3章 握り過ぎた手
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「そうですか。息子さんは重い喘息で……それはお母さんも苦労されることでしょう」
「まあ、よその家庭よりは」
五十八歳の主婦、
「あ、そうだ。電話でも自己紹介させていただきましたが、改めてこちらを」
と、男は懐から名詞を出し、信子に差し出した。そこには「臨床心理士」という肩書きが書いてあった。信子は丁重にそれを受け取った。
「それで、息子さんの暴力の件ですが、どれくらいの頻度なのですか? また、どういったときに?」
「いつ、と、はっきり決まっているわけではないのです。私が何か話しかけると、たまにすごく気に入らないことがあるのか、暴れるのですわ」
信子はそう言うと、着ているカッターシャツの袖をまくり、二の腕を見せた。そこにはあざがあった。「それは、お母さんとしては非常にお辛いことでしょうね」と、男は同情の言葉を口にした。
「息子さんは、普段はどういう生活をされているのですか?」
「体が弱いので、ほとんど毎日家にいます。あの子、外に働きには出られないんです。一度就職したことがあったのですが、仕事中に喘息の発作が出てしまい、結局、働き続けるのができなくってしまって」
「なるほど。家ではどんなふうに過ごされているのですか?」
「ずっと自分の部屋にいますわ」
「では、お母さんとはそれほど一緒というわけでもないのですね」
「まあ、部屋に食事を持っていくときなどは、それなりに話をしますわ。あの子、根はすごく優しい子なんです。ただ、最近はちょっと感情的になることが多いみたいで」
「そうですか、では、家に閉じこもりきりの環境で、少しばかりナーバスになられているだけなのかもしれませんね。たまには、ご一緒に家の外を散歩するなどされてみては――」
「はあ? あなた、私の話を聞いてなかったんですか? あの子は体が弱いんです。だから外に出られないんです! それを、まるで無職の引きこもりみたいな言い方して! だいたい、家の外に出られないから心がだめになるって決まっているわけじゃないでしょう!」
「いえ、そういうつもりは……」
男は信子が突然激昂したことに、ひたすら戸惑っているようだった。
「や、やはり、こういうことは、お母さんだけではなく、息子さんからも話をうかがいたいものです。息子さんの体調が許せば、の話ですが」
「そうですか、あなたもやっぱり前の人と同じように、私が悪いって思ってるんですか?」
「え、前の人?」
「どうせ、心の中では、私があの子を甘やかしすぎなのがダメって思ってるんでしょう! 喘息持ちの子供を持つ母親の苦労なんて知りもしないで! あの子は、私が支えてあげないとダメなんです! 一人では生きていけないんです!」
「は、はあ。それはこちらとしても、十分理解しているつもりで――」
「じゃあ、なんで息子と話そうなんて言い出したんですか! 本当は、あの子の口から私が悪いってとれるような言葉を聞き出すつもりだったんでしょう! それで前の人と同じように私を責めるつもりだったんでしょう!」
「いえ、そんなつもりは、断じて――」
「もういいです、帰って下さい! あなたみたいな人では、話になりません! 違う人を探します!」
信子は激しくまくしたてると、うむを言わさず男を家から追い出してしまった。彼は、ほんの数分前に家に来たばかりだったのだが。
「なんで誰も、直春の喘息のことを理解してくれないのかしら……」
男を追い出した後、信子はため息をつきながら居間に戻った。また新しいカウンセラーを探さなくては、と考えながら。
と、そこで、居間のローテーブルの上に置きっぱなしだった新聞に目に止まった。その広告欄に、「あなたのお悩み、解決します。まずはお気軽にご相談を。ウロマ・カウンセリングルーム」とあったのだ。
「……次はこの人でいいかしら?」
信子はその広告をじっと見つめながらつぶやいた。
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