リバーシブル・マンドラゴラ

コトリノことり(旧こやま ことり)



 リアヌは絶望していた。


「クロノ、クロノ、頼む、目を覚ましてくれ…」


 真夜中、月明りと一つの燭台だけがともされた薄暗い部屋の中。

 リアヌは自分の従者である、クロノの手を握りしめていた。

 侯爵家次男として生きてきた自分とは違う、護衛騎士でもあるクロノの手は自分より大きくて、皮膚がかたかった。いつもならその手は、頼りがいがあって、いつでもリアヌを守ってくれるものだ。この世で唯一、リアヌが安心できるぬくもりのはずだった。


 けれど今は、その手は、恐ろしいほどに冷たい。


 こんこんと、ベッドで横になり眠るクロノは、胸から肩にかけて大きな包帯を巻いている。その傷はリアヌが暗殺者に狙われて、かばったためにできたものだ。

 ただの怪我だったら、クロノはいつも通り平然とした顔で、「夜更かしはいけませんよ」と諭してくれただろう。

 問題は傷をつけた剣の刃に、毒が塗られていたことだ。

 毒と傷をおったせいで、クロノは今、生死の境目を漂っている。


「僕のためにお前が死ぬなんてこと、やめてくれ」


 リアヌは確かにこの家の次男だが、父も腹違いの兄も、父の正妻である夫人も家族だと思えたことはなかった。

 今年で十六になるが、きっとクロノがいなかったらこの生はもっと早く終わってしまっていただろう。夫人はリアヌを毛嫌いしている。今回の刺客だって夫人からだろう。

 リアヌの母はどこかの平民だった、らいし。よく知らないのは母は心の病を患っていて、幼少のころからろくに会話もしたことがなかったからだ。いつも空中を見てぶつぶつ呟き、毎日薬を飲んでいた。


 そしてリアヌが7歳になるころに、部屋の窓から叫びながら飛び降りた。リアヌの目の前で。


 そのころから自分はだれにも望まれていないのだというのを理解していた。そんな自分が、なぜ生きているのかと、リアヌはずっと疑問だった。それでも今日まで生きていられたのは、クロノのおかげとしか言えない。

 リアヌより8つ年上のクロノは、表情はめったに変えないけれど、いつでもリアヌの側にいて守ってくれた。うまくできたことはちゃんと褒めてくれて、悪いことをしたら落ち着いた声音で叱る。たまにしかないけど、嬉しい時も素直に笑みを見せず、ただ困ったように眉を寄せて唇の端をあげるクロノが、リアヌは好きだった。

 だから、目の前でクロノの命が尽きようとしているのを、黙って見ているだけなんてことに、我慢できなかった。

 ぎり、と唇を強く噛む。血がにじみ出てきているが、その痛さなど今のクロノに比べればなんてことはない。

 リアヌは決心する。


「……僕の命に代えても、お前を救ってみせる」


 本当に息をしているか、不安になるほど、身じろぎ一つしないクロノの顔を眺める。

 そしてゆっくりと、かすかな呼吸を繰り返す、固く閉ざされた唇に自分の唇を重ねる。

 寝ている隙に唇を奪うなど、そんな卑怯なこと普段のリアヌなら選ばない。だけど、これが最後になるかもしれないから。

 冷えた唇に少しでも自分の熱が伝わるように、不器用に自分のそれを押し付ける。

 唇を離すと、自分の切った口から出た血が青白くなっているクロノの唇を赤く彩っていた。それを指先でなぞり、名残惜しさを感じながらリアヌは部屋をでた。



 ――――北の森には、幻のマンドラゴラが生えているという。



 リアヌはマンドラゴラを見たことは、ない。

 だけど北の森はリアヌの家の管理下で、屋敷から馬で行ける距離だ。森は厳重な警備がしかれ、無法者が入れないようにされている。まことしやかに、「マンドラゴラがあるから、あの森にはいれないようにしているのだ」と噂が流れていた。

 名目上は未開拓で危険だからというが、あの父親がそんなことでわざわざ警備に金をかけるとは思えない。少なくとも、なにかがある。

 それに何より、リアヌはとある絵を見たことがあった。

 母親が狂ったように描いていた絵。

 殴り書きのように、怒りと憎悪のすべてを向けたように描いては捨て、描いては捨てていた、なにかの植物の群生地の様子。

 手元にはなくとも、あの怨念がこもった絵は、すぐに脳裏に思い出せる。


 リアヌはずっとこの屋敷で息をひそめて生きてきたから、闇夜に紛れて屋敷を出て森に向かうのは簡単だった。もし気づくものがいるとしたら、従者のクロノか、リアヌを狙う暗殺者くらいだろう。そのクロノはいま意識はない。どうか、その暗殺者は今宵は狙いに来ないでくれ、と祈るしかなった。

 おとなしい馬をひっつかみ、森へ駈ける。

 森には番所がある。そこを避けようとしたら、あちこちに仕掛けられた鳴子がなって侵入者はすぐに気づかれる。さすがにリアヌはそんな罠除けの知識などなかった。

 だからリアヌは、真正面から森の番所に向かった。


「――おい、ここは立ち入り禁止だ。さっさと立ち去れ……って、リアヌ坊ちゃん!?」


 番所から顔を出したのはひょろりと背の高い騎士姿の男。最初は眼光鋭かったが、来たのがリアヌだとわかった途端に慌てだした。


「エド、頼む。僕を森にいれてくれ」

「いやあ、いくら坊ちゃんの頼みといっても、それは……」

「一時間。一時間だけでいいんだ。一時間たったら、森に入った僕を探しに来てくれ」

「は? 何を言ってるんですか」

「クロノがいま、死ぬかもしれないことはお前も知っているだろう?」


 クロノの名前を出した途端、困り顔をしていたエドの顔は険しくなる。

 エドは長年、この家に努める騎士の一人だ。特にずっとこの森の警備をしていて、今では警備隊長だ。

 リアヌは彼との接点はほぼなかった。だが、クロノが彼と親しい友人関係にあると知ってからは軽い会話をかわすようになった。

 エドだってクロノを見殺しにするのはよしとしないだろう、という賭けに近いものだった。

 エドはしばらく逡巡したのち、溜息をついた。


「一時間だけですよ」

「それでいい。一時間たったら僕を探してくれ。そしてエド、約束してくれ。もしも、もしも僕の試みがうまくいったら、絶対にクロノを助けると」

「坊ちゃん、あんた、もしかして…」


 リアヌは懐から袋を取り出しエドに押しつけた。それはリアヌが所有することが許された宝石や貴金属のすべてだった。売り払えば、このさき十年は遊んで暮らせるだけの価値になる。

 そしてリアヌはエドの制止を振り切って、森の中へ踏み込んだ。

 ほとんど道が見えない。不思議なことに、動物の気配もなかった。

 そしてどれくらいの時間がたったか。

 ひたすら何かに導かれるように進んでいった先に、それはあった。


「これが……マンドラゴラ」


 それはまるで、小さな人参畑のようだった。

 二つの大きな葉をつけたなにかが地中に埋まっている。それは、リアヌの母が描いていた絵と同じ姿だった。

 これが全て本物のマンドラゴラであれば、一攫千金どころではないだろう。

 なぜこんな辺鄙な地で、自分の家が他の貴族に劣らない、いやもしくは勝っているかもしれない暮らしができているのか。これこそが理由だろう。

 リアヌにとって、今は家の暗部には興味がなかった。ただ一つ胸に占めているのは。



――マンドラゴラは、万能薬のもととなるという。



「マンドラゴラさえあれば……クロノは、助かるかもしれない」


 思い出すのは、クロノの大きな手。

 ふと落ち込んだときに。寂しさを感じた時に。

 クロノはいつだって主従の線引きをしていた。だけど決まってリアヌがどうしようもなく、孤独を感じた時、ただ無言でリアヌの頭を撫でてくれた。

 あの手にどれだけ救われただろうか。

 けれどそのクロノが今、リアヌをかばったせいで、死ぬかもしれない。



――マンドラゴラを地中から引き抜く時、その悲鳴をきいた人間は発狂して死ぬという。



 クロノのためならばリアヌは自分の命など惜しくはなかった。

 むしろこのままクロノがこの世からいなくなったら、リアヌの未来はすべて暗闇に覆われる。その結果、後追いするように死を選ぶだろう。

 それならば、わずかな希望に賭けるしかない。

 たとえ自分がマンドラゴラを引き抜いて死んだとしても、エドが見つけてくれる。

 その先は、エドのクロノへの友情を信じるだけだ。ひょうひょうとして、たまに野卑なところを見せるが彼は情け深い人間だとリアヌは知っている。きっとよきようにしてくれる。


 リアヌの命を懸けて抜いたマンドラゴラを、クロノのために使ってくれる。


 知ったらクロノは怒るだろう。決して声を荒げることはなく、叱るときはこんこんと冷静に説く彼が今の自分を見たら、大きな声を出してくれるだろうか。

 青々とした、緑の葉に震える手を伸ばす。


「マンドラゴラの悲鳴、か。……それは母上の悲鳴よりも、ひどいものなのだろうか」


 目の前で、叫びながら投身自殺した母親。

 それこそ狂いそうになるほどの死の絶叫は、やまない耳鳴りのように、耳の底でいつだって鳴り響いている。

 あれ以上の悲鳴など、存在するとは思えなかった。

 だが、抜けばわかるだろう。

 リアヌは大きく息を吸って、マンドラゴラの葉を握りしめた。


「僕の命を持っていってくれていい。どうか、クロノを救ってくれ」


 愛しい人の顔を思い浮かべながら、リアヌは握る葉を引き抜くために、ぐっと力をこめた。


「――お待ちください、リアヌ様」


 けれど、それはできなかった。

 まさに引き抜こうとしたその瞬間、自分の手に、かぶさるように大きな手が重なった。

 見間違うことなどない、手。

 何より、後ろから聞こえた声は。


「クロ、ノ」

「まったく。あなたは、私が目を離すと、とんでもないことをしようとする」


 振り向けば、リアヌに覆いかぶさるように、さっきまでベッドの上で横になっていた自分の従者。

 クロノがいた。


「クロノ、なんでここに。いや、それよりも、怪我は、毒は」

「医者が処方した薬が先程きいたところです。エドが知らせてくれて、急いでここにきました。……間に合ってよかった」


 眉を寄せ、クロノは優しく丁寧に、リアヌの手を、マンドラゴラから引きはがす。

 リアヌはいまだ混乱していた。


「ほんとうに、クロノ、なのか」

「そうです。あなたの従者の、クロノです。幽霊でもありませんよ。ほら、ちゃんと身体があるでしょう?」


 マンドラゴラから遠ざけた手をクロノは包み込む。そこには確かなぬくもりがあって。いつも感じる、クロノのぬくもりが。

 それが分かった瞬間、リアヌの目からぽつりと涙がこぼれた。


「……よかっ、たっ。クロノが、死んで、しまうんじゃ、ないかと。だから、僕は」

「私の命も体も、すべてあなたのものです。なのに、そのあなたがいなくなってしまえば、助かったところで私の命と体の行き場所などなくなる」


 ぽつりぽつりと、流れる涙をクロノは自分の唇で拭った。涙を舐められ、そして瞼に優しくキスされる。


「もう、大丈夫です。今回は心配をかけさせて申し訳ありません。ですが、どうか、御身を大切にしてください。もう二度とこのようなことはしないと、誓ってください」

「クロノ、クロノっ。すまない。だけど、どうか、お前も、僕に誓ってくれ。絶対にそばを離れないと」

「誓います。もう二度と、あなたの側から離れません」


 震える身体を抱きしめられる。自分の身体をすべて包むようなその大きさに、あたたかさに、リアヌは安堵した。

 クロノが生きている。ここにいる。自分のそばにいる。

 ようやく、リアヌは自分の世界を取り戻した気持ちになった。


「けれど、私もあなたに許しを請わなければいけません」


 困ったように眉を寄せ、声をひそめるクロノにリアヌは首をかしげる。


「私のために、自分の命を賭けても救おうとしてくださった。主の命の危機だというのに、それでもそのことを喜んでしまった浅ましい私を、どうか許してくれませんか」


 リアヌはぱちくりと目を見開き、それからくしゃくしゃに顔をゆがめ、嗚咽混じりに呟いた。


「ゆるす」

「ありがとうございます、リアヌ様」


 クロノはリアヌの手をとって、その甲に唇を落とす。

 騎士の誓いのようなそれに、リアヌは張りつめていた気が途切れ、安心したように目を閉じた。



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