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まず最初は、鉄男が毎日欠かさず見ているテレビの音だった。それが急に聞こえなくなった。初めはテレビの故障かと思ったが、妻にはテレビの音は聞こえているようだった。鉄男の耳にだけそれが聞こえなくなったのだった。もしやこれが、あの男が言っていた薬の副作用というやつか。鉄男はそこでやっと、ウロマの警告を思い出した。
しかも、聞こえなくなったのはテレビの音だけではなかった。日を追うごとに、いろいろな音が、少しずつ鉄男の聴覚から消えていった。小鳥のさえずり音、電話の着信音、車の音、風に揺れる木々の葉の音……そしてついには、彼は妻の声ですら、まったく聞こえなくなってしまった。鉄男は大いにうろたえた。そのころにはもう薬は一切飲んでいなかったが、彼の聴覚から消失した音はいっこうに復活する気配はなかった。妻との会話すらできなくなって、不安なことこの上なかった。いったい自分はどうなってしまうのだろうか。このままだと、まさか、完全に聴覚を失ってしまうのでは……。
「そ、そんなこと、あってたまるかっ!」
鉄男はついに耐えられなくなり、もらった薬を携え、再びウロマのカウンセリングルームに向かった。
「おい、いったいどういうことだよ! この薬のせいで、音がどんどん消えていくじゃねえか!」
部屋に入るなり、ウロマに向かって怒鳴り散らした。ウロマのそばで、パイプ椅子に腰掛けて英語の単語帳を見ていたらしい女子高生は、そんな鉄男の剣幕にびっくりしたように肩をすくめた。
だが、当のウロマは冷静そのものだった。
「石川さん、それはあなたが、僕の言いつけを守らないからですよ。ほら、よく言うじゃないですか、薬は用法容量を守って正しくお使いください、って」
「うるせえ! なにが用法容量だ! こんな危ねえ薬押し付けておいて、よく言えたもんだぜ!」
「いやあ、僕ははじめからちゃんと念を押したつもりですけどねえ。これは、使い方を間違えると、ひどい副作用が出るから、気をつけてください、と」
鉄男が激怒しているにもかかわらず、ウロマは実に冷ややかだ。こいつは悪魔か何かか。鉄男は歯軋りして、にらんだ。鬼の形相で。
すると、そこでふと、ウロマはにやりと笑った。
「まあでも、まったく解決法がないというわけじゃありませんよ。石川さんが聞こえなくなった音を戻す薬も実はあるわけなんです」
「ほ、本当か!」
鉄男はとたんに前のめりになり、ウロマの言葉に激しく食いついた。
「戻せるのか! 俺の耳を!」
「まあ、ある意味そうですね。いわばその薬の副作用を打ち消す専用の薬と言っていいでしょう。ただ、これはこれでちょっと刺激が強い薬なので、あまりおすすめはしないんですが――」
「かまわねえ! 早くそれをくれ!」
もはや藁をもつかむ気持ちだった。
「では、どうぞ。さっそくお飲みになってください」
ウロマは前と同じく、無造作に机の引き出しから薬の入った小瓶を取り出し、鉄男に渡した。今度はそこに一粒しか薬は入っていなかった。鉄男は迷わず瓶を開け、その薬を飲んだ。他に選択肢はなかった。
「その薬の効果は少し遅れて出てきます。明日の朝にはきっと、聞こえなくなっていた音が再び聞こえるようになっているはずですよ」
「わかった」
どうやらこれで一安心のようだ。鉄男はウロマのその言葉を信じ、その日はまっすぐ家に帰った。
そして翌朝――鉄男は耳を劈くような、ものすごい轟音で目を覚ました。
「な、なんだ!」
布団の上で飛び上がり、音の出所を伺うと、それはどうやら家のすぐ外の木の上にいる小鳥のさえずりのようだった。それがなぜか、とてつもない音量で聞こえてくるのである。
と、そこで、妻がそんな彼のところにやってきた。
「あなた、朝っぱらから何を騒いでるの?」
と言うその声もまた、小鳥のさえずりと同様に耐え難い轟音になっていた。鉄男はあわてて手で耳を押さえた。だが、その程度では周囲から聞こえてくる騒音は遮断できなかった。小鳥の声は相変わらずうるさかったし、妻はそんな鉄男に何事かと不思議そうに問いかけてくるばかりだった。ものすごい音量の声で。
こりゃ、もしや昨日あそこで飲んだ、あの薬のせいか!
鉄男はすぐに原因を察した。そう、昨日ウロマとかいう胡散臭い男に差し出されるまま飲んだ薬、そのせいに違いない。あの男は言っていた。この薬を飲めば、翌朝には失った音は再び聞こえるようになると。そして、同時にこうも言っていた。これはこれで、ちょっと刺激が強い薬なのだ、と……。
「な、何が、刺激が強いだ! ほとんど毒じゃねえか!」
まさかこんな結果になるとは思っていなかった鉄男は、ひたすら憤るばかりだった。あのウロマとかいうやつ、なんと悪徳な男なのだろう。老い先短い自分にこんな嫌がらせをするなんて!
鉄男はそこで、再びあの男のところに抗議しに行こうと考えた。だがそこで不思議と、あの男のいる場所がどこだったのか、思い出せなくなっていた。さらに、あのカウンセリングルームの場所が書いてあるはずのチラシもどこかへ消えてしまった。一応、玄関の靴箱の上に置いておいたはずだったのだが、妻が処分したのだろうか、もはやそこにはピザ屋のチラシしかなかったのだった。
「くそっ!」
外界から聞こえてくるさまざまな、とてつもない音量の騒音に必死に耐えながら、鉄男は歯軋りした。
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