晩夏のアンネセサリー

福津 憂

晩夏のアンネセサリー

 どこにでもいる女の子だ。誰もが一度は目で追ったことのある、隣の教室の彼女、隣の部署の彼女、隣の車両の彼女。僕の目の前で花が咲くように笑っている彼女も、どこにでもいる綺麗な女の子のうちの一人だった。


 夕方の授業が終わり、人影もまばらになった教室の中では、効きの悪い冷房の風と、開かれた窓から流れ込む生温い空気が、僕の鼻先で混じり合っている。教室の後ろ側、窓際の席に着いて文庫本を開いていた僕は、栞代わりのレシートをページの間に挟み、視線を前に向けた。ゆっくりと、不自然に見えないように。


「それから……」机の天板に両手を置いたその女の子は、椅子に座っているもう一人の女子生徒に向かい、高揚した調子で話しかけている。制服のブラウスに負けないくらい白い肌と、肩の上まで伸ばした黒い髪。彼女のことは数回見かけたことがあった。数回見かけた、と言うよりは、偶然視界に入ったことが一回。その他は半ば意図的に、僕は彼女を見ていた。


 誰にだって経験のある話だろう。それは主に引っ込み思案な十代に特有の行動で、彼らはそのすれ違いざまの一瞬で恋をするのだ。一目惚れ、なんて言う言葉を彼らは使わない。誰に相談するでもなく、彼らの心の内にひっそりと芽生えた恋の苗木に、盗んできた有り合わせの水滴を垂らすのだ。僕はきっと彼女に恋をしていた。けれど、彼女の名前はおろか、その声すらも、僕はこの日初めて知ったのだ。

 

 彼女はおそらく、この夏の思い出を話している。海水浴がどうとか、新しい水着がどうとか、課題がどうとか。会話には時折、男性の名前も混じっていた。僕に聞き覚えのないその名前は、きっと他のクラスの運動部か、予備校の同窓生か、何歳も年上の落ち着いた男性のものなのだろう。僕は文庫本をリュックサックの小さなポケットに滑り込ませると、代わりに携帯を取り出した。絡まったイヤホンを解き、両耳に嵌め込み、適当なロックを再生する。バッキングギターがコードをかき鳴らし、英国訛りが強く、歌詞を聞き取ることのできないボーカルの声が流れ出す。中庭から飛び出していた蝉の鳴き声も、同じパートを何度も繰り返している吹奏楽部の演奏も、想像していたより少し低い彼女の声も、何も聞こえなくなった。このイヤホンは、僕なりの配慮であると同時に、僕が僕自身に被せる麻袋だった。


 僕は窓の外に顔を向ける。高層ビルのような入道雲が一つ、向かいに立った校舎の屋上に座り込んでいた。雲と青空に反射した日差しは、窓ガラスによって収束され、僕の顔中の皮膚を焼いている。僕は夏が嫌いだ。冬の終わりに生まれた僕には、これと言って幸せな夏の記憶などなかった。夏が終わり、あの不自然なほどに澄んだ空を思い返すとき、僕の記憶から浮かんでくるのは、偽物の懐かしさか、ありきたりな幸福ばかりだった。打ち付ける波に飛び込んだときに感じる塩気も、果汁を冷やし固めただけのアイスキャンディーを口に入れたときの、あの歯の浮くような軋みも、全部そうだ。どれだけ挙げても尽きないような夏の記憶は、どれが僕のもので、どれが他人からの受け売りなのか、もう僕にはわからないでいる。記憶によって極度に美化された夏は、僕が新たに筆を加えることを許さない。夏は排他的であり、それでいて既に完成された美しさを持っている。だから僕は夏が嫌いだ。


 不意に肌寒い風が吹いた。僕は俯いていた顔を上げる。九月も半ばになり、日が落ちかけると、こう言った冷たい風が窓の隙間から流れ始める。暑さで溶けた窓ガラスは元のような平面となり、歪んだ線路は直線に戻る。カーテンを押し退けて吹く風を受けた彼女の髪は、光の尾を残して飛び去る彗星のように靡いていた。

 

 もう少しで駅に向かわなければならない。僕はイヤホンを外し、それを手荒にポケットへと押し込む。椅子を引いて立ち上がり、乱れたシャツの裾をズボンの内側へしまった。リュックサックの紐を肩にかけた僕は、蝉の鳴き声が止んでいることに気が付く。窓際に立つ彼女の視線がこちらを向いていることにも。僕と目があった彼女は、小さな笑顔を浮かべ、軽く頷いた。僕は同じように会釈を返し、教室を出る。


 外気と同じ廊下の熱気が、僕にシャツのボタンを一つ外させた。ガラス窓越しの彼女は、教室の向こうで弾けるように笑っている。紫外線と不戦協定を結んでいるような彼女が、幸せそうに笑っている。僕は彼女のことを知らない。彼女にも苦しみはあって、それを一瞬でさえ忘れることができず、それでも笑っているのかもしれない。けれど、僕は知っている。僕がどうあっても、何をしようと、どれだけ苦しもうと、彼女の笑顔には少しの変化も与えない。彼女は僕がいなくても美しい笑顔を浮かべ続ける。


 彼女にも、そして僕が持つ夏の記憶の美しさにも、僕は全く不必要なのだろう。

だから僕は夏が嫌いだ。

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晩夏のアンネセサリー 福津 憂 @elmazz

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