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彼が次に足を運んだのはキッチンだった。
「これはおそらく、彼がてんかん発作を抑えるために食べていたものでしょう」
「これが?」
灯美と小百合はともに首をかしげた。ウロマが指をさしているのは、冷蔵庫の隣に積まれているマカダミアナッツの空き缶だった。
「マカダミアナッツを食べることが、てんかんの人にはいいんですか?」
「マカダミアナッツというより、糖質制限そのものが有効なのです。てんかんの発作の予防には」
「え、そうなんですか?」
灯美はちょっと信じられなかった。糖質制限なんて、ダイエットのやり方としてしか知らなかったし、それがどう脳の病気と結びつくのかまったくイメージできない。
「昨日も言いましたが、糖質制限のダイエット効果、健康効果については、今現在では学者の間で意見が大きく分かれるところであり、強い科学的根拠があるとはとうてい言えません。僕個人としては、単なる偏食だと考えているくらいです。しかし、そんな偏食を、あえて医師に推奨される人たちがいます。それが、てんかん患者です」
「糖質制限で、てんかんがよくなるんですか?」
「はい。個人差はありますが、およそ半分くらいの人において、症状が改善されるといわれています。そのメカニズムは長らく不明でしたが、最近になって、糖質制限によって腸内細菌叢が変わることが、てんかんの発作の抑制に関係しているのではと、明らかになってきました。腸内環境と脳は密接につながっているのです。まあ、これはてんかんだけの話ではないですが」
「へえ、腸の中から脳の病気がよくなるんですか」
また意外すぎる説明だ。
「これは特に、薬の効きにくいタイプのてんかんの人に推奨される食事プログラムです。ヒロセさんのてんかんのタイプがそうであったという証拠はありませんが、いずれにせよ念のために糖質制限をしていた可能性は十分にあります」
「なるほど、念のためかあ……」
と、灯美は一瞬、納得しかけたが、
「でも、その説明だと結局、ヒロセさんが単なる健康法として糖質制限していたのか、てんかんの発作を予防するためにやっていたのか、わかんないじゃないですか」
再び疑問を口にした。理屈としては理解できるが、さっきのサングラスの件と同様、決め手にかけると思ったのだ。
「もちろん、他にも彼がてんかんだったであろう証拠はありますよ」
と、ウロマはキッチンを出て、今度はリビングへ行った。そして、おもむろにテレビの横の収納棚から、ジェームズのコレクションのビデオテープを一つ取り出した。一見、ロボットアニメのようで、実は変身ヒーローモノとかいうやつである。
「昨日、この作品についての話を聞いたとき、ヒロセさんの行動で、一つだけ引っかかることがありました。それは、清川さんがこれを一緒に見ようと言ったとき、ヒロセさんが断ったということです」
ウロマはビデオテープを上に掲げて、灯美と小百合に言う。
「先生、それは、そのアニメの絵が雑だからって話だったじゃないですか」
「確かにこの作品の作画はひどいものです。しかし、ファンの多くは、そんなことは気にしていません。この作品で高く評価されているのはあくまでもストーリーなのですから」
「はあ?」
またオタク先生のしょーもないアニメ語りが始まったなあと思う灯美であった。
「つまり、この作品のファンならば、何も知らない清川さんが興味を示したときに、絵が雑だからと、一緒に視聴することを断るはずがないのです。むしろ、嬉々としてこう紹介するはずです。これは作画はゴミカスだけど、話は面白いから!と、ね」
「ゴミカス……」
何気にひどい言われようである。有名なヒット作品じゃなかったのか。
「にもかかわらず、彼は清川さんと一緒に視聴するのを断りました。それはつまり、この作品で多用されている映像表現に問題があったからだと考えられます」
「問題?」
「……実際に見てみればわかりますよ」
ウロマはすぐにそのビデオテープをテレビの下のデッキに挿入し、映像を再生した。人様の家なのに、勝手に。
アニメの物語は、記憶喪失の主人公が他のメインキャラクターたちに発見されるところから始まっていた。初回だからだろうか、言われるほど絵はひどくないようだ。さすがに古臭いが、面白そうな雰囲気はある。
「問題のシーンまで飛ばしますね」
と、ウロマはリモコンをいじり、早送りでキャラクターたちの細かいやりとりをぶっ飛ばし、主人公の変身シーンの直前で映像を止めた。そして、「よく画面を見てください」と灯美たちに言ってから、一時停止を解除した。
ウロマが何を見せたかったのかは、灯美にもすぐにわかった。その変身シーンの最後にはフラッシュのような激しい光の点滅の演出があったからだ。
「先生、もしかして、こういうのはてんかんの病気の人にはよくないんですか?」
「はい。てんかんを持つ人がこういう映像を見ると、さきほど説明した光過敏性発作を起こしやすくなります。この作品の場合、主人公の変身シーン以外に、必殺技を使うシーンでも光の点滅演出が激しいので、てんかんの人には視聴はおすすめできません」
「ああ、だから、ジミーは私がこれを一緒に見ようと言った時に断ったんですね」
小百合ははっとしたように言った。「ええ、そうでしょうね」と、ウロマはうなずいた。
「実はこういう激しい光の点滅の演出は、この時代の映像作品だと珍しくないのです。これが問題として認識されるようになるのは、この作品から数年後に放送された、ある子供向けアニメからです」
「あ、昔ありましたね、そういう事件!」
小百合は何か思い出したようだったが、灯美にはちんぷんかんぷんだった。話を聞くと、なんでも当時、かなり子供に人気があったアニメで激しい光の点滅演出をやらかしてしまい、それを見た多くの子供たちが健康被害を受けたのだという。当然それは連日大々的に報道され、大きな社会問題になり、以後、アニメだけではなく映画やビデオゲームなど、あらゆる映像表現にガイドラインが定められることになったのだという。
「これは精神医学の世界においても非常に衝撃的な出来事でした。やらかした日本のアニメのタイトルが、そのまま多くの学術論文に記載されているくらいです」
「へえ、そうなんですか」
知らなかった。自分が生まれる前にそんなことがあったなんて。
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