僕の橋姫

百目青龍

01

 想いだす。幅のひろい、ゆったりと流れる河だった。

 これは拭えない罪に苛まれる僕と橋姫、それから鬼をめぐる物語である。

 舞台は僕らの少年時代へと遡る。


 ※


 岸辺で遊んでいた、或る夏の昼下がり。僕ら悪童コンビは、つい気が大きくなって河の中ほどにある砂州へと遠征することにした。

 危険だから砂州には行ってはいけない。そんなことは重々、承知していたはず。子どもだからといって莫迦ではない。

 ――が、ひと月ばかり雨は降っておらず、水嵩はずいぶん減っていた。靴を濡らす渡っていけたのが災いした。水不足で河べりは干上がっている。そこから中州にむかって美しい砂の小径が伸びていた。


 河が夏の匂い、燦く水のざわめきを運んでくる。

 到達不能なブルーに深まりゆく空は途方もないひろがりをみせていた。

 空気はかつてないほど澄みわたり、天上的なルクスに満ちあふれている。どこにも死を暗示するような不吉な前兆はないように思えた。

 僕らは夏のシンボルである捕虫網を風に泳がせ、蛇行する道を意気揚々とたどっていった。


 ご近所に住む一つ年下の男の子は、首から紐で結わえた家の鍵をぶら下げていた。

 彼は一人っ子で、母子家庭の家に育った。いわゆる鍵っ子である。彼のお母さんは、朝早くから星を見上げながら家を出て、夜は星を背負って帰ってきた。

 ともあれ、彼に関して記憶しているデティールはそれくらい。仲が良かったはずなのに相棒だった男の子の名前はおろか、顔すらも憶えていない。


 僕らは砂州に上陸した。水が砂を寄せ集め、堆積してできた中州は大きな船の甲板を想わせた。

 草は生えていない。

 砂は乾き、夢のように白くキラキラと輝いていた。眼にしみる青い空、すぐかたわらを流れる河。

 僕らは胸躍らせながら空想した。

 銀色に燦然と輝く三角の波を蹴立てる船に乗り、海賊にでもなった気分で捕虫網を旗さながら振りまわす。相棒とは時が経つのを忘れて遊び呆けた。


 ふと思いついて拾った木の棒で砂地に穴を掘ってみた。

 驚いたのは、あれほど砂が白く清潔に乾いていたにもかかわらず、水がいきなり滲みだしてきたことだ。窪みにどんどん水が溜まってゆく。穴を広げれば小さなプールにでもなりそうだった。面白がった僕は、調子に乗って掘りすすめていった。


「もうやめようよ」

 不安にかられたのか、相棒は情けない声で言った。

「どうして? 面白いじゃん」

「怖いよ」

 相棒は明らかに脅えていた。

 彼が悪童ぶりを発揮できたのは、きまって僕とつるんで悪さをするときに限られた。ふだんは大人しく、声の小さな少年だった。

 掘った場所から水がこんこんとあふれだす。それはまるで船底に開けられた穴から噴き出す海水みたいだ。


「帰ろう」

 相棒の声は弱々しかった。

「帰らない」

 強気な僕だった。

「帰ろうよ」

「帰らない」

「帰ろう。風だって吹いてきた」

「風なんか怖くない」

 何度もおなじ問答をくりかえした。怖ければ一人で帰ればいいものを僕の顔色ばかり窺っている。僕は相棒のこと、情けない奴だと軽蔑し、嘲笑った。


 水はいよいよ泉となってあふれだし、勢いは止まらない。中州は沈没しかけた船になろうとしていた。

 すでに時刻は午後四時をまわっている。

 海が近かったから満ち干が影響していたかもしれない。たちまち砂州を水が覆い尽くし、踝の高さにまで河が押し寄せてきた。

 海賊旗のように立てていた捕虫網が倒れ、一瞬にして流れに呑まれた。

「逃げよう」

 と叫んだが、すでに手遅れ。


 うなじをぽつり、と雫が濡らす。

 山から滑り下りるようにして不吉な雨雲がやってきていることに気づけなかった。また山で降った雨が濁流となって下流域に押し寄せてもいた。時間差で河が氾濫するといった知識は、その当時の僕にはなかった。

 すぐに雨は横殴りに打ちつけてきて痛いほど。ごう、と風が音を立てて吹きまくり、激しく降る雨でまわりが白く煙った。

 このままでは水に呑まれる。


「走るぞ」

「う、うん」

 相棒に呼びかける。

 僕は脇目もふらず、波が寄せてきて河に没しようとしている小径をバシャバシャしぶきを上げながら走った。

 ほとんど水没しかかっていたが、何とか走り抜けることができそうだ。

 もうすぐ岸辺に着く。そう思い、安堵したのだが。

「みのるちゃんっ!」

 背後から鋭い声が鼓膜を打った。

 思ったよりもはるか後方、相棒は押し寄せる水に翻弄され、立ち往生していた。


「何してんだ、早くこいッ!」

 叫んだが、怖れをなして動こうとしない。風に煽られ、ふらふらと上体を危うげに右に左に揺らしている。このままだと足をすくわれ、流れに落ちてしまう。

「間抜けッ」

 舌打ちすると、水圧によって足を持って行かれそうになりながらも、相棒が動けないでいる地点まで戻った。


「みのるちゃん。みのるちゃん」

 相棒は泣きじゃくっている。もう足もとの砂地は崩されつつあった。バランスを失えば川に攫われてしまう。

 辺りはさっきとは打って変わり、一面の豪雨となっていた。耳が雨に聾され、声は聴こえにくいし、視界は水煙で閉ざされようとしていた。

 もうすぐだ。

 相棒に手を伸ばし、肩を摑みかけた。

 と。

 摑み損ねて、彼が首から下げている紐を握って……。

「あ」

 ぷちッ。

 音こそ聴こえなかったが、紐は切れた。

 相棒は斜めに水の中に倒れ、瞬時に見えなくなった。


「うあああっ」

 それから後に起こったことは断片的な映像が胸に浮かぶだけ。その後の顛末はまったく覚えていない。

 そして僕の右の拳には、彼の家の鍵が握られていた。

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