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「視野や視力や色覚に異常がなく、黒猫の影が左目の視界に現れるだけというのは実に奇妙ですが、やはりここは無難なところで、安芸山さんの感じている視覚異常の正体は解離性障害の一種、すなわち精神的ストレスによるものだと考えるしかない気がします」
「ストレス、ですか?」
「車で猫を轢いてしまって、とてもいやな気持ちになったでしょう?」
「当然です。山道でいつものように車を走らせてたら、突然何かにぶつかってドン!で、次の瞬間にはフロントガラス越しに黒猫の体が吹っ飛ぶところが見えたんですよ。気分がいいわけありません」
「轢いた猫がどうなったか確認しましたか?」
「一応、車を止めて探してみましたよ。しかし、ガードレールを飛び越えて、森のほうに落ちたみたいで、見つかりませんでした。なので、そのままそこを離れました」
「その夜に乗っていた車はどうしましたか?」
「気味が悪いのでもう廃車にしてしまいました。今は違う車に乗っています」
「なるほど。さすがは社長さん、お金持ちです」
ウロマはふとにやりと笑った。そして、事務机の一番上の引き出しから、おもむろに小さな小瓶を取り出した。目薬のようだった。
「話はおおよそわかりました。どうぞこれをお使いください」
「これは?」
「視野の歪みや視界の欠落を補正し、クリアにする目薬です。画像修正ソフトのようなものだとお考えください。光視症や飛蚊症や閃輝暗点など、軽度の視覚障害に有効です。もちろん、猫の影が視界に泳ぐ程度のものに対しても、ね」
「そんな薬があったのですか」
「まあ、一般には出回っていないものです。なにぶん、副作用があるので正式な薬としては認可されなかったのですよ」
「副作用?」
「なに、少し変わった夢を見ることがあるというだけです。副作用としては、実に軽いものです。単に、薬の成分がどう副作用を引き起こしているのか、そのメカニズムが解明されなかったので、認可されなかったというだけなのです。普通に使う分にはまったく問題ありません……まったくね」
ウロマは目薬を持って立ち上がり、隆一にそれを手渡した。半ば強引に押し付けるように。
「せっかくなので、この場で使ってみましょうか」
と、さらに勝手に隆一の左目の封印のテープをはがすウロマだった。
「わ、わかりました」
隆一はやや戸惑いながらも、ウロマに従った。まず左目を開け、すぐに視界に黒猫の影を確認したらしく、「うわ、ここにも出るのか!」と叫んで身を萎縮させたが、やがて決意したように、ウロマから渡された目薬を左目にさした。勢いよく。
「どうですか、安芸山さん。黒猫の悪霊はまだ見えますか?」
「いえ……どこにも……」
隆一は周りをきょろきょろ見回しながら答えた。目薬の効果にひどく驚いているようだった。また胡散臭い薬を使われたものだなあと、灯美は思わずにはいられなかったが。
「それはよかった。その目薬はあなたに差し上げます。毎日一回、左目にさしてください。それでもう、黒猫の影は左目に現れることはなくなるでしょう」
「本当ですか! ありがとうございます。助かりました!」
隆一はウロマに深々と頭を下げた。そして、「何かあったらまたここに来て下さい」とウロマに言われたのち、カウンセリングルームを出て行った。
「先生、どうせまたあの目薬に何か嫌な仕掛けがあるんでしょう。軽い副作用って言ってましたけど、実はひどい悪夢を見るみたいな」
灯美はさすがに尋ねずにはいられなかった。
「いえいえ。あの目薬でひどい悪夢なんて見ませんよ。それは本当です。僕は基本的に、相談者さんに嘘はつかないたちなのです」
「基本的に……」
「ま、応用的にはありえるかもしれないという話です。それより、今は――」
と、そこでウロマは再び事務机の椅子に座った。いつものように、いつのまにかその机の上にはノートパソコンが置かれていた。しかも、しっかり電源が入ってシステム立ち上がっている状態で。
「何かパソコンで調べるんですか?」
「まあ、安芸山さんは何かと露出の多い方のようですからね」
ウロマはすぐにキーボードに触れ、パソコンを操作しはじめた。何をしているのだろう、気になって、ウロマの隣に回りこんでモニターを覗くと、ちょうど大手SNSのサイトにアクセスしたところらしかった。表示されているアカウントのユーザーネームはリュウイチ・アキヤマだ。
「ああ、さっきの人、こういうのやってるんですね」
灯美はさらに首を伸ばして、その内容を見てみた。企業の社長らしく、自分の仕事がどれだけ順風満帆かのアピールが多かった。また、ジムに定期的に通って体を鍛えているらしく、自分の筋肉に酔っているような写真も多かった。
「なんかちょっとキモいですね。お金持ちでイケメンだけど、こういう人はさすがにないかなあ」
思わず、素直な感想が口から漏れてしまう。そもそもおっさんだし。
「ところで、灯美さん。最近、こういうSNSがブームのせいで、動物保護施設から黒猫を引き取りたがらない人が増えているそうですよ。海外の話ですけどね」
「え、どういうことですか、それ?」
「黒猫は写真写りが悪いので、こういうSNSで写真を見せびらかすのには向かないのです。だから、どうせ猫を引き取るにしても、黒以外をと考える人が多いらしいのです」
「えー、そんなのひどい話じゃないですか。まるで動物を、アクセサリーか何かと勘違いしてるみたい」
「そうですね。実にかわいそうな話です。それでなくても、黒猫は昔から不吉の象徴と言われているのに……。ま、実のところは、幸運の象徴だったりもするんですけどね。日本でも、運送会社のマスコットにされていたりしますし」
「ああ、そういえば」
確かに、不吉の象徴というだけならそんなふうに使われることはないはずだ。
「僕としてはやはり、黒猫は不吉の象徴というより、何かよいものの象徴であってほしいものです。ただ黒いというだけで忌み嫌われるというのも、実に不憫なものですからねえ」
ウロマは錠菓を一粒口に放り込みながら言った。
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