは関係なしに身の危険を感じる造りだ。


「ひええ……な、なんか怖い階段ですね?」


 すぐ背後からヤマコの弱々しい声がして振り返ると、ヤマコがうような体勢で階段をずりずりと上がってきつつ、手を引いてほしいということなのか俺に向かって右手を差しだしてきた。

 とは言え、落ちた時に危険なのは大妖であるヤマコではなく人間である俺の方なので、無視して階段を上る。


「ま、待ってくださいよ、置いてかないでください。なんでこんな階段なんですか、ここ? なんかの罠なんじゃないですか? たとえば誰かがこの階段を上ろうとしたところをどうにかして殺しちゃうみたいな感じの、凄く凶悪な……」


「ある程度古い家の階段はどこもこんなものだ。仕事柄、建築物についての知識があると便利だから空いた時間に昔の家について書かれた本などを読むことがあるが、そこには昔の人は二階があってもあまり利用しなかったため邪魔にならないように階段スペースを狭くしたと書かれていた」


 そうは書かれてはいたのだが、俺としてはあまり納得がいかない。なぜならば老舗しにせ旅館などといった上階を頻繁ひんぱんに利用していたであろう建物の階段も同じように急勾配だからである。

 一昔前の人はとても小柄で、江戸時代の女性の平均身長なんて143センチしかなかったらしい。となると、当然足も子供のように小さかったはずだ。なので、踏面が浅いのは多分それが理由なのではないかと個人的には思っている。踏面が深いと、一歩で一段を上れずに厄介だったのではないか、と。

 蹴上が高い理由については、それこそ階段に取られるスペースを小さくしたかったのかもしれないが、階段をあまり使わないからなんて理由では勿論なかっただろう。昔の人は現代人と比べて胴が長く足が短かったようだから、当然体の重心も低かったはずだ。なので、急勾配の階段でもバランスが取りやすく、あまり恐怖を感じなかったのではないだろうか。

 まあ、もっと単純なことで、急勾配の階段がかっこいいみたいな風潮があったという可能性もなくはないが。何にせよ、二階を使うつもりがないのであれば最初から二階なんて造らないだろう、見栄っ張りの金持ちばかりではないのだから。


「杠葉さんってお仕事してるか何か考えてるか本を読んでるかって感じですけど、ちゃんと体を動かしたり人とコミュニケーションを取ったりもしたほうがいいと思いますよ? なんか、なんて言いますか引きこもりのオタクっぽいですから」


「遊んでいるか何も考えずに呆けているか東根の小説を読んでいるかのお前に言われたくはない」


「私は最近は山で山菜をったりもしますし、遊ぶのだって弓矢ゆみやちゃんやバッケちゃんやハッチーと庭で遊んだり、学院でもねるこちゃんやもなかちゃんなんかと校庭でタコ凧揚たこあげしたり駆けまわってますよ。コミュニケーションもいっぱい取ってますし。人とまともにコミュニケーションを取ることができない杠葉さんとは、そこらへんが違うんです」


「一応確認しておくが、階段から蹴り落としてほしくてわざと言っているのか?」


「えっ、蹴り落とすとか急に怖いこと言わないでくださいよ!? 図星を突かれると逆ギレするの、ほんと良くないですよ? そういうところを矯正きょうせいしていくためにもですね、やっぱりコミュニケーションをちゃんと取っていかないとダメなんですよ、杠葉さんは!」


「黙らないと本当に蹴り落とすぞ?」


「あ、はい。ごめんなさいでした、黙ります」


 俺が怒るのは逆切れではないと思うし、それこそ今が仕事中でなければ本当に蹴り落としてやったところだが、ひとまずこの苛立ちは忘れてやることにした。とにかく手早く屋内の安全を確かめて、それから死霊の大群をどうするかを決めなくてはならない。

 ……しかし、本当にヤマコは一々腹立たしい反応をするな。正直、狙ってやっているとかしか思えない。

 階段を上り切り、ぼろぼろのふすまを開けるとそこそこ広い板張りの部屋があった。障子しょうじの向こうが広縁ひろえんになっているようだが、二階にはどうやらこの一室だけのようだ。いたる所に物が散乱しており、部屋の隅に置かれていた階段箪笥には刀で斬りかかったような大きなきずが付いていた。まるで日本刀を持った何者かが暴れたかのような惨状だったが、しかしこの部屋にも死霊などといった怪異の姿は見当たらない。


「よし……一応の安全は確認できたから、ひとまず他のやつらを呼びに戻るぞ」


「はーい」


 障子を少し開けて外を見ていたヤマコが気の抜けた返事をして、間延びした動作でこちらへとやって来る。

 何と言うか、やる気とかそういったものがまるで感じられない。

 ああ、そういえばここは『落ち着ける場所』と言ってもいいかもしれないな。勿論、この集落の中に限ったらの話ではあるが。


「そうだ。ヤマコ、ちょっと待て」


「はい? どうしたんですか?」


 きょとんとした顔をして見上げてきたヤマコのひたいを、俺は何も言わずに拳で殴りつけた。

 まずヤマコの額に拳が当たりゴスッという鈍い音がして、殴られた勢いでヤマコが後頭部を襖にぶつけてボゴンッとまた音が鳴る。ヤマコが「ふぎゃっふ!!?」と妙な悲鳴を上げた。

 両手で額と後頭部をそれぞれ押さえてうずくまったヤマコを見下ろして、短く命じる。


「よし、行くぞ。ついて来い」


 蹲ったままの姿勢で、ヤマコが小刻みに声を震わせてたずねてくる。


「な、なんで、と、突然に、こんな、暴力を……?」


「落ち着ける場所があれば殴っておこうと思っていた」


「なんですか、それ……? 意味わかんないです……」


「何でもいいから早く立て、行くぞ」


「うう……杠葉さん、嫌い……」


 ごにょごにょと文句を言いながらもヤマコが立ち上がる。目尻が湿っているが、まさか涙を流したのだろうか?

 蹲っている姿もまるで人間が痛みをこらえているかのようだったし、普段は色々とズレているもののこういった演技は本当に上手いと思う。

 とは言え、何だかまだ動作が鈍いな。

 もう一度殴っておいた方がいいだろうか?



【 山田 (●) △ (●) 視点 】



 なんでかわからないけど、いきなり杠葉ゆずりはさんにおでこをグーでぶたれた……しかもそのせいで後ろ頭を襖に思い切りぶつけて、そっちも地味に痛い。

 前々から思ってはいたが、やっぱり杠葉さんには可愛い年下の女の子に暴力を振るって泣かせたいみたいな、そんな感じの歪んだ欲望があるような気がする。ほんとのサイコパスは東根先生じゃなくて杠葉さんの方なのかもしれない。

 一階で待っていた全員が二階へと上がってきて窮屈になった部屋の隅っこで、膝を抱えて悲しんでいる私にねるこちゃんが声をかけてくれる。


「山田、大丈夫でござるか? なんだか泣きそうな顔をしているでござる」


「悪いことなんてしてませんのに、杠葉さんに急にぶたれたんです……いいですか、ねるこちゃん。杠葉さんには気を許しちゃいけませんし、絶対に二人きりとかになっちゃダメですよ? 本当に何をしてくるかわかりませんから……あの人、可愛い年下の女の子が苦しんでいる姿を見るのが何よりも好きなんです。ハッチーのこともよく殴っていますし絶対そうです、間違いないですよ……」


「なるほど、殴るのはひどいでござるな。いくら妖怪だと言っても山田氏は女の子でござるのに」


「妖怪じゃありませんけど!?」


「あ、そうでござった、山田氏は人間でござったな。大丈夫でござるよ、それがし結構口は固い方でござる」


「ぜんぜん信じてくれてないじゃないですか!?」


 しかも、どちらかというとねるこちゃんの口は柔らかい方なのではないだろうか? 今だって妖怪って普通に言ったし……。

 広縁に出てゾンビたちを眺めていた東根先生が、なんだか恍惚とした様子で「いやあ、ゾンビ好きとしては壮観な光景だな。素晴らしい……」と呟く。その一方で、幸いなことにと言うべきか製作者の感性が受け継がれなかったらしく、どうやらゾンビがあまり好きではないらしい小夜さよちゃんが東根先生の元を離れて私たちの方へとやって来る。


「やっほー! 列になってるとヤマダヤマコたちと話せないから寂しかった、たんぽぽの綿毛とかダンゴムシとか色々見つけたんだけど!」


「あ、私もオオイヌノフグリとか見つけましたよ」


「えっ!? 何それ、大きい犬!?」


「オオイヌノフグリって名前の野草ですよ、青くて小っちゃい、かわいらしいお花が咲くんです」


 知識が豊富な私が無知な小夜ちゃんにかわいい野草の名前を教えてあげていると、私の隣に立っていたねるこちゃんが言う。


「知っているでござるか? フグリって金玉のことなのでござるよ」


「えっ!? なんでそんな名前になっちゃったんですか!? あんなにかわいいお花なのに!」


「大きい犬の金玉!? 気になる!」


 と、私と小夜ちゃんがほぼ同時に声を上げた直後に、杠葉さんが苛ついた感じの声で「静かにしろポンコツ式神ども」と言い放つ。

 きん――下品な発言をしたねるこちゃんではなく、なんで私が怒られたんだろう……? 杠葉さんは年下のかわいい女の子をいじめて泣かせるのが趣味だから、集中砲火される私はつまり杠葉さんの好みドンピシャということなのだろうか?


 軽く咳払いをして、杠葉さんが話し始める。


「見たところ石段の下には多くの死霊が集まっているものの、石段を上がる様子はまったくありません。視界が悪い上に石段自体がとても長いようで、上に何があるのかはここからでは確認できませんが……皆さんがおっしゃっていたように、おそらくはこの不可解な空間から現世うつしよへと戻るための出口があるのだろうと思います。死霊たちは石段を上ることができないのか、それとも私たちが行けば追って来るのかはわかりませんが、どちらにしてもまずは奴らをどうにかしなくてはなりません。皆さんを守りながらあれだけの死霊を祓うというのはあまり現実的ではありませんが、おそらく私の式神単体であれば危険なくあれらを祓うことができるはずです。ですので、再び移動を開始するより先に、まずは私の式神にすべての死霊を祓わせます」


「へっ!? 一人じゃ無理ですよ無理無理無理、絶対に無理です! だってさっきちらっと障子の間から外を見ましたけど、めちゃくちゃ沢山いましたもん! あんなに沢山引っぱたいて回るスタミナ、私にはありませんって! 私だってお腹ペコペコなんですからね!?」


 などと反論するも、ニシキリアンの人たちは一週間も食べていないんだっけと思い出して横目で彼らの様子を窺ってみる。

 もじゃもじゃ頭の人と目が合った、なんだか怯えた顔をしている。


「フ、フヒッ……た、食べないでほしいでござるぅ……」


「食べませんよ!」


 広縁から室内に戻ってきた東根先生が軽く左手を挙げて、「ちょっと待ってくれ」と杠葉さんに声をかける。

 もしかして、私の援護をしてくれるのだろうか? そうしたら八王子城だったか? そこに行くくらいなら付き合ってあげてもいいかもしれないな……。


 ニシキリアンの人たちを順繰りに眺めて、東根先生が言う。


「お前たち、全員免許証か何か持っているだろう? 出せ」


「え、あ、はい……」

「よいでござるよ……フヒ」

御大おんたいのお言葉には勿論従いますが、なにゆえですかな?」


 ニシキリアンの人たちは若干戸惑いつつも、他ならぬ東根先生の命令だからか素直に免許証などを取り出して東根先生に手渡していく。

 すると、東根先生が受け取った15人分の免許証などをスマートフォンのカメラでカシャッ、カシャッと撮影しながら言う。


「昨夜は言い忘れたが、私はお前たちを助けるために冷光れいこうに200万円の借金をしている。生還した者たちで割って支払ってもらうから、払う意思のない奴や返済能力のない奴はここに残るように」


「ああ、なんだ、そういうことでしたか。いったいどんなことに使われるんだろうと思いましたよ」

「そりゃあ払いますよ、そもそも我々だけでは出られませんし」

「15で割れば10万ちょっとでござるから、日雇いでどうにかできそうでござるな……働きたくはないでござるが、死にたくもないでござるから仕方ないでござるな、フヒッ」


 広縁からゾンビたちを監視していた――確か小山田さんといったか――リーダーの人が振り返り、「手持ちがないので、帰宅次第振り込みますからあとで振込先を教えてください」と言うと、自分から金を払えと言い出したくせになぜか東根先生が「ぐっ……!」とうなる。

 そういえば東根にしきという名前はいわゆるペンネームであって、本名じゃないんだよな。ラインの名前も東根となっていたし、本当の名前が気になってきた。


「あの、今さらなんですけど、東根先生の本名ってなんていうんですか?」


 そう私が訊ねると、東根先生が「ぬぐうっ!」と叫んでもだえた。


「え、なんですかその反応? もしかして聞いちゃいけないことでした?」


「う……いや、そうだな。振込先の口座は教えなければならないしな……」


「なんなんですか、もう。名前を教えるくらいのことでそんなにもったいぶらないでくださいよ」


「……玉木たまき珠姫たまきだ。ギョクという字に樹木のモク、真珠のジュにヒメと書く」


「えっ、なんかキラキラした感じですし凄い韻の踏み方をしてますし、そっちの方がペンネームっぽいじゃないですか。少女漫画とか描いてそうなお名前ですけど、ほんとに本名なんですか?」


「ああ。なんでも親が、私が生まれた際に占い師だか何かから『この子は結婚しないね、絶対にしない』と言われたらしくてな。ならば結婚したくなるような名前にしようということになって、苗字を変えなければ一生ペンネームのような名前で生きていくことになる呪いをかけられたんだ」


「ぷふっ!」


 それにしても可愛い名前だなと思い、我慢できずに噴き出してしまったら東根先生が凄い怖い目をしてにらんできたので、息を止めて頑張って笑いを堪える。

 代々呪いに関わる仕事をしてきた家なだけあって、凄い呪いのかけ方をするものである。


「私の名前の話はもういいだろう、話を戻すが……ヤマコ、本当に一人ではゾンビどもを押さえられないのか?」


「無理です無理です体力が持ちません!」


 私が顔の前で両手をぶんぶんと振りながら言うと、東根先生が悲痛な顔をして言う。


「そうか……まあ、他人の式神に無理強いするわけにもいかないしな。仕方ない……小夜、ここでお別れだ」


「が……がってん、合点がってん承知しょうちすけぇ……」


 と、小夜ちゃんがめちゃくちゃ悲痛な声で返事をして、目尻に大粒の涙を浮かべる。

 状況がわからない私は、混乱しつつも東根先生に訊ねる。


「えっ、えっ!? お、お別れってどういうことですか?」


「あれだけの量の死霊を封じれば、もはやパーツの交換では済まないだろう。小夜にはここで壊れてもらう。何、案ずることはない。喋ったり遊んだりはしていても小夜は元は私が作った人形だし、そもそも式神は道具だからな」


 そう言って東根先生が目を伏せる。


「そうだね、お母さんの言う通りだよ。人を助けて壊れるのなら、小夜としては本望だよ……ううっ、ぐすっ」


 小夜ちゃんが泣き出した。


「小夜っ……! すまない……お前は私の、自慢の娘だ」


「お母さんっ……!」


 私の目の前で、二人がギュッと抱き合う。


「えっ、え……ず、ズルくないですか!? こんなの見せられたら、私がやるしかなくなっちゃうじゃないですか!? ず、ズルですよズル! 違反行為です!」


「なんだ? 小夜の代わりにヤマコがやってくれるのか?」


「お願い、ヤマダヤマコ……小夜、ほんとはもっとお母さんと一緒にいたい……!」


「う、ううっ……ひ、卑怯だ! 卑怯だけど、わかりました! やればいいんでしょう!? 私がなんとかしますよ! 怖いですけどね!? やりたくないですけどね!? だって、実際この流れで小夜ちゃんが死んじゃったら、なんか私もずっと引きずりそうですし!」


「そうか、恩に着るぞ!」


「ヤマダヤマコ、ありがとね! ほんとにありがとう!」


「なんだか、すっごくモヤッとします……」


 もはややると言う他なかったからやるとは言ったものの、やはり納得がいかない心境でぼやいていると、杠葉さんが「茶番は済んだか? ならば早速さっそく行ってこい」と言ってくる。

 今のでますますモヤッとしたぞ。あと、さっき急に無意味に謎に暴力を振るわれた件についても忘れてないからな?

 じとっとした目で杠葉さんを見ていると、「邪悪なを向けるな、けがらわしい」と言われて、ジェスチャーでしっしっと追い払われた。

 ……なんだろうなこの扱い、さすがに女子高生に対する扱いじゃなくないか? ちょっと泣きそうになってきた。


 広縁にいた小山田さんが、唐突に声を上げる。


「え、水がっ!?」

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