02
雨は小康状態となり、夜の訪れとともに嘘のようにやんだ。
びしょ濡れで家に帰ったあと、お母さんからこっぴどく叱られた。が、僕はなにも釈明しなかった。いや、たんに喋りたくなかっただけだ。お風呂に入ってぬくもったが、ご飯を食べずに布団に潜りこんだ。怖かった。歯を鳴らしてガタガタ震えた。拳が痛くなるほど強く握りしめている。拳の中には鍵があった。
夜は更け、おそらく九時すぎだったろうか。ふいに呼び鈴が鳴った。僕は布団の中の暗がりで耳を澄ました。
呼び鈴は何度も激しく鳴らされた。それは誰かの悲鳴にも感じられた。
母親のぶつぶつ言う声と、苛立たしげに廊下を踏む音が聴こえた。
玄関のドアを開ける音とともに、弱々しい女の人の声がくぐもって届いた。でも、話の内容までは聴き取れない。
「……知りませんよ。息子は遊んでません」
僕の母親の声だけが、識別できた。キッパリ断言したその声は、おそろしく無慈悲な冷たさでもって打ちつけた。
おそらく相棒の母親がきたのだろう。帰宅したら電気は灯っておらず、家の中は真っ暗闇だった。当然、家はからっぽ。もしかしたら友達の家に厄介になっているかもしれない、と思い、一縷の希望にすがってやってきたのだろう。
実をいえば相棒と遊ぶことは固く禁じられていた。鍵っ子という素性の卑しい子どもと遊んではならない。それが僕とお母さんと交わしたルールだった。
けど僕は一方的に約束を反故にした。そんなわけで相棒と遊んでいたことは内緒だった。ご近所の悪童コンビを知らなかったのは、灯台下暗しとでも言おうか、僕の母親くらいなものだったろう。
にべもなく撥ねつけた母親に対し、なおも申し訳なさそうな態度ではあったものの、食い下がり続ける女の人の声が耳に入ってきたが、やはりその内容まではわからない。
業を煮やしたのだと思う。帰ろうとしない彼女に向って、母親は激した調子でこき下ろす。
「だから、友達じゃありませんって、さっきから何度も申し上げているでしょう。一緒に遊ぶはずないんです。だって禁止しているんですから! 母子家庭の子と遊んじゃいけませんって、それはそれはキツく言い聞かせてるんです。さしずめお宅の息子さんは家出でもしたんじゃないですか? だったら警察にでも行けばいいんです! さっさと捜索願いを出したらいいんです!」
そのあと、しばらく言い争う声が交錯し、
「もう帰ってくださいッ!」
母親の剣幕に追い立てられるようにして、しだいに弱々しい声が家の外へと押し出されてゆく。ドアが閉ざされる大きな音のあと、急に静かになった。
しかし相棒のお母さんが二階の僕の部屋をジッと見上げているような気がしてならなかった。
耳を澄ましているうちに女の人が立ち去って行ったのが、なんとはなしにわかった。
それから何日も経ったけれど、相棒は見つからなかった。きっと海まで流されてゆき、魚の餌となったに違いない。相棒の肉体は、この星の生態系の循環システムのなかに溶けて無くなったのだ。
そうして歳月は容赦なく流れ去っていった。僕は大学進学をきっかけに郷里を離れ、都会へと旅立った。その頃には、もうすっかり河に消えた相棒のことなんか忘れ、青春を謳歌していた。大学を卒業してからは中堅の保険会社に就職が内定し、結婚もした。
相棒の家の鍵は手放さなかった。それは秘密の鍵だ。ずっと死ぬまで、それこそ墓場にまでポケットに忍ばせ続けねばならない罪にまみれた鍵でもあった。
時に不思議に思うことがある。死んだのが相棒であって、なぜ僕でなかったのか、という疑問だ。
あの日のあの瞬間、風に煽られて均衡を崩し、河に倒れていったのが僕であってもちっとも不思議ではなかった。そんなことは、ごくささいな違いでしかない。
相棒の顔貌は忘れてしまっても、結局のところ捨てることができなかった鍵を見るたび、犯した罪のおおきさに戦慄してしまう僕なのだ。
鍵を見るたびに思い出す。青く果てしなかった空と、キラキラ輝く中州。
そして、もう完全に記憶の彼方に放逐されてしまったはずの少年が、茫漠とした幽霊じみたシルエットとなって笑いさざめき、いまもなお、はしゃぐ姿を。
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