悪魔の視線
翌日の事である。
本日は日曜日であり、マリナとデートをすることになってしまった日でもある。
昨日はあの後しばらくの間、悶々と思考を巡らせていた俺だが、考えても仕方がないと割り切って夜中の一時頃には寝る用意を終えて自室に向かった。
しかしそこには、俺のベッドで爆睡するヘカテーがいたのだ。
揺らしても顔を叩いても鼻を摘まんでも全く起きなかった。
しかし幸せそうにグースピーする表情はまるで天使だった。
いや、コイツ悪魔だけど。
一緒に布団に入るわけにもいかず、そんなこんなでまたしても椅子の上での睡眠を余儀なくされた。
身体の節々の鈍痛で定期的に目が覚めては意識が無くなるのを繰り返し、気が付けば朝の九時になっていた。
確か正午に迎えに来るとか言ってたな。
デート……マリナが何を意図してそれを望んだのかは分からないが、マリナに返すべき恩があるのは紛れもない事実だ。
つかさに吹き込まれたにせよ、マリナが俺とデートをしたいなら喜んでしてやろう。
だが。
問題点が三つ。
一つは俺にはデートの経験が無いという事。
二つ目はつかさが面白半分――かどうかはよく分からないが――でマリナに入れ知恵している事。
三つ目はマリナがこの世界の人間ではないという事。
……。
何かが起こる気しかしない。今から気が重くてならん。
半分寝ている眼と身体を覚醒させる為にコーヒーでも淹れようかとキッチンに行ったところで、見たことのある服が目に入った。
黒が基調の、ひらひらの付いた今般のメイド服に近いお嬢様のような、俗にいう地雷系の服だ。
そのひらひらな服がふわふわとキッチン付近で浮いていた。
無意識に俺がそれを手にした瞬間に服は効力を失ったか浮くのをやめて俺の手にぶら下がった。
「この服は……」
そう、ヘカテーが着ていたものだ。
ということは?
「あらあら、人間。おはようございますですわ」
俺の背後から聞き覚えのある悪魔の声。
嫌な予感がして一瞬振り返るか悩んだが、俺は振り返ってしまった。
そしてやっぱり、そこには半裸のヘカテーが立っていた。
具体的に言うと上下に純白の下着を着ているだけだった。
「ぅわ!! なんでお前そんな恰好なんだよ!」
慌てて前に向き直って俺は声を荒げた。
ハジメテオンナノコノ下着姿ミチャッタカモ。
「なんでって、
「とととにかく早く着てくれ!」
俺は力んで握りしめてしまったヘカテーの服を、背後を見ないように声の元へ差し出した。
それが優しく俺の手から奪われた後、衣服の動く音が聴こえてきた。早く着てくれ。
数秒後、ヘカテーは、
「人間は意外とおませさんですのね。十五歳の
「興奮なんかしてないよ! ただ女の子が無闇にそんな格好をするもんじゃありません!」
「あら、無闇とは勘違い甚だしいですわね。一応お礼のつもりでしたのに。もうこっちを向いていいですわよ」
無感動な口調でヘカテーはそう言った。
俺は「お礼ってなんだよ」と言ってから息を吐きながら振り返ると、そこにはあられもない姿のヘカテーがオッドアイをニヤニヤさせながら立っていた。
具体的にいうと全裸だった。
「うわ!! 何で更に脱いでるんだよ!」
顔を背けて眼を閉じる俺。ハジメテオンナノコノ全裸ミチャッタ。
唐突過ぎてしっかりとは目視できなかったが、女性らしい綺麗な曲線を描いていた。
胸は、控えめだったけど。
「オーホホホ! その動揺と狼狽、最高ですわね。……ん? 人間、どうして若干の落胆のオーラが混じって出ているんですの?」
「いいから早く服を着てくれ!」
「さては……はぁ。どうして人間は異性の胸部に重点を置きまして? 大切なのは大きさでは無くて形ですのに」
エロオヤジみたいなこと言いだしたぞこの悪魔。
「とにかく服!!」
「人間には借りがありますわ、ソチラ方面の欲求を満たしたいならいつでも言って欲しいですわ。色欲担当の姉さまから多少なりとも技を教わっておりますのよ」
色欲担当って……。
なんちゅう恐ろしくも魅力的な提案してくるんだよ。
って、違う違う、やめろ、十五歳の女の子に変な気を起こすな俺のバカ。
「ヘカテーちゃんはもっと、自分を大切にしてくれ!」
「……そんなに色欲を漏らしながら言われましてもねえ……オーホホホ!」
「服!!」
* * *
なんとかヘカテーに服を着てもらった後、「お腹がすきましたわ」と小うるさかったので、俺は自身のブランチも兼ねて何かを作ることにした。
しかしながら冷蔵庫にはほぼ何もなかった。買出しにも行けてないしな。
そんな訳で余っていた食パンと牛乳でフレンチトーストを作ることにした。
大きめの容器に砂糖と卵と牛乳を投入して混ぜ合わせ、そこに切った食パンを置き両面万遍なく浸す。
十分に浸透したところでフライパンを温め、バターと共にパンを投入。
両面焼き色が付くまで焼いた後、皿に盛り付けて最後に蜂蜜を適量かけるのが俺流だ。
「これは……なんていう食べ物ですの?」
「フレンチトースト」
「ふ、ふーん。いただきますわ」
テーブルに行儀よく座っているヘカテーは、何故か恐る恐るフレンチトーストを口にした。
ヘカテーが頬張ったのを見てから俺も口に運ぶ。
「見た目はオルトロスの糞にしか見えませんけれども、あ、味はなかなかいけますわね。ヒュドラーの卵に似ていますわ」
「…………」
食欲が一気に無くなったんですけど。
「それにしても、マリナストライアはどこにいるんですの? 気配的にはそう遠くはなさそうですけれど」
「つかさの家にいると思う」
「あー、あの言葉の汚い女の方ですわね」
つかさの家は歩いて五分程度。割と近所である。
高校卒業を機にここで一人暮らしを始めた俺だが、決してつかさの家が近いからここを選んだわけではない。
一番の決め手は歩いてすぐの所にあるスーパーだった。
食材がビックリするほど安く手に入る。
気付けばヘカテーはフレンチトーストを平らげ、食器を流しに運んでいた。
食べたものをすぐ片づけるのは偉いですよ、悪魔さん。
でも、ふんぞり返って魔法で食器を浮かせて運ぶのはどうかと思うけど。
俺も一息遅れて平らげ、皿を片しながらヘカテーに一つ質問をすることにした。
勿論、マリナの為に、である。
「なあヘカテーちゃん、マリナと君はどうやって向こうの世界からここに来たの?」
「なーに、簡単な事ですわ」
そう言うとヘカテーは座ったまま赤い長髪を手で払い、ニヤリと八重歯を出した。
「五次元に干渉する魔法を使ったにすぎませんわ」
簡単じゃないしよく分からない。
でもそれを応用すれば……。
「元の世界……プリュギアだっけ? に戻ることもできるってことだよな」
「プリュギアは国の名前ですわ。それと、残念ながら、現状この世界からあちらに戻る術は無いですわね」
「え!?」
「五次元干渉魔法……ディアスタシー・レイトロギアは、大規模な魔法陣が必要ですわ。いくら
「魔法陣って……
「無理ですわね。そもそも魔法陣の作成には魔族や怪物の亡骸が必須ですもの。この世界にそれらの類は居ないようですわ」
「それじゃ、ヘカテーちゃんも元の世界に戻れないってこと?」
「そうなりますわね」
さも平然とヘカテーは答えた。
いや、そうなりますわね、じゃなくて。
「マリナをプリュギアに帰すことは?」
「現状私の力では無理ですわね。まあ私はマリナストライアが居る世界ならどこだっていいですわ」
やっぱりこいつは悪魔だ!
己が良ければ全て良しの自欲の塊じゃないか。
「マリナの気持ちはどうなるんだよ! もう二度と戻れないかもしれないんだぞ?」
「あら? マリナストライアは
「それは、そう言ってたけど……」
それでも、俺はマリナは自分の世界に帰るべきだと。
そうすることがあの子の為だと思った。
そんな俺の心中を見抜いてか、ヘカテーは赤と紫の眼を冷たく細めて、
「それは、人間の勝手な考えですわ。マリナストライアがどうしたいか、それを尊重せずに従属の申し出を断って追い返す。それがあの子の為に本当になるんですの?」
震えあがるような冷酷な声音でそう言った。
その不気味な微笑みは、悪魔のそれそのものだった。
「まあ、どちらにせよ元の世界に戻る術は現状ありませんの。仮に
そして急にしおらしくモジモジしだすヘカテー。
そうまでしてでも仲良くしていたいくらいマリナが好きなんだね。
「…………」
俺はテーブルに座り、口を噤んで考える。
マリナがどうしたいか。
そして俺がどうしたいのか。
そりゃマリナは綺麗だし可愛いし、付き従ってくれるなら嬉しいことこの上ない。
主とか呼ばれるのはちょっとアレだけど。
しかしそれが本当に正解なのか、お互いの為になるのか、皆目見当がつかない。
異世界からの転生者だ。スケールが違いすぎる。
そりゃ考えがすぐに纏まる筈がない。
またしても深い溜息をついてしまった。
「まあ、しばらくの間はこの現状を楽しむのも手ですわよ。折角意思疎通を取りやすいように
心の奥底に意識を静める俺に、穏やかに声を掛けてくるヘカテー。
もしかして心配をしてくれたのだろうか。
というか言葉が通じたのもヘカテーのおかげだったのね。
まあなんにせよ。
現状どうすることも出来ないのは事実の一つだな。
今はそう、悪魔の言う通りにしてみよう。
差し当たっては……。
そう小さく決意した瞬間に、インターホンが鳴った。
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